第4話 脱走
私達は何が起きたのか分からずに、ただただ茫然と立ちつくした。得体のしれない何かが起きている、という事しか判らなくて、理解できないという事実が、私の脳を麻痺させ停止させる。
最初に我に返ったのは浩だった。
「今のって……」
そう言う浩の顔は真っ青で、カチカチと歯の根があっていない。右の掌が、折れた左の腕を支える白衣を強く掴む。
少しの沈黙の後に鹿島が口を開いた。
「気にすんな。それより正面出口がダメって事は別の出口を探さないとな」
「でも……おかしいだろ、こんな放送、まるで」
「気にすんな!」
涙目で言い募ろうとする浩に鹿島が吠える。彼のこんなに大きな声は初めて聞いた。
気圧されて黙る浩を庇う様に綾子が間に入る。
「鹿島さん、」
綾子が鹿島に声をかけ、だが動きを止める。ライトの照らす鹿島の顔は浩と同じくらいかそれ以上に青ざめていた。
「怪物も幽霊もポルターガイストも、そんなもんは俺の専門外なんだよ! それを解明して出口が現れる保証があるのか? 無いなら何もかも全部気にすんな! 時間の無駄だ! 俺達はとにかく生きて出る、それだけだ! 違うか?」
鹿島は一通り捲し立てると、肩で息をしながら私達の顔を一人一人睨むように見る。私達は何も言葉を返せず固まってしまい、鹿島は再び分電盤へと視線を戻した。
「……鹿島の言う通りだ。出口を探そう」
黒藤が浩の肩に手を置く。浩はまだ言いたい事がありそうに口を開いたが、しかし逡巡した後「……分かった」と頷いた。
鹿島は片っ端からブレーカーの名称を目で追う。
「空調はダスト空調……外気取入れのダスト管……いや、さすがに紀伊でも通れないか……屋上……も、鍵が閉まってたんだよな。あとは……エレベーターの機械室……現実的じゃないな……」
「MW……と言う部屋は無いのでしょうか?」
綾子はポケットに入れていた鍵を手に鹿島に尋ねる。
「MWってのは……いや載って無いな。略称なんだろうが……ん?」
鹿島は何かを見つけて黒藤を振り返った。
「おい獣医、この『検疫室』と『動物受入室』ってなんだ? 見取り図にないからこの名称が消えた辺りだと思うんだが」
鹿島の指さすそこには『検疫室』『動物受入室/夜間外灯』と書いてある。鹿島の言葉に黒藤は目を見開いた。
「検疫室は動物が病気を持っていないか調べる部屋で……動物受入室は外部業者から備品や動物を搬入するための部屋だ」
『外からの搬入』するための部屋。それはつまり。
「つまり動物受入室は外に通じている」
「出口ですね!」
私と綾子は顔を見合わせて手を取った。鹿島も、さっきまで泣きそうだった浩も、明るい表情を浮かべる。まさしくそれは『光明』だった。
「アタリだな! これがあるとしたらどこだ?」
見取り図を受け取った黒藤が一通り確認して、指を降ろす。
「外壁にも検疫室にも直通していて一時保管の倉庫も確保されている……恐らくこの部屋だ」
それは三叉路に別れたクリーン廊下でまだ通っていない最後の廊下の先、ちょうど地図の名称の消えていた区画の一部屋だった。
「……でも見取り図に外に通じるドアは書いてないですよ……?」
見取り図のエントランス箇所は分かりやすく玄関が表現されているが、動物受入室と思われる部屋の外壁は特に他の部屋のそれと書き分けがされていない。本当に外に続く浦口があるのだろうかと不安になる。
「そりゃ、これは最終図面じゃないからだな。きちんと製本化された最終図面は本社で保管して、現場にあるのは建築計画書やら改築前の古い図面だけってパターンは割とあるんだよ」
まあ改築計画や設備更新があったとしても大抵本社の総務が取り仕切るしな、と鹿島は少し興奮した様子で続ける。
「オッサン詳しいんだな」
浩が感心したように言うと、鹿島は乾いた笑みを浮かべた。
「昔、電気系設備の営業やってたんだよ。まあ結構なブラックだったんでとっくに辞めてるんだが……退社を契機に業界も離れて、人生を無駄に浪費したとしか思っていなかったが、案外これが何の役に立つか分からないもんだな」
「人生に回り道はあっても無駄な経験など無いのですね。全てはいつか実り花咲く……また一つ、大切なことを学べました」
鹿島と対照的に、綾子は嬉しそうに手を合わせる。鹿島はますます可笑しそうに笑みを深めた。
「ああ、アンタのその達観した物言いも今は全く苛立たないな!」
「……それは先ほどまでは苛立っていたという事なのでしょうか?」
はは、と笑うだけの鹿島に綾子は少なからずショックを受けた様に眉を下げる。
どんな時でも一言二言憎まれ口をたたかないと気が済まないらしい。呆れた人だ。
「ふふ、」
呆れてしまって、つい私も笑ってしまった。悲しそうだった綾子も私を見てつられて「まあ」と柔らかな笑みを浮かべる。浩もそんな私達に安心したように息を吐く。
久しぶりに、もの凄く久しぶりに笑った気がした。ずっと怖くて、息がしにくくて、怯えていて。だから久しぶりに息を吐けた気がした。
もう大丈夫。きっと大丈夫。だってそこに出口がある。
きっと私達は、『ハイ』になっていたのだと思う。理解のできない恐ろしい目に遭ってはいるけれど、それでも逃げ切れるかもしれないという希望がカラ元気となって、私達を繋げ、気持ちを支えていた。
何とかなると、信じたかったのだ。
けれど浮足立つ私達の後ろで、黒藤だけが少しも笑わずにいた。
***
私達は電気室を出て、『動物受入室』へと向かう。
最初に黒藤と浩の三人で一階へ降りた際に通ろうとして通らなかった部屋──洗浄室の『PR2』からクリーン廊下へ戻ることにした。
「鼠が根城にしているらしい。飛び出してくるかもしれない気を付けろ」
飛び出してきた鼠に驚いて逃げた前科のある浩は、またパニックとなって逃げ出さないように鹿島に肩をがっちりとホールドされている。
黒藤がゆっくりと扉を開く。
案の定、キイ、と声を上げながら一匹の鼠がドアの縁から飛び出してきた。
────キイ、キイキイ、キイ
「わっ」
甲高い声を上げる鼠は私の身体に飛びついて走る。
浩は背後で「ヒッ」と引き攣った声を上げていたが、実験室に群れを成していた鼠を見た後だから、私としてはそこまで驚くでもない。【あれ】の方がよほど恐ろしい。
私は身体を走る鼠を、今度は噛まれることに気を付けて、白衣の袖で払う。床に着地した鼠はしかし再び足を伝って登ろうとしてきて、私は片足を上げた。
「おら、あっち行け」
もう一方の足を登ろうとする鼠を、鹿島が足で退けてくれる。
────キイ
一声上げて、またも登ろうと戻る鼠をもう一度鹿島が退ける。そうしてやっと鼠は諦めたのか、どこかへと走り去った。
「クリーン廊下に【犬】はいない。今のうちに行こう」
先にPR2へ入っていた黒藤が私達を呼ぶ。私達は頷いて、黒藤に続いた。
鹿島は浩の肩を押さえながら、私は綾子と手を繋ぎながら、肩にパイプ椅子を担ぐ黒藤の先導を追って、クリーン廊下を左に曲がった突き当りまで進む。
「外へ出られたら、まずは何をしましょうね」
綾子が囁くように言う。
「私は……お父さんに会います」
そのために渇根まで来たのだ。あげるつもりだった百合の花は失くしちゃったけど、お父さんはそんな小さなことはきっと気にしない。私はお父さんにまず「久しぶり」と声をかけて、会いに来られなかった十年分の話をしたい。
「そう、素敵ね……私も、父に会いに行こうかしら」
綾子は目を伏せて言う。
「……私が死地を回っていたのはね、『足りない生』から目を反らしたかったからなの……でも、もう御仕舞いにするわ。なんだか私、生きていたいみたいだから」
顔を上げて笑みを浮かべる綾子は暗闇の中でもとても美しく、清々しく、この人はこんなに綺麗な人だったのだなぁと私はそこで初めて気づいた。
「そう言うの死亡フラグって言うんだぞ」
鹿島が前からこちらを振り返ってまた余計な一言を言う。確かに、映画だと未来の展望を話した私達は死んでしまう。
「これはアニメや映画の世界ではないのでしょう? それに、生きる希望を口に出す事はきっと素晴らしい事です」
綾子の言葉に鹿島は「出たよ」と不愉快そうなポーズで舌を出す。
突き当りに辿りつく。引き戸を黒藤が開くと、壁にはエアシャワーがついていて、どうやらここもまた『PR室』らしい。
しかし一つ、今までと違っていて、正面の壁、胸ほどの高さに引き戸の様なものが付いていた。戸は金属製で、脇に操作盤が付いていて、何かの装置の様に見える。
「受入室で搬入するものを消毒する装置だな。やはりこの先に搬入口があるとみて間違いない」
黒藤の言葉に私達は一層明るくなる。早く出たいという気持ちが前のめりになりながら、私達は次の部屋へ踏み出す。
最後に私も、と足を半分出したところで、背後のPR室から音を聞いた。カリカリと、針で固いものを掻くような、小さな音だ。少しくぐもっていて、響くように音が重なっている。
振り返っても、暗くてよく見えないが、あの壁の扉の先から聞こえている気がする。また、鼠だろうか?
「柚弦ちゃん?」
「……すみません、今行きます」
手を引く綾子に私は向き直って部屋へと入る。今更鼠がいるくらい、どうって事はない。例え大群だとして、黒藤の言う通り、鼠の軍に飲み込まれたところで死ぬわけではない。
入った部屋は、実験室と飼育室の混ざったかのような部屋だった。
大小さまざまなゲージと、実験のための装置の並ぶ作業台と、台車と、備品の並んだ棚がある。
部屋には今通った扉の他に二つの扉があった。黒藤がその内の一つ、PR室に隣り合う扉を懐中電灯で照らした。
「そこが動物受入室だな」
私と綾子が一番近くにいて、綾子が私の手を離して扉へと手をかけた。
ギイ、と重い音を立てて扉が開く。中を黒藤と鹿島の懐中電灯が照らす。否、照らしたはずだった。
私達の目の前に広がっていたのは、外へと通じる勝手口玄関ではない。部屋ですらない。
蠢く白が、ドア一杯に広がっていた
────ヂヂッ……キイ
砂の城が崩れるかのように、白の群衆が崩れ、上から降り注ぐ。次の瞬間には、ドアの目の前にいた綾子が飲み込まれた。
「きゃああんぐぅうあぐ……!」
蠢き、波打つ白の中から綾子のくぐもった声が聞こえて、しかしそれをさらに覆い隠すかのように、次から次へ白がドアの先からあふれ出る。
鼠だ。何千という鼠の大群が、綾子を飲み込んでいる。
────キイキイキイきイキイキイキイきイキイkkキイきイキイキイキイkキイ
あっという間に部屋の床は一面鼠に覆われて、甲高い鳴き声と、カリカリカチカチと小さな爪が床を叩く音で部屋が満たされる。
「おい、おい、糀谷! イテッ、この!」
駆け寄った鹿島が鼠を掘り返すが流動する鼠に阻まれて綾子に手が届かない。黒藤もパイプ椅子を横に凪いで鼠を払うが、依然として綾子の姿は見えない。あまりに、鼠の数が多すぎる。
キイキイきイキイkキイキイキイキイkキイキイきイきいキイキイキkkキキイきイキイkキイキイkキイキイキイキイきイキイkキイキイキイキイキイきいキイkキイキイkキイキイきkっききキイきいkkkkっキイキイキイkキイキイキイキイきイキイキイキイkkキ、
鼠たちの高い声が重なって反響してまるで耳鳴りの様に頭に強く響く。足元を波が這う。
腰を抜かしてへたり込んだ浩が「あ、ひ、あ、」と意味を持たない声を上げている。綾子を飲み込んだ群衆は塊のまま、動物受入室へと少しずつ移動していき、そこでなお大波を立てて蠢く群れの本体と統合しようとしているらしい。
「ボーっとしてないで紀伊も欅田も手を貸せ!」
鼠の鳴き声よりも張り上げられた鹿島の声にハッとする。
はい、と返事をしようとして、私は固まってしまった。ヒクリと、横隔膜が嫌な痙攣を起こす。
鼠達が動きを停止した。そして、皆一様にある一点を見つめている────────私だ。
部屋を埋め尽くす全ての鼠の、無数の赤い瞳が、私を、私だけを、じっと見つめている。言い寄れぬ怖気が背を駆ける。
「「「「「「「「きい」」」」」」」」
バラバラだった鼠たちの声が一度だけぴったりに重なって、それを合図とでもいう様に、足元の鼠たちが一斉に体を駆け上ってきた。
「嫌っ」
足を上げようとしても、手で払い落しても、体を振っても、襲ってくる鼠たちは絶え間なく私を登ってくる。白衣の外を、内を、白い小さな塊が這いあがる。
違う、白の中に何か色が混ざっている。赤だ。身体に、口元に、赤い斑点の付いた鼠が白に混ざっている。斑点は他の鼠と擦れると伸びて、周りも赤く染めていく。まさか、その赤は、その液体の正体は、彼らのか、それとも。
飲み込まれた綾子の、恐怖に染まった顔が頭をよぎる。
「やだ、やだやだやだやだッ、助けっ」
黒藤がパイプ椅子で掘る様に鼠を払うも、勢いは衰えるところを知らない。鼠たちは腰を越え、胸を越え、喉元まで迫り、もはや重みで体を動かす事すらままならない。
このままでは私も同じように飲み込まれてしまう。
せめて目は守らねば、とまだ動かせる両手で顔を覆う。首を伝い、一匹の鼠が耳元を這った。
「きい、きい、──────逃がさない」
首を、頭を、身体中を、小さな爪が蹂躙して、指の隙間の視界が蠢く闇に覆われた。
露出した肌が引っかかれ、噛まれ、痛い。秒ごとに増す重さに、体を支える事もままならず、私の足は崩れ、自らの膝へと倒れ込む。一瞬鼠が崩れて光が零れて差し込むが、次の瞬間にはまた差し込んだ光はかき消された。
「逃げる事は許されない、逃げる事は許されない、逃げる事は許されない、逃げる事は許されない、逃げる事は許されない、逃げる事は許されない、逃げるのであれば死ぬしかない」
また放送が流れているのだろうか。けれどそれにしてはすぐ耳元から、声が聞こえる。ああでもそんな事はどうでもいい。
爪の這う皮膚が痛い。空気が薄い。苦しい。息ができない。心臓が馬鹿みたいに跳ねて胸が痛い。どうすれば、どうしたら。このままではいけない。でも身体を動かせない。どうしたら。這いまわる音が五月蠅い。鼠の鳴き声がうるさい。苦しくて、苦しくて、思考が霞む。考えがまとまらない。
苦しい、いやだ、死にたくない、怖い、まだ死にたくない、誰か、誰か誰か誰か、どうか誰か
「誰か、助けて」
────────ガルルルルウルルルルルァアアアアア
止まない耳鳴りのベールの向こうで、獣の咆哮を聞いた。
次の瞬間に襟首を引かれて、強い力で後ろへと持ち上げられる。身体が宙に持ちあがる。
「ぅぐぇッ」
喉が閉まってえずく。しかし体を覆う鼠の重さが消えた。どうやら今ので振り落されたらしい。
黒藤か鹿島が助けてくれたのか、そう思って顔を上げると、そこには牙をむき出しにした黒い犬の顔があった。
【それ】は大きく口を開く。白い牙と大きな赤い舌が目の前に迫る。
ガチン、と首元から固い音が響いた。
鋭い牙が私の咽喉に食い入り、気道ごと裂ける痛みを想像する。しかし、想像していた痛みも衝撃も襲ってはこない。
そっと目を開くと、【それ】顔が私の首元から引き返すところで、口の端から細いものが数本はみ出していた。鼠の尻尾だ。皮肉なことに、私の咽喉に群がっていた鼠たちが私を守ったらしい。
【それ】は苛立たし気に私の身体をバシバシと叩いて残った鼠を払い落す。しかし後から後から登る鼠にきりがないと判断したのか、【それ】は私を吊る腕を大きく振った。当然私の身体は降った腕を追って振り上げられ、手を離されたことで宙を舞う。
浮遊感の後、大きな衝撃と共に体を床にたたきつけられた。
「ゲホッ、ゲホッゲホッ」
解放された咽喉を空気が通って、霞がかった視界がクリアになる。
顔を上げれば、どうにか動物受入室へ侵入しようと足掻くも渦巻き波を成し飛び出す鼠の群に阻まれている鹿島と、鹿島に腕を引きずられている浩と、地を這う鼠に牙を剥き腕を払い襲い掛かる【それ】と、【それ】を警戒してパイプ椅子を構えながらこちらへ走り寄る黒藤と、何よりも再び真っ直ぐに私へと迫る鼠の波が見える。
私は鼠に取り付かれるよりも早く立ち上がって逃げねばと、近くのキャビネットに手を駆け縋りつく。
「あっ」
しかしキャビネットは端に乗った私の体重を支え切れず、私もろとも酷い音を立てながら床に倒れる。
キャビネットに仕舞われていた大きな瓶が割れて、中の液体が床に零れて広がった。
ヂヂ────────────────ッ
けたたましい鳴き声を響かせて、迫る鼠達が足を止める。
それまで統制のとれていた群れが、唐突にバラバラに崩壊して、散り散りに散らばった。【あれ】が散る鼠を潰そうと暴れる。
「さ、いあくだ」
黒藤が呆然と呟いて、ガシャンと派手な音と共に手に持っていたパイプ椅子と懐中電灯が床へと落ちる。その向こう側で、鹿島が踵を返して浩を引き連れてPR室へと逃げ込むのを、【あれ】が振り返って追いかけた。
私の側にある、最後のドアには取っ手がない。一方通行のドアだ。動物受入室は相変わらず鼠が渦巻いていて、足を踏み入れたらまた全身を覆われ飲み込まれてしまうだろう。そうなったら今度こそ突破できないかもしれない。
でもきっと、あの中に綾子がいる。
一か八か。足元の懐中電灯を拾って、動物受入室へ向きなおる。蠢く部屋に、鼠に飲まれた感触が蘇って体を震わせる。勇気を奮い立たせ、しかし足を踏み出す前に、後ろから腕を引かれた。振り返ると青白い顔の黒藤が私の手を引いている。向かう先は動物受入室ではなく、鹿島達の通ったPR室だ。
「黒藤さん、綾子さんが……!」
「無理だ、諦めろ」
有無を言わさない力で私を引きずると、そのままPR室を抜けてクリーン廊下の外へ出た。
私は少し躊躇して、それでも黒藤の言いたい事は分かったから、彼の導くままに足を進める。
酷い事だ。再び鼠の群れに突っ込まずに済んだことに、少しだけ、ほっとしている自分がいた。
***
黒藤は、クリーン廊下の三叉路で辺りを一通り見渡す。
左の突き当りに鹿島の鞄が落ちている。黒藤はそれを拾って、目の前のPR室の扉を見る。薄く開いているそれを開けて、更衣室からロッカー室を抜け、私達はエントランスまで戻った。
エントランスの先、一つの引き戸の隙間から薄く光が漏れていた。ドアを開こうと手をかけても、鍵がかかっているのか、それとも押さえているのか、ドアは開かない。
「黒藤だ、入れてくれ」
黒藤が声をかけると、中からがたりと物音がして、ドアが薄く開く。隙間からこちらを確認したのは鹿島で、鹿島は私の姿を見ると何故か顔を歪めながら、それでもドアを開いて部屋へと入れてくれた。
私達が入ると鹿島はすぐにドアを閉め、長柄箒をつっかえ棒にする。
部屋は、事務室の様だった。机が中央に向かい合わせに並び、その上にはパソコンやプリントが並んでいる。その隅で、浩が体を抱えて震えていた。恐怖を紛らわせたいのか、白衣の上から腕をガリガリと書いている。
「無事だったか」
鹿島に拾った鞄を渡しながら黒藤が聞くと、鹿島は顔を歪めて自らの背を指した。
「無事なもんか」
背中の白衣は下に着たスーツごと破れていた。後ろ首から血が滲んで、白衣を赤く染めている。
「あの犬野郎に思い切り掴まれた。鞄で横面をぶっ叩いて、怯んでいる内に逃げて来たんだ」
鹿島は手近な椅子を引っ張り出して座る。
「こんなもの持っててもいざって時に使いやしない……育ちが良すぎて死にそうだぜ」
鹿島は白衣のポケットから実験室で得た鋏を取り出して振る。確かに、私もポケットにそれがある事を今の今まで忘れていた。
「で、だ……糀谷と一緒に来ない辺り、アイツはあの部屋でまだ鼠に押し潰されているんだろうが……鼠の群に飲み込まれたところで死ぬわけじゃないんだったよな?」
鹿島が黒藤を見る。私も、黒藤を見上げる。
黒藤は少し沈黙した後、首を振った。
「……あの量の鼠に押しつぶされたら、酸欠になる。酸欠が続けば……いずれ死ぬ」
「お、もい、出した」
浩が、嗚咽にまみれた切れ切れの声を上げる。
「俺、俺も、あれに飲み込まれて、それで、それで、」
浩はその金色の髪を手でぐしゃりとおさえ、膝の間に頭を埋める。
「で、今も生きていたなら、お前も紀伊も糀谷よりは運が良かったって事だな」
鹿島が何の感慨も感じられない声でそう言った。
そんな言い方、と思わなくはなかったが、結局見捨てた私も同じだ。
「あのマウス、かなり不味いかもしれない」
黒藤は言いながら棚へと向かうと、ファイルをいくつか引き出して中身を漁る。
「確かに……あんな風に鼠が人を襲うなんて、聞いたことがないです」
黒藤は私の言葉に「そこじゃない」と首を振った。
「全身白いハツカネズミは、野生ではほとんどいない……赤目のアルビノ種なら尚更だ。だからアレは実験用のマウスだ」
「じゃあ逃げ出した鼠がここを巣にして増えたって事か」
「実験動物は、大なり小なり危険を内包している。感染症実験然り、遺伝子組み換え実験然り、施設の外に出れば生態系を破壊する。そうじゃなくても実験マウス同士が接触しただけでどんな影響があるか分からない。だから所定区域を『逃げ出す』っていうのは実験施設としてはかなりの大事だ。通常、あり得てはならない」
『逃げ出す事は許されない』
声が頭の中で鼠の声が木霊する。そう、鼠の声だ。あれはきっと鼠達の声だった。
「例え実験が終わっても、『用済み』のマウスは全て殺処分される。実験施設に入った時点で自由になる事は決してない。だから実験用のマウスの蔓延るこの施設は『異常』だ」
「『異常』なんて今更だろ。あれが実験用の鼠だったとして、人を殺す事より重大な事ってのは何だ」
要点を話せ、と鹿島が苛立たし気に黒藤を睨む。
三つ目のファイルを開いた黒藤は、一枚の資料に頁を捲る手を止め、眉間に深くしわを寄せた。小さく「クソッ」と呟きながら、ファイルから一枚の紙を出して机に置く。鹿島が懐中電灯で照らしたそれは何かの許可申請の認可証らしく、下に厚生労働省の認可印が押されている。
「最悪の予感が的中した……バイオハザードマークの実験室ではこれを扱っていたらしい」
一文を黒藤が指さした。指の先には、私でも知っている病名が書かれている。
「あのマウス達は、狂犬病ウイルスに感染している」
誰かの息を呑む音が、静かな部屋に響いた。
私達の間に沈黙が落ちる。狂犬病、それが恐ろしいものだって言うのは私も知っている。
けれど、ああけれど私はそれよりも、その右上に書かれている、文字から目が離せない。『潮ヶ丘応用生化学研究所』という名前から目を離せない。
「…………狂犬病って、あれだろ? 噛まれただけでうつって、発症したら死ぬっていう……」
短い沈黙を破って鹿島が尋ねる。噛まれたらしい傷を爪でなぞっている。私も、鼠に噛まれた腕や足や首が、ズキズキと傷の存在を訴える。
「高い攻撃性と、そしてあのマウス達には恐水症──異常なまでに水に怯える狂犬病の症状が出ていた。ここにウイルスの使用認可もある。恐らく……間違いない」
「嫌だ」
浩がか細く声を上げた。
「死にたくない、死にたくないよ俺……死にたくない」
膝からこちらを見る浩の顔は涙と鼻水にまみれていて、それらを押し流すようにあとからあとから涙がこぼれる。ポケットティッシュを手渡すとずびずびと鼻をかんだ。
「落ち着け。発症したら死ぬが、感染から発症までは最低二週間から一ヶ月はある。その間に曝露後ワクチンを打てば助かる」
黒藤の言葉が聞こえていないのか、うわごとのように言葉を紡ぐ。
「なんで……だってちょっと、認めてほしかっただけなんだ……肝試しで、もう弱虫じゃないって、証明したくて……だって本当に死ぬかもしれないなんて思わないじゃん……嫌だ……死にたくない、嫌だ」
膝に顔を埋めていやだいやだと小さな子供の様に首を振る。
当然だ。私だってそうだ。死にたくない。
「そうだな。俺も死にたくはない」
私の心の声に重なるように、鹿島が呟いた。椅子から立ち上がって、浩の所まで歩くと、嗚咽を吐く浩を見下ろす。
「……俺もな、アンタみたいに施設の知識も病気の知識もないけど、一応考えてはいたんだよ」
鹿島が振り返って私を真っ直ぐに指さした。
「なあ紀伊……あの鼠共、どういう訳かアンタを標的にしているらしいな」
その声に、目に、感情はなかった。
私は何も返せない。だってそうだ。鼠たちは明らかに私を飲み込もうと、襲って来た。鹿島の言う通りだ。
「悪いんだが俺はな、絶対に死にたくない。だから……どうにも狙われてるらしいアンタとこの先行動を共には出来ない」
だから温度のない声でそう言うと鹿島の事を、私は止めることが出来ない。
鹿島は浩の腕を引き上げて、浩に立つよう促す。浩は首を振るが、鹿島は一つ舌打ちをした後、低く静かに口を開いた。
「欅田、行くぞ」
浩は鹿島を見て、そして私を見る。彼の手の中でティッシュがくしゃりと音を立てた。
「けど……」
「行くぞ」
浩は何かを言いたそうにしたが、有無を言わさない鹿島に黙り込んで、そしてゆっくりと立ち上がった。
「獣医、アンタはどうするんだ」
鹿島が黒藤を振り返る。私も、目の前の黒藤を見上げた。
黒藤は私を見下ろすと、小さくため息を吐いた。
「……未成年者に保護者は必要だろ」
鹿島は「御立派な事で」と呟いて、ドアへと歩いていくとつっかえ棒を外した。
出て行く鹿島に腕を引かれる浩は、後ろ髪引かれる様に私を何度も振り返って、けれど引き戻ることはないままドアの外へと出て行った。カツカツと、二人分の足音が遠のいていく。
黒藤はつっかえ棒を元に戻すと、何も言わずに棚の前まで戻り、そしてファイルの資料を出して頁をめくった。
「……良かったんですか?」
黒藤は目だけ上げてこちらを見る。そして再びファイルに目を落とす。
「気にするな」
ただ、短くそう言った。
「でも、黒藤さんも気づいていますよね」
黒藤だって見たはずだ。先ほどの認可証に書かれた施設の名前を。
「……『潮ヶ丘応用生化学研究所』は、十年前に全焼したはずの実験施設だって事か? ここが幽霊施設だろうが、そんな事もう今更だろう。渇根からここに迷い込んだ時点で、大体想像は付いていた」
「……そうじゃないでしょう」
私は近くの壁にかかっていた、日付の並ぶ給餌当番の一覧表を指で辿る。
この人は私がどうして渇根まで来たのか知っている。花を持って父に会うという事の意味を。そのために『潮ヶ丘応用生化学研究所』の跡地に作られた動物慰霊公園へ行きたかった意味を。
私が鼠達に狙われた意味を、察しの良いこの人はきっともうとっくに気が付いている。
名前順に記載された表の上ですべる指を、私はある一点で止めた。
『糖尿病実験チーム M担当 紀伊 塔子』
『糖尿病実験チーム D担当 紀伊 晴信』
「ここが、私の両親の勤め先だったって事に……ですよ」
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