第60話「イド・ウィズイン」
リュウトは、〈サンクチュアリ〉の町中に立っていた。入り組んだ路地裏の中だ。頭上を見上げれば、神聖な色とされる赤の布が、ロープから吊り下げられて風になびいていた。
だが、懐かしいと思ったこの感情は、リュウトのものではない。
「待っていたよ。リュウト君」
声の主を探して足元に目を向けると、黒いペンギンがそこに立っていた。
「君は……」
「僕はイド。あ、勘違いしないでくれたまえよ。僕はオリジナルの、つまりは
するとイドは宙がえりして、白い
「あ、お前!」
「僕はメッセンジャーだった。シキの言葉を君に届ける役割を担ってたのさ」
リュウトは一瞬、自分の愚かさを呪ったが、今はそれよりもやるべきことがあった。
「どうしてお前がここにいる?」腕を組み、いぶかしむような目でイドを見た。
その真意はどうであれ、こちらに敵対していたものの一部だ。信用はできない。
イドは再び宙返りして元の姿に戻ると、言った。
「君を案内するためだよ。ここはプライムの僕、つまりはさっきまで君が戦っていたイドの作った防壁迷路だ。そこを単独で突破できるとでも?」
「どうして俺を助けようとするんだ? さっきまで対立してたのに」
「確かに君と戦っていたのは僕だが、僕はこれに賛同してない」
「でもイドはイドだろ?」
それは、とイドは口ごもった。
「プライムの命令には逆らえないんだ。どうして自分の意志に逆らえる?」
「なら、今はどうなんだ」
「今、彼は混乱してる。つまり、チャンスは今しかないんだよ。君はその手で運命を切り開いた。本来ありえなかった可能性だ。収束していた世界線が、無限に広がったんだ。君は
リュウトは未だに彼を信じるかどうか迷っていたが、どのみちこの『迷路』を突破するのは難しいだろうという結論に至った。
「分かった。そこまで言うなら道案内してもらう」
「そうか! 良かった! では早速向かうとしよう!」
イドはパタパタと羽を動かしながら、小さく飛んだ。その愛らしい動作に、つい先ほどまでのイドのイメージはどこかに吹き飛んでしまっていた。
◇◆◇
どこまでも続く路地裏を、リュウトはイドの先導の元に進んでいた。
だがこの区画はどこか気まぐれで、しょっちゅう急に道が変わったりしていた。道端には、黒い影のようなものが座り込んでいた。イドによればこれは、『出来損ないの分岐たち』とのことだった。
これらが全て意思を持ち、そこら辺に捨てられている。思わずリュウトはゾっとした。曲がりなりにも自分の分身なのに、だ。
「どうしてイドはこんなことを?」
「彼はこの世界が歪んでいると思っている。実際、その意見には僕も賛成だ。〈灰の大戦〉のあと、
僕らは人の無意識に住む。それで、なんとかこの歪みを正そうとしたが、長い間歪みと相対してきたせいで、彼自身もまた、歪んでしまったんだ。彼の望みは、
僕はこれを〈願いの共鳴〉と呼んでいるが、二人はその共鳴現象によって繋がった。
見上げれば、意味をなさない言葉たちの看板が続き、足元には文字の形をした虫たちが行進していた。
「なんで、こんなことになったんだろう。最初はみんな、誰かを想っていたはずなのに」
「……愛は、時に罪深いことがある。でもだからこそ、愛はかけがえのないものなのさ。だから、失くしちゃダメだよ」
たどり着いた先は、噴水のある広場だった。白っぽい太陽が照らす中、リュウトはその広場に足を踏み入れた。
「ここから先は君だけだ。だけど覚えておいてくれ。僕たち『イド』は戦えない。説得が、僕らの本質だ」
リュウトは頷くと、広場の中を進んだ。すると噴水の縁に座り、本を読んでいる少年が見えた。背丈はリュウトと同じくらいで、顔もどこか似ている。
黒いスーツを着た少年が顔を上げてこちらを見る。一瞬、もう一人の自分なのではないかと危惧したが、似ているだけの別人と分かってほっとした。
リュウトは少年に軽く会釈すると、そのまま奥に進んだ。
広場には、ほかにも数人の分岐たちが思い思いの時間を過ごしているようだった。さっきイドは無意識に住むと言っていたが、一人の無意識の中に、これほど多くのイドが住んでいるのか。
そして広場の奥にある階段に、二人はいた。幼いシキと、イドだ。イドはほかの分岐たちと同様に黒い人影だったが、赤いノイズがちらちらと混じっていた。
そう、ここはシキの無意識の中。リュウトはシキとイドの分離を試みようとしているのだ。
幼い少女の姿のシキはこちらに気づいたのか、うつむいていた顔を上げてこちらを見た。頬には涙が流れた跡があり、その目は赤くはれていた。
リュウトは言った。
「これが君の望んだことなのかい?」
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