第56話 誘蛾灯

月夜野は黙ってテーブルにお茶を置く……そしてそのまま俺が座っていた対面に座った。


 ベットの脇で呆然としている俺を見る、そしてそのまま目線を外し自分の前、先ほど座っていたクッションを見る……目線で俺にとりあえず前に座れと言った。


 無言の圧力、何か言ってくれれば言い訳出来る可能性もあるのに……このままだと何も言い訳出来ない状況に追い込まれる……。

 しかし何も言わないわけには……どうしよう……このままじゃただの変態だ……いや、まあただの変態なんだけど……と、りあえず虫でもいた事にすれば……。

 俺の脳が高速で思考する……ゆっくりと立ち上がり月夜野の前までの数歩で会話シミュレーションをした……よし! 行ける!


 言い訳シミュレーションが終わり、俺が座ったと同時に月夜野が口を開いた。


「何してたの? まさか虫が出たとか言わないよね?」

 笑顔でそう言う月夜野……うわーーい、今のシミュレーションが一瞬で終わた……。

 ニッコリ微笑む月夜野……どうする、それでも押すか押し通すか……しかし俺は見逃さなかった……月夜野の目を……笑っていない……顔は笑っているけど……目は笑っていない……。

 月夜野のさげずんだ目、ゴミを見る様な目……ああ、懐かしい……そうだ去年まではこの目をしていた。そうだった……これが今まで俺を見ていた月夜野の目だ。

 あの目から月夜野は変わったんだ……俺を好きとまで言ってくれる様に……だったら言うしかない……正直に言うしか……俺は覚悟を決めた。


「……えっと……月夜野の……匂いが嗅ぎたくて……ごめん……」


「うーーわ……引く……」

 正直に言った……ここで誤魔化しても月夜野は見破るだろう……だったら月夜野を信じるしか……許してくれるだろうと信じるしかない。


「だ、だって……仕方ないだろ! お前が……お前がいい匂い過ぎるんだから、海の帰り……お前が俺に寄りかかって寝たんだ。可愛い寝顔でお前がもっと好きになった……そしてその時お前の髪の毛が俺の肩にかかったんだ、その時の月夜野の匂いが髪の毛の匂いが忘れられなかったんだ」


「つつつっ…………また……そ、そんな事言って……最低」


「……ごめん……で、でも仕方ない……本当の事なんだから……でも……本当にごめん……」

 恋心、出来心だとはいえ、月夜野の信頼を裏切ってしまった事には変わりない……俺は最低な男だ。

 下を向き反省する……そして俺は月夜野の判決を待った……最悪別れる事も……怖い……その死刑判決だけは……俺は下を向いたまま願っていた、月夜野を信じて待った。


「…………そんなに……いい匂いだった?」


「え? あ、うん……」

 目を開けて月夜野を見る……月夜野は真剣な表情で俺を見ていた……ああ、何か決めた顔だ……終わった……瞬殺だった……。


「そ……」

 そう言うと月夜野が立ち上がる……立って判決文を読むのか……確か死刑判決は主文後回しだったよな……。

 俺は再び目をつむり月夜野の判決を待った……しかし月夜野何も言わない……焦らさないでくれ……俺は覚悟を決めた……何を言われても月夜野に従おうと……。


 そしてゆっくりと月夜野の気配が動く……歩く気配……え? 俺は目を開けて月夜野の位置を確認する。までもなく思った通り俺の隣に座っていた。


「……いいよ」


「…………え?」


「……匂い」


「……は?」


「…………だから…………嗅いでいいよ……直接」


「…………ええええええええ!」


「い、嫌なら別に」


「い、嫌じゃない!!」


「じゃ、じゃあ……」

 月夜野は俺の隣に正座して目をギュッと閉じている……手は握りこぶしを作って膝の上に置いている……身体は小刻みに震えていて……物凄い緊張が伝わって来る。

 断るか……いや……ここで断るのは悪手だ……断ったら逆に怒るだろう……月夜野はそういう奴だ。

 彼女の勇気に応えなければ……俺は勇気を出して月夜野の髪に手を伸ばした。


「……ふぇ……」

 髪を触ると一瞬月夜野の声が漏れた……俺はその声で髪の毛から手を離してしまう……駄目だ触っちゃ駄目だ……。

 もうこれは、直接行くしか無い! 俺は顔を月夜野の頭に顔を近付け髪の匂いを嗅いだ。


 …………あああああああああ……俺の脳から麻薬の様な物が溢れ出す。この間よりも強烈な匂いが、シャンプーとリンスと月夜野の匂いがする……甘い……とてつもななく甘い匂いが、香りが、俺の脳を刺激する……ヤバイよヤバい……これはヤバすぎる……。


「えっと……その……髪……持ち上げて貰っても……」


「……い、いいけど……」

 そう言うと月夜野は髪を両手でかき上げる……海で見たうなじが俺の前に現れる……その綺麗な首筋とうなじに俺は再度顔を近付けた。


「ふお……」


「ひ!」

 その強烈な香りに俺はつい声を上げてしまう……シャンプーの香り、リンスの香り、ボディーソープの香り、月夜野の汗の香り、ああ、こんな香水があったら絶対買う……いくらでも出す……そう思わされた。

 

 そのまま数分、触らずに俺はじっくり匂いを嗅いだ……堪能した。


 十分満足した俺は月夜野から少し身体を離す……月夜野は髪を上げたまま動かない……小刻みに震えつつ俺にされるがままだ……ああ、可愛い……小動物の様な可愛さ…………。


「あ!」


「へ!?」

 俺はまた声を出してしまった……だって……言ったよね……月夜野格好……着ている物、近付き過ぎて気が付かなかった……月夜野は今、ノースリーブで髪を持ち上げている……そう……今、月夜野の脇が、白い脇が俺の目の前に……。


「あ、あのさ……わ、脇……も……いい?」


「……えええええ!」


 俺は月夜野の返事を待たずに、その綺麗な脇に顔を近付ける……誘蛾灯に近付く虫の様に、いざわなわれるかの様に月夜野の白く美しい脇の下に近付く……。


「……だ、だ、駄目えええええええ」


「ぐええええええ!」


 月夜野は俺の頬を思い切り叩いた……変な態勢だった俺はそのまま床に倒れ込む……い、痛いいいい……。

 

 俺は文字通り誘蛾灯に誘われた虫だった……さっき虫を言い分けにしようとした罰か……。


 でも……いつか作ろう……月夜野の香りという名の香水を……俺はそう心に決めながら床ペロした。



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