流言飛語

 とある日曜日のことだ。細く空いた窓から涼しい風が流れ込み、開いていた本の端をかすかに揺らした。残暑もようやく影を潜め、このところ過ごしやすい毎日が続いている。暑さに弱い玉城かずらは心地よい風に眼を閉じ、深く呼吸をする。図書室に満ちる紙とインクの匂いは、祖父母の家にいるようでかずらを落ち着かせる。

 休日なので、図書室の利用者はかずらぐらいだ。いつもならば幼馴染と一緒に居るのだが、今日は趣味に必要な買い出しだといって出かけていた。外に出る予定のなかったかずらはこうして図書室でのんびり本を読んでいる。そろそろ戻ろうか。気付けば、陽も熟れてかなり傾いている。夕暮れまであと一時間ほどだろう。席を立って読んでいた本を片付けていると、からりと扉が開く音がした。


「あ、かずらちゃん、ここに居たの」

「鷲尾くん?」


 話しかけてきたのは、同級生の鷲尾鷹次わしおたかつぐだった。彼が図書室に来るのは珍しいことではないが、目的は本ではなくかずらのようである。何か用かと問うと、鷹次は図書室を見渡して人が居ないことを確認するとかずらの横に移動した。


「まぁ、用というほどのものではないんだけど……ねぇ、かずらちゃん、今校内でどんな噂が流れてるか知ってる?」

「噂?」


 人付き合いが苦手な上に、よそ様のアレコレに関心も薄いかずらは、当然流行の波に疎い。知ったかぶりせずに素直に首を横に振ると、鷹次はやっぱりと溜め息を吐いた。


「……そんなこったろうと思ったわ、あんな噂を知っていながらアナタがここまで平然としてるわけがないし」


 その言葉から、件の噂は自分に関係があるらしいと察したかずらは、ひどく不安になった。好奇の視線に晒されるのは誰だって心地の良いものではないだ。そして対人恐怖症の気があるかずらは心地良くないどころか、パニック映画の主人公になったような恐怖さえ感じてしまう。


「……それ、一体、どんな噂?」

「あ、そうね、知らないなら知らないままの方が……」

「教えて、気になるじゃない」

「私は、事実無根のデマだとは思ってるけどね」


 鷹次は言いわけするように前置きしてから、その噂について教えてくれた。


「その噂によると、王子ことウィリアム・サトクリフと死神こと弾丞久秀が玉城かずらを奪い合い、泥沼の三角関係になってる……って」


 ぐらり。

 かずらは生まれて初めて、絶望のあまりに目の前が真っ暗になるという体験をした。






「……ひ、久くん! 聞いて! スクランブル、大変、一大事、うちらの学校生活は危機に瀕してる!」

「かずら君、とりあえず落ち着こうか」


 外出から戻った久秀は、飛びかからんばかりに近寄ってきたかずらを片手で抱き込み落ち着かせ、戦利品が詰まった紙袋を大事そうに自分の机の上に置いた。あの後、かずらは寮に戻り、幼馴染の部屋で待機していた。

 久秀も当事者なのだし、こんな事実無根の噂話を聞けば不快になるに違いない。そうすれば彼のことだ、噂話の一つや二つ、あっさりと駆逐してくれるだろうと思ったのだ。他力本願極まりないが、かずらが考えうる限り、最も有効な手段に変わりない。椅子に座って紙袋から丁寧に何かの部品やら薄い本を取り出している久秀に、かずらは尚も言い募る。


「さっき鷲尾くんに聞いたんだけど、校内でとんでもない噂が流れてるって。君だって当事者になってるんだから!」

「ああ」


 久秀は欠品が無いか確かめながら、当然のように答えた。


「結構前から流れている、例の噂だね」


 その言葉にかずらは目を見張る。


「し、知ってる?」

「そりゃあ嫌でも耳に入るさ」


 久秀は死神という物騒に名前に持つわりに、かずらと違って交流(交友ではない)範囲が馬鹿に広いのだ。まあ無理も無いといえばそうだ。


「知ってたのに何の弁明もしないの、久くん!」


 責めるように言うと、久秀は肩を竦めてからようやく顔を上げた。


「いいかい、そもそもそんな根も葉もなければ根拠もない、事実無根の噂話が何故こうも流布すると思うかね? 答えは単純だ、面白いからさ。面白いだけの噂話なら七十五日も待たずに消えるよ。それなのに当事者が騒いだら逆効果だ。否定すれば否定するだけ、噂には尾が付き鰭が付き、稚魚が大物になって帰ってくる」

「でも……嫌じゃないの」


 かずらは嫌だ。目は死んだ魚の如しだが東洋美に溢れたイケメンと、洋画から飛び出してきたかのような長身イケメンと一緒に話題にあがるなんて。噂の内容もそうだが、誰だって、メシの種にされるということ自体が嫌で仕方ないだろう。

 久秀を含む友人達は元より目立っているので話題に上ることもあるだろうが、かずらはあくまでも大衆に溶け込み、地味に目立たず波風の立たない位置で過ごしたいのだ。


「嫌なことばかりでもないさ」


 久秀はにやりと笑った。


「……そういえばかずら君、先日マカロンをご馳走したことを覚えているかい」

「え、うん、さくさくして美味しかった」

「ああ、特に牛蒡ショコラ味がよかったね。確かに君も美味しいと言って食べていた」

「それがどうしたの」

「君も気に入ったあのマカロン詰め合わせは、例の噂話を鵜呑みにしている連中から貰ったんだ」


 どういう意味かわからず、かずらは首を傾げた。


「詳しくは、彼のシンパだ。彼らはまるで信者の如くサトクリフ先輩を崇拝している。そんな連中が、件の噂を耳にしたらどうすると思う?」


 その言葉にはっとして、かずらは青ざめた。神のように崇めている人物が、例え噂とはいえ、(彼らからして)取るに足らぬ人間に執心していると聞いたら……いつ怒りや憎しみの矛先を向けられるか判らない。今まで思ってもみなかったことにおろおろするかずらを見て、久秀はにっこりして、また口を開いた。


「狼狽えることはないよかずら。現に今まで何もなかっただろう」

「え? ……あ、確かに」

「彼らだって馬鹿じゃない。君を暴力で片づけることも出来ないではないだろうが、それが先輩に知られたら不興をかうのは必至だ。先輩の勘の良さは有名だからね。だから、彼らは違う対処を選んだ」

「違う対処?」

「応援さ。いわば先輩の恋敵である僕を応援し、首尾良く僕と君が結ばれたなら先輩に付き纏う虫が消えると考えたわけだね」


 あの先輩は一方的にやってくるのに、こちらが虫と言われて少しむっとなったが、少なくとも益にならないことは確実なので何も言い返さないでおく。


「じゃあ、あの時の鰻丼も?」

「あの時使ったクーポン券は賄賂のようなものだ。これでも食べて体力をつけ、とっとと君を押し倒してしまえと言われたよ」


 かずらは噎せた。顔を真っ赤にして、涙さえ浮かべながらげふげふと咳き込む。


「なっ、な、き、お、押し……っ」

「落ち着いて、深呼吸だよ」

「き……君はその時なんて答えたの!」

「もちろん、『お心遣い感謝します』と丁重に受け取ったよ」

「否定してええええ!」


 涙目どころか既に泣いている。それでも噂の片割れは落ち着いたもので、悠然と説明書のページを捲っている。


「考えてもみたまえ。もしその場で否定した処で完全に疑いが消えるわけじゃない。何せ面白半分で流している奴らもいるからね。それならば黙っているのが最良だ。彼らにとっても僕にとってもね」

「じゃ、じゃあ君は最近マカロンとか鰻丼以外にも、くろぱんやシフォンケーキも奢ってくれたけど、それも……」

「それは別口さ。先輩はシンパも多いがそれ以上に敵も多いからね。そんな連中が、失恋して落ち込む先輩を見てみたいからこれでも食べて是非頑張ってくれと持ってきたんだ」

「…………」


 かずらはじっとりと、目の前の幼馴染を見詰める。その顔はいつも通りのポーカーフェイスだった。それでも長く付き合っているうちに、かずらにも彼の表情がある程度は読めるようになっていた。この表情から判断するに、面白がっている。


「……久くん、もしかして噂を流したのは君じゃないよね……」

「ところでかずら、君がどうしても我慢出来ないと言うならば、例の噂を消す方法もあることにはあるがね」

「なんでここでいきなり話題を変えるの!? やっぱり君なの!」

「どうなんだい? わたしはどちらでも構わないよ」


 ぐぬぬとかずらは言葉を詰まらせる。脳内で理性と感情をせめぎ合わせて数十秒。


「……本当に、消せるの」

「あの程度、少し仕込むだけで十分さ」


 久秀はそう言って、光を一切通さない双眸を細めて不敵に笑った。






 それから数日後。

 昼休みの学生食堂で、チキンエッグサンドセットについていたアイスコーヒーを啜っていた。


(見られている)


 それは彼女の自意識過剰や被害妄想ではなく、確実に注目されている。おそるおそる視線を動かせば、数人が慌てたように目を逸らした。


「……久君。君、あの噂はちゃんと本当に消した……?」


 正面に座っている幼馴染に縋るような視線を向けると、彼は心外だとでも言うような顔をして、肘を立てて掌に顎を乗せた。


「もちろんだよかずら。他でもない君の頼みだ。確かに例の噂は消した。試しにその辺の生徒を捕まえて訊いてみたらどうだい」

「そんなこと出来るわけじゃない……君を信じている。でも、どうも朝から注目されているようだから……」


 言葉はどんどん小さくなり、最後の方はほぼ消えかかっていた。気の弱いかずらにとっては、他人の視線すら凶器になってしまうのだ。


「かずら。一度広まった噂をなかったことにするのは確かに難しい。しかし、すり替える事なら出来る。要はラベルのように考えてみるんだ。無色透明の液体が入った薬品瓶に『オキシドール』とラベルを貼れば、人はそれをオキシドールだと思うだろう? そのラベルの上から『硫酸』と書かれたラベルを貼れば硫酸だと思う。――例え瓶に入っているのが、ただの水だとしてもね」


 冷やしたぬきうどんを食べ進みながら、澱むことなく喋る久秀に感心しつつ、かずらは考えを纏める。


「つまり、君はあの噂を消すために、違う噂を流したの? 手品のミスディレクションみたいに」


 そういうことさと頷く久秀に、かずらはなぜか予感がした。それは一体どんな噂なのと問う前に、声をかけられる。振り向くと、そこには同級のリディア・サトクリフが立っていた。通称暴走ハニーは、今日も定食戦争に勝利したのか、昼食のパエリア定食を載せた盆を持っている。


「ねぇ、隣良い?」

「あ、どうぞ」


 見れば、食堂の席はほとんど埋まっている。リディアはありがとうと言って席に座ると、かずらと久秀を交互に見て、つけられた他称に相応しい蕩けるような笑顔を零した。


「どうやら、あの噂は本当みたいね」

「う、噂……?」


 数日前のことを思い出し、びくりとかずらは肩を竦める。そんな反応にリディアははっとして、申し訳なさそうに謝ってきた。


「あら、ごめんなさい。貴女達にしてみれば余り広められたくはないだろうしね。でもあたしは恋という素晴らしいものを知って貰えて嬉しいの……そう、愛は全てを凌駕する……ALL NEED IS LOVE! ……まぁ、兄さんは生憎だったけど、最近おいたが過ぎる兄さんも一度くらい恋の苦さを知った方が今後のためになるわ」


 途中から何か(愛の天使のようなもの)が憑かれた金髪の留学生に突っ込むこともままならず、かずらはだらだらと冷や汗を流した。不穏だ。ものすごく不穏だ。


「あ、あの、リディアちゃん。噂って、一体どういう……?」


 聞きたくはないが、聞かないわけにもいかない。うっとりと愛に浸っていたリディアは、事もなげに答えた。


「どういうって、どうも何も、かずらちゃんは私の兄さんを振って弾丞くんとめでたく恋人同士になったんでしょ?」

「久くん!」


 想像以上の答えに、かずらは滂沱の涙(瞳が大きいので涙の量が半端ない)を流しながら久秀に詰め寄った。


「これっ!? これが! 新しいラベルだっていうの!? 一体何がどう解決したって言うの!」

「三角関係がどうのという噂は消えたじゃないか。嘘は言っていない」

「どっちもどっちだよ!」

「ああ喧嘩だって二人の愛を深める儀式なのね……」


 頭を抱えて蹲るかずらの横で、リディアは呟いている。この先彼女は大丈夫だろうかと心配になるが、今はそれどころではない。今後の学校生活について考えるだけで憂鬱だ。どうにか弁解する方法はないものかと、混乱する頭で必至に考えているかずらに、幼馴染は笑った。


「だから、自然に消えるまで待ってもよかったんだよ」


 悪魔が契約者を追い詰めるようなその声に、かずらはまた意識を遠のかせた。

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