急転直下 画策
「ただいま戻りました」
魔麟学園から少し離れた場所にある、一軒家。それが伊織の住む家である。その家はとても大きな屋敷でありながら、鷹次の父親は学者として母親はその助手として今も最前線で働いているため家にいることは少なく、姉が嫁いでいった後は彼一人でいることが多かった。
もちろん、伊織一人でこの屋敷を管理するなど到底無理な話だ。だからハウスキーパーを雇っているのだが、ハウスキーパー達には己の自屋に入らないようにきつく言い聞かせてあった。何故なら、彼の部屋にはとっておきの秘密があるのだから……。
「ただいま、玉城さん、いいえ、かずらちゃん」
そう言って彼が触れた、大きな大きなウォークインクローゼット。保護色に塗られたその扉をゆっくりと開ければ、大量の写真が現れる。そう、四方八方貼られた、癖毛で大きな瞳の少女の写真が。
「かずらちゃん」
うっとりと目元を歪ませて、伊織はその写真に触れる。だが、それらの写真はどれも伊織を見返すことはなかった。当たり前だ。その写真はいわゆる『隠し撮りされた写真』なのだから。
「かずらちゃん、かずらかずらかずら……」
クローゼットの真ん中には小さなテーブルがあり、その上にはくすんだハンカチが置かれていた。そのハンカチは辛うじて緑色だったのだろうと分かる程に汚れているのだが、それでも伊織は気にすることなくそれを手に取り、匂いを嗅ぐように鼻に押し付ける。そして彼の口から、はあと漏れ出た熱い溜め息。その溜め息はどこまでも愛おしさを孕んだモノだった。
赤ん坊が生まれてまだ間もないくらいの、昔の話をしよう。
その日は、魔麟学園の入学試験当日。それだというのに、伊織は朝から碌な目にあっていなかった。目覚まし時計が壊れていたり、信号無視のバイクに跳ねられそうになったり、試験会場に着くまでもなく彼はボロボロの姿と化していた。はあと伊織は思わず溜め息を吐く。このままでは試験も駄目になってしまうのではないか、そう思ってしまうのも仕方がないだろう。
そんなことを考えていたからだろうか。階段を降りる途中だった伊織は、気付けば足を踏み外していて、階段の下へと転げ落ちていた。
弓手の武器である手を咄嗟に庇ったのは流石と言えよう。そして残りの段数が少なかったことと、手足を捻らなかったことは不幸中の幸いと言ったところであろうか。だがそれでも小石で切れたらしい額に、鞄から自分のハンカチを探す伊織の前に綺麗な緑色のハンカチが差し出された。
「大丈夫ですか?」
そしてかけられた声。その声にゆっくりと顔を上げれば、そこには黒髪の少女がいる。
「あの、私、急いでいるのでもう行かないといけないのですが……歩けますか?」
「……あ、ああ……」
「良かった……あ、良ければこのハンカチ使って下さいまし。あ、使った後は捨てて下さって大丈夫です。それじゃあ、気を付けて下さいね」
「ぁーー」
その後、伊織を災厄が襲うことは、一度としてなかった。
「たまき、かずら」
ハンカチの淵に小さく書かれたその名前。
玉城かずらは、美浦伊織の運命の人。些細で、馬鹿馬鹿しくも思えるが、少なくとも彼はそう思った。ああ、何故連絡先を聞かなかったのか。お礼の一つも出来やしない。――もう、会うことだって……そうやって嘆く伊織を哀れに思ったのであろうか。天は彼に味方した。
魔麟学園の入学式当日。自分のクラスを確認しにいった時に、彼女を見つけた。忘れるはずがない、ふわふわと揺れる黒髪に白い肌と大きな瞳。
「っ!」
すぐにでも話しかけたい衝動を抑え、入学式が終わるのを待つ。そして何とか入学式を終えた後、愛しの彼女の元へと向かった伊織だが、どうやら彼女の方は自分のことを覚えていなかったらしい。息を弾ませる少年にかずらは首を傾げた。
「かずら!」
「……あ、三好くん」
「お前もD組なんだな!」
「うん、偶然だね」
どこからともなく現れた別の少年と楽しげに会話をしながら、かずらは伊織の横を通りすぎようとする。そんなかずらを慌てて引き止めようと腕を伸ばした伊織だが、不意に彼の頭の中で、ゲン担ぎで引いたおみくじの内容が再生され、ピタリとその腕が止まった。
『今日は会いたかったあの人と会える日! でも焦らないで。まだ思いを告げる時じゃないから! ゆーっくりじーっくり、相応しい場が来るのを待ちましょう』
そして一年後。遂に、その時はやって来た。
『手に入れたかったモノが手に入る時です。斎戒沐浴を心掛けて早起きをするのを忘れずに!』
おみくじの内容に従って、朝早く来た伊織の目に入ったのは、自分の隣の靴箱に何かを入れるかずらの姿。咄嗟に身を隠したことで自分の存在に気付かなかったかずらは、一つ深呼吸してその場から離れた。
カタ――。
靴箱を開ける音が鳴る。かずらが去ったのを確認して、ゆっくりと隣の靴箱を開けた伊織の目に入ったモノは――
『突然すみません。貴男に少しお話があるのでお時間があれば放課後、体育館裏に来てもらえないでしょうか』
遠慮も躊躇もなく開けられた白い封筒。その中の便箋に書かれたその文に、どす黒い衝動が伊織に襲いかかった。それが何なのか。彼は十分過ぎるほどに知っている。何故ならこの一年、それを感じない日などなかったのだから。そう、それは言うまでもない――『嫉妬』だ。
「っ――」
怒りのままに破り捨ててやろうと、封筒と便箋を重ね持つ。その瞬間、彼は大事なことに気付いた。
真っ白な封筒には――なかった。
「あ、」
そう、その封筒は白いままだった。宛名は、どこにも書かれていなかった。
「ああ……」
熱い熱い、息が漏れる。極自然な動作で伊織はその封筒を鞄にしまい、その場を後にする。端麗なその口に、弧を描きながら。
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