修羅場

「こ、ここ、ころしてやるっ!」


 目の前に向けられたのは、自然光に当たって鈍く光る鋭利な刃物。刃渡りはちょうど九センチメートルちょっと、携帯電話ほどの折り畳み式ナイフだ。そんな小振りな刃物でも傷はつけられるし、使い方次第では生き物の命だって刈り取れるだろう。

 だが、今の状態では無理だ。鋭い刃先は携帯のバイブレーション如く揺れているせいで、狙いが全く定まっていない。ぽんと軽く手元を蹴り上げるだけで、最初の声の持ち主は簡単に獲物を取り落としてしまうだろう。

 ナイフを突きつけられた月光は、そう冷静に分析した。いつでも道具に責任はなくて、全て人間の意志によるのだなとも。それに対して、震える右手を更に震えている左手で、無理矢理抑え込むようにナイフを構えているのは、どこにでもいそうな普通の、平均より若干背の低めの少年だ。

 月光とはまた違ったデザインの制服を着た彼の目は血走り、よろしくない方向に興奮していることが見て取れる。まるで危ないクスリを打った後のような状態だ。

 ……はてさて、少年これは一体どこの誰だっただろうかと、月光は考えはじめた。まるで、テレビのクイズ番組をCM中に考えているように。非常にリラックスした黙考の末、結局何も、全くめぼしい記憶は発見されなかった。まあ、仕方がない。自分の場合、他人から疎まれ恨まれる要素を持ち合わせていすぎるのだ。

そんなわけだから、どうでもいいかと、月光は記憶の探索を放棄した。どうせ結果は変わらないのだと。あともう少しで、血が流れる。もちろんそれは、彼の躰からではなく。


「絶対殺してやるからな!」


 少年はその科白をまた繰り返した。それは敵に対しての宣戦布告であり、己に暗示なのであろう。自分ならば相手を刺せる。自分ならば相手を殺せる。自分ならば――相手に勝てる、自分は強いのだ。何度も何度も言い聞かせては、自分の中に刷り込ませて。弱い心根を必死に押し隠す。なんて愚かで浅はかなのだろう。

 月光は、次第に自分の中で何かが冷めていくのを感じた。くっ、抑えきれなかったのか、彼の口元が上がる。


「なっ、なにがおかしいんだよぉぉぉ!」


 裏返った声が響き、更に月光の冷笑が深みを増す。少年の震える両手が、両足が、及び腰が、彼を証明する全てが。なんと、滑稽なくらい無様な有様だ。――茶番まえおきはココまでだ、もう破壊らくにしてやろう。

 ――じゃり。

 月光が少年に殺気を叩きつけるより少し早く、靴底が地面を踏みしめる音がした。それは確かな人間の気配。このタイミングで人が来るとは誤算だった。内心月光は毒づいて、どうせサボり目的であろう人物を一睨みで退散させようとそちらを振り向く。


「――なに、してるの?」


 月光は一瞬目を丸くした。現れたのは見覚えのある女――同じクラスの神風真昼かみかぜまひるだった。教室で電波兄弟や片耳ピアスら男子生徒とよく口論したり(痴話喧嘩ともいう)、取っ組み合いをしている、可愛らしいな外見に似つかわしくない騒がしい女子生徒である。

 少し前、偶然南の歓楽街で自分の従姉と肩を並べて歩いているのを見た。一緒に住んでいるという噂もあるが、真相は定かではないし、月光にとってはどうでもいい枠に入るものだった。それ以前に、あの従姉の周辺は月光にとっては鬼門でもある。


「アンタ達なにして……」


 真昼は他校の少年と自分の顔を見比べて、やっとナイフの存在に気付いたようだ。はっとして息をのみ、まず出た一言は――。


「これ、ナニプレイ?」

「…………」

「…………」


 妙な間が空いた。というより凍った。緊迫した空気が一気に薄れ、間の抜けた雰囲気が漂いはじめる。


「プレイって、何のことですか」


 予想外すぎる台詞に、月光は思わず指摘してしまう。


「こう、あれでしょ? イタイ感じの」

「そういうものがあるのは知っていますしその行為自体を否定する気もありませんが、僕はそんな趣味はないですよ」

「じゃあチジョーノモツレというやつ? もっと器用にやりなさいよねえ」

「違います」

「じゃあ、なにしてるの?」


 真昼は少年の方に向き直り、どこかのグループに混ざてもらうかのように、さりげなく彼に近寄ろうとした。少年は突然のイレギュラーにビクリと肩を震わせ、その顔を青白くさせた。更には、これでもう後には退けなくなったとでも思ったのか、真昼にまで刃を向けた。月光は舌を打つ。せっかくの解体あそびが面倒なことになってきたからだ。


「見ての通り取り込み中です。昼寝なら他をあたって下さいね」

「ほほう。そしてその後人様に見せられないようなプレイをしたいと」

「君は耳に穴を開けすぎたようですね。今すぐその話題とここから立ち去りなさい」

「ま、スルシナイはアンタ達の勝手だけど」


 真昼が首を上にあげ、下ろした。声のトーンが下がる。


「月光、もしかしなくても私がここから離れたら、この他校少年を五分の四殺しにするつもりでしょう?」

「戯言ですね。見ての通り、僕は現在進行型で凶器を向けられているんですよ。立派な正当防衛じゃないですか」


 月光はにたりと笑う。彼の壮絶な笑みにも怯むことなく。真昼はやれやれと肩を竦めるだけだ。


「だ、そうだけど他校の君。どうするの?」

「っ、え……」


 急に話を振られた少年は、慌ててナイフを握り直す。手が汗で滑るのか、何度も何度も手の位置を変えながら、震え続ける刃を真昼に向けた。


「そんなちゃっちいナイフで、しかもそんなガクガクな体制でこの喧嘩馬鹿に本気で勝てると思ってるの?」

「……その喧嘩馬鹿とは僕のことですか?」

「アンタ以外に誰が居るのよ」


 多汗症なら手袋でもしてきたらよかったのにとか、ぼんやり考えていた月光はやんわり口を挟むと。あっさりと失礼な返事が返ってきた。


「う、うるっさいッ……!」


 少年の声は引きつり、先ほどよりも裏返った。


「煩いって……アンタの声の方が大きいじゃん。どうせできないくせに……ほら、その証拠に腕どころか躰全体が震えているし……ハァ、情けないったらありゃしない」


 ……どうしてわざわざ刺激しているんだと、月光が突っ込む間もなく。


「あああああっ!」


 安っぽい挑発に簡単に激高した少年は叫びながら駆けだした。真昼に刃先を向けて。完全に彼は標的を見失っている。酔っているのだ。初めて手にした凶器と、初めて現れた殺意に。


「な、」


 ドンッ。

 しかし、声を上げたのは真昼ではなく。衝撃が背中に走った月光だった。同時にぞっと冷たいものが体内に駆け上がる。気が付けば、少年の目の前――刃物に向かって自分の躰が傾いていた。後は、本能だけだった。体勢を崩しながらも、とっさに空中で身を捩じる。片頬に鋭い熱が灯ったが気にしている余裕などない。

 摩擦で砂が音を立て、月光の膝が地面につく。膝をつくなど、月光にしては珍しい失態だった。一瞬かすめた死の臭いに、冷や汗と少し乱れた呼吸を整えると、月光はゆらりと立ち上がった。


「……何なんだ、貴様」

「ひっ!?」


 険を帯びたどころか殺気さえこもった月光の視線に、少年は身を竦ませてナイフを取り落とした。だが、実際のところ月光が睨んだのは、飄飄としている真昼の方である。


「……今、僕を盾にしたな」

「はてさて、何のことかしら?」


 濃硫酸のようなすさまじい月光の殺気に、真昼はしたり顔でしれっと返した。あの背中の衝撃、あれは真昼の蹴りだった。自分に凶器が向けられた瞬間、迷わず焦らず的確に月光を足蹴にし、盾として用いたのだ。

 こんな卑怯な真似をするなんて、あの喰えない従姉おんなとの同居、セクハラ教師を一人で辞職に追いやったという噂は(表向きは持病の悪化ということになっている)、あながち風説ではないのかもしれない。


「あ……あの……」


 掠れた声に、月光と真昼はほぼ同時に振り向く。これまた珍しく、月光としては真昼に目が向きすぎて肝心のおもちゃをすっかり忘れていたのだ。

 物理的に月光に刃を向けた少年の視線が、月光の顔で止まっている。月光はその視線を頼りに、頬を指で探る。すると見慣れた赤いものが指についた。どうも熱いと思ったら、出血していたらしい。先ほど頬を掠めたナイフは、月光の顔の薄皮一枚を切り裂いていたのだ。

 あと数センチでもずれていたら、目玉を抉りとられていたかもしれない。そう考えて、月光は更に真昼を睨み付けるものの、睨まれた本人はまるで馬耳東風だ。


「……あの……俺……」


 再び無視され、少年は居場所なく立ち尽くす。ふいに真昼がしゃがんで、何かを拾い上げる。それは少年が落としてしまったナイフだった。月光が訝しそうに見ている中、真昼は銀色に光るそれを手中で遊ばせる。そして何を思ったのか、彼女はそれを取り返そうとせずおろおろしている少年めがけて振り上げた。あまりの突然のことに、月光も少年もそれを見守るしかなかった。


「う、わっ……」


 ゴツンッ。

 真昼はその凶器を思いきり、四角い額に振り下ろした。ただし、ナイフの柄の方を。だが、持ち手の方とはいえ、痛いものは痛いらしく、少年は崩れ落ちる。


「っい、たたたた……」

「痛い?」


 真昼の声は冷えていた。生きている人間にあるはずの温度を全く含まないそれは、まっすぐ少年に突き刺さる。


「でも、これを逆にしてまた振り下ろしてみなさいよ。もっと痛いことになるし。それに血だって出るんだから」

「あ……」


 頭を抱えて蹲る少年の顔がさっと青白くなるのが、額を覆った手の間から覗き見えた。この時になって、彼は震えだす。己の仕出かそうとしていたことと仕出かしたことに恐怖を覚えたのだろうか。

 それとも、目の前の少女が放つ、異彩な威圧感に気圧されているのかもしれない。それにしてもである。盾にされて怪我をしたのは月光であって、真昼が痛いとか何とか説教する資格があるのかという疑問があるのだが。月光は口を挟まない。もともと誰かと違って多弁な人間ではなかったせいだ。


「まぁ、これでオアイコね」


 殺気のようなものを放っていた真昼は、すぐにあっけらかんとした口調に戻った。


「ほら、これ」

「え、えっ」


 真昼は少年に身を屈めて先ほど使ったナイフを差し出した。


「アンタが持ってきたんでしょ。ちゃんと持ち帰りなさい」

「で、でも」

「アンタが何とかするものだから」


 あっさり凶器を返還されて戸惑う少年に、有無を言わせない強い口調で、受け取らせる。少年はよろめきながら立ち上がり、おずおずと手を出した。そこに、あの小ぶりな狂気が置かれる。

 彼がナイフを折り畳もうとするが、手が震えているのでなかなか上手くいかないようだ。しばらくナイフと格闘していた。彼は重みを感じているのかもしれない。命をあっさり壊してしまえる、凶器を使おうとしていたことに。


「安心しなさいって、他校の君。私も彼も学校や警察にチクる真似なんてしないから」

「……え?」


 やっとこさでナイフをポケットに入れられるようにした少年が、はっと顔を上げた。


「事情は知らないしどうでもいいけどね、理由があったんでしょう? このなんちゃって不良さんが相手だし?」

「だから、不良さんとは僕のことですか」


 しかもなんちゃってって。月光の的確な突っ込みはまた流された。


「あのー……」


 少年が、妙に楽しそうな真昼と複雑な表情の月光の顔色を交互にうかがっている。月光は好きにしろと言わんばかりの視線を彼に投げかけた――つもりだったに。なぜか脅えるような顔を向けられた。


「大丈夫よ。いくらこのお馬鹿不良さんでも闇討ちなんて律儀な真似はしないはず。私が今やったしね」

「だから馬鹿って……」


 赤点常習犯の君には言われたくないんですが。


「ほら、もう行った行った」


 ぽんと少年の肩を叩いて帰りを促す。あの冷たい声を放った時とは、同一のものとは思えない、優しい声色だった。


「は、はい。ご、ごめんなさい」


 素直に謝罪して走り去っていく他校の少年を、すっかり興ざめしていた月光は追いかける気は起きなかった。


「逃がして、よかったんでしょう?」


 やっと月光の方に振り向いて、真昼はニタリと笑う。


「……ふん、何を今更」


 もう、近くに真昼と月光以外は誰もいない。少年は真昼に言われるがまま、本当に帰ってしまったようだ。月光としてはもちろん傷の借りは返したいのだが。もし次に会ったとしても、彼の顔を覚えている自信はなかった。再び彼から喧嘩を売りにくるか、もしくは機嫌の悪い月光と鉢合わせしない限りは――あの少年は精神メンタル含め、五体満足で居られるはずだ。

 そんなことを考えて、気づく。月光は武器を持った敵を見逃したのは初めてであったことを。いつもならば。容赦なく顔の形が変形するまで殴り続け、骨も何本か持っていく。凶器を向ける相手を誤ったことを、その躰に狂気を持って刻み付けるのだ。だというのに、今回はある意味滅茶苦茶になってしまった。


「君、絆創膏か何か持ってないんですか」

「なあに? 私がそんなものを持ってるとでも?」

「…………」


 思わない、全く以って。


「……全く使えない人ですね」

「変な責任転嫁はやめてほしいわね~。そんなにも喧嘩が好きならそういう状況を予想して準備しておくもでしょ」

「僕はいつでも自分の血を流す予定はないんですよ」

「そんなの負けた時の言い訳でしょ。実際怪我したわけだし。あ、でも出血を抑えるなら鞄にナプキンが入ってるけど貸してあげようか?」

「それを僕に使えと? ……気が利かない以前に人間の思考回路を持っているかどうか疑わしいものですね」


 この小娘、尻尾ポニーテールをなくした結果、ますます性別不明になっているようだ。


「それはザレゴトね。こんなに麗しく儚く清楚な男がどこにいるというの?」


 何が儚くてどこが清楚なんだと心中でツッコミを入れつつ、また指で傷口をなぞる。かさりとした感触からするに、出血はすでに固まりかけているようだ。思わず口端が弧を描く。自分の血が出て固まるのを見るのは、あまりにも久しぶりだったから。急に笑った月光を見た真昼がすっと身を引いた。


「まさかアンタ、そーゆー趣味が?」

「断じて違う。大体、この傷は誰のせいですか」

「さあ、なんだったっけ?」

「僕と今喋っている君ですよ、反省して下さい」

「はてさてー? なんのことやら覚えがないんだけどー」

「すがすがしいくらいしらじらしいものですね……この借りは必ず返すぞ」

「お好きにどうぞ」


 低い声を更に低くして威圧するように言ったのにも関わらず、逆に壮絶な笑みで返された。真昼が現れた時点で誤算だったが、思い切りペースを乱されここまで予定を狂わされるとは。だが、悪くない。月光はまた口角をゆっくり釣り上げた。やや斜め下で、びいどろのような瞳が笑った。それはまるで、鋭いナイフのように自分に向かっていて……。


「ああ、傷が痛むようなら部室にバファリンが」

「もういいです」

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