神様の横顔

リリィ有栖川

彼女は神様

 午前四時のちょっと前。少女の荒い息が、一番大きな音だった。


 Tシャツに中学の時の体操服のズボン。寝起き丸出しで千絵は走る。


 千絵には神様がいた。イエスやブッタやアッラーのようなものではなく、実在する、同い年の女の子。愛衣華という、見た目も名前も華のある彼女は、その見た目を全て活用することなく、一心不乱に絵を描いていた。


 愛衣華を変人と揶揄する人はたくさんいたが、千絵はその姿に光を見た。美術室で、全ての音が聞こえないかのようにキャンバスに向き合って手を走らせる彼女は、本当に綺麗だった。彼女には私の見えていない世界が見えているんだと、絵を見る前から圧倒された。そして絵を見て驚かされた。


 そこには本当に、彼女にしか見えてない世界が広がっていた。


 初めて見たのは、近くの臨海公園から見える海の景色。千絵には濁った巨大な水たまりに見えていたのに、彼女には何か得体の知れない生き物に見えているらしくて、それが綺麗な淡い色と濃い藍色の空の下で蠢いて、千絵はその絵から目が離せなくなっていた。


「きにいった?」


 そう声を掛けられて、まるで催眠術にでもかかったようにぼんやりと、「はい」と答えた自分に驚いて、千絵はすぐに我に返った。


「そう」


 二人の初めての会話はそれだけで、そのあと一週間後に完成したその絵を愛衣華が教室に持ってきて、「あげる」とだけ言って置いて去っていった。教室はざわついたけれど、千絵には何も聞こえず、ただ愛衣華の後姿が輝いて見えていた。彼女は神様なんだと、千絵はその時思った。その日から毎朝その絵を拝むのが千絵の日課になった。


 二人のことは学校中の噂になり、千絵も愛衣華も孤立していくが、どちらもそんなこと気にもならなかった。愛衣華は絵に、千絵は愛衣華と愛衣華の描く絵に、とり憑かれたようにのめり込んでいった。


 会話という会話をせず、ただひたすらに絵を作り上げ、その完成を待つという光景は、誰が見ても異様であった。


 だがある日、愛衣華は学校に来なくなってしまう。彼女を探そうにも、千絵は美術室にいる彼女しか知らない。神の消えた美術室に、それでも千絵は通って、彼女の置いていった作品をじっと眺めていた。


 この世界を、私は見ることができない。見たいのに、見られない。


 頭の中はとうに正気ではないのに、表面上は妙に静かな千絵は、誰の呼びかけにも応えなくなり、家ですら孤立し、もう誰も彼女に関わろうとする者はいなくなった。


 愛衣華がいなくなってから一ヶ月が経ったある日、夢を見た。もらった絵の中で、愛衣華が絵を描いている夢。


 目を覚ました千絵は何も疑うことなく、着替えも何もそっちのけで家を飛び出し、走り続けて、今、海岸までたどり着いた。


 そこには本当に愛衣華がいた。明け方の、陽が昇らない水平線を見つめながら、何も変わらずに絵を描いている。


 その絵をうしろから覗けば、そこにはやはり、千絵には見えない何かが描かれていた。


 恐怖と共に、跪きたくなるような威光。息も出来なくなっていた。


「きにいった?」


 それは最初の言葉だった。


 愛衣華の言葉でやっと息を吸えたが、千絵は答えられない。ただ、ゆっくりと首を振っていた。


「そう」


 その絵から何かが這い出てきて、千絵と愛衣華を包み込む。


 海の中に引きづり込まれたようで、だが息はでき、何も見えないのに、周りを何かが蠢いているのは、愛衣華の姿は、はっきりとわかった。


「もう、いかないといけないの」


「わた、私」


「これはゆめよ。ながいゆめ」


「ゆめ」


「おきたらさよなら。きっとうまれかわれる」


「あなたは、あなたは私の」


「さようなら」


「神様、です」


 体の内側を撫でるような甘い笑い声が、耳元で遠くで目の前で、水の中から空から内側から聞こえて、そして、


 そして千絵は目を覚ます。


 海岸で、Tシャツに中学の時の体操服のズボンという姿で。


 目の前の海からは太陽が昇り始めて、白み始めている。


 あの絵も、愛衣華も、どこにもいなかった。


 全て夢だったとしたら、私はどうしてここにいるのか。夢じゃなかったとしたら、愛衣華はどこに行ったのか。


 ぼんやりとした頭で考えていると、ふと波打ち際にキャンバスが落ちているのを見つけて、近づいて、拾い上げてみる。


 そこには何も描かれていなかった。だが千絵には、何かが見える気がした。


 キャンバスを持ち帰り、あの絵の横に飾ろうとして、絵がなくなっていることに気がついた。だが確かにそこにあった証のように、うっすらと壁の色が違う気がした。


 千絵は笑い、そこに何も描かれていないキャンバスを飾った。


 きっと自分には、生涯あの景色は見ることができない。頭の中にある絵も、描き出すことはできない。私は私に生まれてしまったから。


 千絵はそう確信しながら、キャンバスに鉛筆を走らせ始める。


 不思議と濡れていないそのキャンバスに、愛衣華のあの横顔を。


 千絵に見えていた、たった一人の神様の姿を。




          了

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神様の横顔 リリィ有栖川 @alicegawa-Lilly

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