第41話 トンネルへ
そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てで賭が行なわれ、表が出るか裏が出るのだ。君はどちらに賭けるのだ。理性によっては、君はどちら側にもできない。理性によっては、二つのうちの どちらを退けることもできない。
したがって、一つの選択をした人たちをまちがっているといって責めてはいけない。なぜなら君は、そのことについて何も知らないからなのだ。――いや、その選択を責めはしないが、選択をしたということを責めるだろう。なぜなら、表を選ぶ者も、誤りの程度は同じとしても、両者とも誤っていることに変わりはない。正しいのは賭けないことなのだ。
――そうか。だが賭けなければならないのだ。それは任意的なものではない。君はもう船に乗り込んでしまっているのだ。では君はどちらを取るかね。さあ考えてみよう。選ばなければならないのだから、どちらのほうが君にとって利益が少ないかを考えてみよう。
――「パンセ」 第三章 賭の必要性について 233 パスカル(前田陽一/由木康訳 中央公論新社中公クラシックス)
「よし、行くぞ」
と、チェロキーはいいました。
「まって!」
ママがソルに歩みよります。
「これを」
強引にソルの手をとり、ギュゲスの指環をその指にはめ込みました。
ビクッ、となって、されるがままのソル。
「ん、なんでママが?」
ちょと、おどろいて、たずねるチェロキー。
「きのうね、ダイくんにムリ言ってもらったのよ」
ダイの方を見て、
「ね、いいわよね?」
ふり向くと、ダイはうなずきました。
「ゴメンね。あたしだって普通にくらしたいのよ」
小さい声でいうママ。
「なに言ってんの?」
ダイが聞きかえすと、
「なんでもない」
と、ママは口をつぐみました。
二人は車にのりこみました。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけて。無理しないで、なんかあったら、すぐに引き返すのよ」
「最後のあいさつをしろ」
チェロキーがアゴで、ソルをうながしました。
「あ、ありがとうございます。サヨナラ」
うらがえった声でいうと、ペコペコ、からくり仕掛けのように、おじぎを二回しました。
「よう、たっしゃで暮らせよ。若人よ!」
ダイが言い終わる前に、エンジンがかかりました。
「ホント、無理しないでよ!」
エンジン音に負けないよう、ママが怒鳴ると、車は走り出しました。
車が視界から消えると、ダイは船のタラップに手をかけ、のぼりはじめました。
「本気で行く気?」
ママの問いに足を止め、彼は背中ごしに笑いました。
「なにも、今でなくても……」
ダイは、メンドクサそうにむきなおりました。
「ズルズルってなるだろ? このまま、ここにいたら」
「――あんたたち見てて、そう思った。若さが貴重なのが、ようくわかった。べつにこれ、嫌みで言ってんじゃないんだぜ」
「……」
むごんのママ。
「じゃあ、そういうことで」
しゅっと、かた手を上げました。
「気をつけてね」
後ろ手をふって、彼は船内に消えました。
エンジンがかかりました。海面にアブクが立ちはじめます。アイドリングもそこそこ、船は埠頭からはなれ出しました。
どんどん、はなれていくオンショア号。やがて船は回頭をはじめ、むきをかえていきました。
ふいに船室のうしろのドアが開き、ダイが甲板にあらわれました。
「せわになったな、ジジィ!」
と、大声で怒鳴りました。
ヒールの高いサンダルでのびをして、ママは手をふって返しました。船が見えなくなるまで、彼女は大きく手をふっていました。
まばらな綿雲がうかぶ青空の下、車は海の上を快調にとばしていました。黒地に白のゼブラ模様のラングラーが、しずかなガソリンエンジンを響かせ、潮風の中を疾駆していました。
視界がよく開けています。まばゆく広がるオーシャンブルーに、煌めく銀の鱗。型くずれしない、おきもののような白い雲が、ポッカリうかんでいました。
橋梁のりょうわきには、道路照明灯の柱がなく、路面から1メートルほどの高さの欄干があるだけでした。道にまたがった案内標識が、ビュンと、とんでいきました。
トップは閉じたままですが、風がバタバタ音を立てて、車内をあれクルっています。ソルはりょう手で庇をつくって、のびすぎた前髪をふせぎ、青い輝きに目を泳がせていました。
この方の露草色から、かなたの紺青へ。色のグラデーションが変化しています。植物プランクトンが少なくなるせいか、遠方の青は、ひときわ濃く見えました。環境対策による澄んだ空気のおかげで、対岸のコンビナートがハッキリ浮かび上がり、省エネルギー化されたエチレン製造設備の、タンクやパイプさえ見えました。
きれいな緑の案内板と黄色い警戒標識、白いアーチ型の電話ボックスと、リングだけになった吹流しの残骸……、たんちょうな景色がつづきます。ヒビワレもなく、思ったいじょうにキレイな道を、チェロキーは順調に愛車を走らせていました。
かろうじて「うさぎ島 1.2km」と読めた示板をすぎ、下り勾配になると、白い構造物がハッキリしてきました。
うさぎ島への誘導路があらわれ、三車線になりました。海上ではじめての信号機をすぎると、また二車線になり、左右には道路照明灯がならびました。
頭上のU字の高架をくぐると、その道が下りてきて、また三車線になりました。そのまま上部構造物である、うさぎ島パーキングエリアへ、地下へとつづく穴倉へと吸いこまれていきます。
手前でチェロキーはハイビームを点け、トンネル照明の消えた坑内へ突入しました。
――と、さっそくバリケードです。
チェロキーは車からおりて、確認にむかいます。
見るとバリケードは簡易的なもので、人の手でも、じゅうぶん動かせそうでした。
もどってくるなり、
「よし、ここで降りろ」
と、いいました。
「?」
のみこめない、ソル。
「聞えないのか? 降りろと言ってるんだ。荷物といっしょにな」
「……」
不意打ちでした。ワケがわらず、重たい足どりでソルはおりました。
チェロキーは窓から顔を出し、事務的にいいました。
「おれは、これからすることがある。後は、おまえ一人で行け」
「……」
アクシデントにろうばいしても、ソルは顔に出ない、出せないのが特徴でした。ちょっと前なら、なにかにつけ不運に先手をうって、予行演習していましたが、その気がまえもすっかり忘れていました。
「――サヨナラ」
先走って終わりのコトバが、出てしまいました。
「やけに、ものわかりがいいな(笑)」
めんくらって、ふきだすチェロキー。
ソルもいみなく笑いました。
いちどの切りかえしで、ラングラーは走り去りました。
ふたたび陽の下に出ると、チェロキーは革ジャンをぬぎました。
「おかしなガキだ……」
と、彼はつぶやきました。
ソルは一人、とりのこされてしまいました。
背後からの光は、まだとどいていますが、この先は黒く塗りこめられたような、暗黒の壁でした。いそいでママからもらったリュックを手さぐりし、チェロキーからもらったフラッシュライトのスイッチを入れました。ライトの電池は極小で、つけっぱなしでも二日強もちますが、ねんのため、よびを三つもたされていました。
まるみをおびた壁を、クルッと照らしてみました。
なるほど、せまい範囲はクッキリ見えます。
こんどは、光を直進させてみました。
おもったほど、のびてくれません。不安がよぎりました。
白い穂先はあえなく萎れ、黒にのまれてしまうのでした。
バリケードをくぐって、しばらくいくと、道は二車線にへりました。なぜか、左がわだけ歩道が広く、非常時のためでしょうか、棚段がもうけてありました。高さ1メートルほどで、上は人ひとり歩ける幅でした。
息苦しさをおぼえましたが、気のせいなのは、わかっていました。ひっきりなしにふりかえっても、背後の光は、まだまだ、ぜんぜんハッキリしていたからです。ためしにライトを消すと、薄闇の中まわりを判別できました。
――パッ!
と、あかるくなりました。
まだ、スイッチを入れていません。
はじめた、ばっかりなのに!
故障をうたがい悲嘆におそわれかけると、黒い影がよぎりました。
ビクンッ、となるソル。
カンオンでした。
「なんだよ」
「どこいってたんだよ、お前は……」
口もとが、ほころんでいました。
「そうか、生体識別か。トンネルへ入って反応を見うしなって、あわてて来たのか」
船にのり、日常をはなれ、海をわたってやって来たものは、とうぜんおなじ経路をたどって、もとに帰らねばなりません。エネルギー環境にとぼしい、この島からの脱出にそなえ、エネルギーを温存していたカンオンは、急速に島からはなれてゆくソルを感知しました。じつは、カンオンはソルの来るずっと前から、港に前のりしていました。じっさい、彼もさっきまで、そこの船上でゆられていました。しかし車とともに、ソルの生体情報が海上をとおざかると、裏をかかれたカンオンは、いそぎ彼を追いやってきたのでした。
声のトーンが一段上がり、がぜん元気が出てきました。強気になって、コトバづかいも、ちょっとあらくなりました。しょせん彼もクラランっ子でした。
「とりあえず明かり消せ。エネルギーがもったいない」
ライトをグルグルまわして、いいました。
光量は落ちましたが、消えはしませんでした。そういえばカンオンとは、そういうものでした。
「よし、いくか」
ここからが、本番でした。
ギョッとするほど大きな文字が、右壁にあらわれました。
黒い字で「9km」と書かれていました。
出口までの距離だと、カンオンがローカル情報でおしえてくれます。
「必要最小限でいいから」
と、ねんをおしました。
なんだか暑苦しく、息苦しく感じましたが、彼はじぶんの感覚に自信がもてないでいます。トンネルに入ってから、いったいどれくらい時間がたっているのか、よくわからなくなっていました。
「一時間?」
「――いやいや、そんなはずない、そんなはずない(笑)」
「まだ十分もたってない。数分単位だ。そんなに時間はたっていないはずだ」
じぶんの息づかいが、こもって反響します。それがトンネルの中で響いているのか、それとも頭蓋骨の空洞の中で響いているのか、あいまいになってきました。
ぼ~っとなってキーンとなって、足音がとおくで鳴ったり、ちかくで鳴ったりしています。
客観と実感が浸透しあい、皮下では他人の脈がうち、感覚のカタマリと化しているのに麻酔で鈍麻したようになり、意識が先走りするのとは裏腹に、肉体からはなれ、じぶんを見下ろしているようでもありました。
なでると額がぬれていました。反面、さむけも覚えました。体の表面がつめたく、内側はほてっていました。いえそうじゃなく、内側がつめたく、表面があついのかもしれません。気づかぬうち、カゼでもひいたのでしょうか?
悪寒と熱とのはざま、体とイデアとの中間で苛まれているのは、はたして、なにかの罪悪感の代償なのでしょうか?
贖罪?
感覚には限界がなく、闇と一体化したと思ったら、深海で圧縮された空缶みいに、ギュッとちぢかんで、闇に疎外されたりしていました。
もう引きかえそうか?
とも、思いました。
ていうか、とっくからそう思っていました。
後、のこり9キロ。
まだ19分の1……。
カンオンのおせっかいな表示。
まだ、はじめたばっかりなのに、もう19分の1だと思えってか?
ムリいうなよ。
フフッと、うすらわらい。
「――じゃあ、おまえがやれよ!」
とつぜんの大声。
トンネルの中は土埃っぽくゴムくさく、古くなって黒いカビだらけの、エアコンのようなニオイがしていました。
一方、クラランの街では、局所的なお祭りさわぎになっていました。租税回避地である、わすれられた島「スソ・ガウラー・アイランド」からの、ぼうだいな情報流失の件でした。
上級市民たる自立民さまの多くが、脱税していたんだから、とうぜんといえば、とうぜんでした。しかし、大々てきにそれらの全体像が、カンオン上に報じられることはありませんでした。
ビックデータのせいではありません。マスコミ関係各位と、その広告主などの名前や住所が、あからさまに、そのリストにのっていたからでした。合法的でありながらも、知る人しか知らない、だれもが利用できるわけでもない、非倫理的な幽霊銀行のお得意さまとして。
プライバシー保護のために、おおやけのニュースからは個人名、企業や法人の代表取締役名などがふせられました。報じられたのは、人目につく有名人ばかりでした。蹴球選手や、蹴球選手あがりの蹴球連盟元会長。お子さまむけ漫画映画の子役あがりの女優に、その原作の翻訳家(これは別件ですが)。それに政治家では異国の首相と、わがまちクララン市長のみでした。それいぜんに、大見出しであつかわれることはなく、かたすみに、ひっそりと小さな記事が、アリバイづくりで載ったただけでした。
一時ソースへたどりつけるのは、あるていどの情報リテラシーのある、かぎられた人しかいませんでした。より情報源へ、みずから遡ることのできるもの。生活に直結しないが、なんらかの個人的動機づけをもつもの。うっくつした負のエネルギーをかかえ、そこそこの教養のあるもの。など、ゆとりと失くすものがより少ない、ひそかに役不足を自認するものにかぎられていました。
それは全体としては少数派ですが、過少というほどでもなく、ようは政治的影響力や決定権をもてない、被趨勢の立場で不満をかこっている、政治に関心のある自称教養人=無趣味な人たちでした。
じりじりと、時代に押し切られる宿命である、おこりんぼの中高年の男性たちは「だからこそ我々は、元へ元へと拒み続けるのだ。流れに抗うボートのように、絶え間なく未来へと押し流されながらも」と思いつつも、グズグズなし崩しにながされてゆく我と世間とを、ゆびを食わえて見ている他ないのでした。――ニーチェ曰く「青春を憎むまでが青春」だそうです。
とはいえ、高度情報化社会です。基本勝組の臆病者に代わって、まったんでイザコザをおこしてくれる輩、メフィストフェレスの使いっパシリも、もちろんいました。彼らバイキンマンたちは、ほとんどが自由民(依存民)でしめられ、インテリたちは陰に陽にそのメディアリテラシーを駆使し、みずからの代役として、僅少な額の支援をおしみませんでした。
しかるに、いったんことが起きると、日ごろ野蛮を気どっていたインテリたちはおよび腰になり、おぼうちゃまの地金をさらけ出しました。アイツら「な~んか違うんでしゅよね」と、ともだちんこを忘れ、とおい眼差しをむけるのでした。
インテリでありながらも、実行犯であるがゆえに、インテリ派からの羨望と嫉妬の的となった、あはれなるブルータル三島は、一世一代の檜舞台のはしごを予定どおり外され、ルサンチマンをかこつDQNの亜種として、カンオン上のニューススレッドを数秒間にぎわせただけで終わりました。
この事件をうけ、ある国民的歴史作家は、あろうことか彼のことを「密室(思想)に他人(楯の会)を入れた」=てめぇかってなイデーに他人をまきこんだと、道徳的もしくは倫理的に批難しました。
倫理? 彼は松永久秀という戦国武将に対し「ここで氏は、北陸出征の包囲戦からほとんど身ひとつで脱出してきた信長を、なぜ久秀は謀殺しなかったか、と現在の私たちをドキリとさせる疑問を発している」(街道をゆく/解説 牧野祥三)などに見られるよう、さんざん非情で無道徳な歴史をデパートの屋上からの視点で俯瞰しておきながら、みじかな「今ここ」でことがおきると、とたんに眉をしかめる女々しさをはっきしたのでした。
一皮むけば、その文章にゆたかなポエジーをたたえたロマンティックなペルシャの幻術士は「実存? そんなことは召使どもにまかせておけ!」とばかり、書斎で野蛮をきどる澁澤ばりの典型的なダンディズムをみせ、ロマン派と自然主義をあらかじめ内にふくんだ国木田独歩のような可能性は、チヌたん(戦車)のシュミレイション機のダブルクラッチが上手くあつかえず、教官にどつかれたていどの、貧弱な従軍経験により抑圧されたのでした。
で、フリークスぎらいなアポロン三島の私語。けっきょくのこったのは、さらなる空白だけでした。――ちなみに、彼の生首の写真をゆいいつ報道したのは、押神で有名な日の下一のクォンティティペーパーこと、ちょうにち新聞のチョウニチグラフだけでした。
いつだってニュースになるのは、目先の人たち、やってしまう人たちばかりでした。彼らは人間らしいというより、獣よりに今を生きていました。――まともを自認する吾人は、彼らを軽蔑しつつ、じつはちょっぴり憧れたりもしているものなのです――彼らはスケープゴートになる未来を恐れる空想力や、行動の代替となり、またそれらをプールする内面の容量が足りず、その場の価値判断もあやふやなため、見切り発車のできる人たちでした。よく言えば英雄的気質をもつ人たち、わるく言えばアクセル吹かしっぱなしの、犯罪者の類縁みたいな人たちでした。
とにかく儲けたいより目立ちたい、スキャンダル中毒の永久にマッチポンプなホストチャレンジャーな彼ら彼女らは、ひっくるめて多恋人とよばれていました。
多恋人は多彩に無自覚に、その社会的役割を遺憾なくはっきしました。その役目とは、宇宙の暇人のための娯楽提供、A層(企業)によるC層(受動的大衆)どうしの共感をつうじた可処分所得(小遣い銭)の回収、そしてなにより、もっと重要な案件からの目くらまし、などでした。
ようするに、水面にさざ波は立っても、底から掻きまわし汚物を浚うような、社会的攪拌はおきなかったのです。すべてが不発におわり、おわらない日常とやらが、また一つ更新されただけでした。――シオラン曰く「おのれを中傷する快楽は、中傷される快楽にはるかに優る。」のだそうです。
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