第40話 前夜

 銀行屋ぎんこうやにとって今回の失敗しっぱいは、二度目の大きな挫折ざせつでした。彼はある事件じけんをきっかけに、ささやかでもかがやかしかった、みずからのキャリアに終止符しゅうしふをうたれました。その一度目の失敗しっぱいにくらべたら、今回のそれは、一見たいしたことなく思われました。しかしそれは、おてんとうさんののあたる、ひる世界せかいでのはなしです。こんどのはのあたらない夜の世界せかい、アンダーグラウンドでのことでした。

 べつに確証かくしょうはありませんが、これはいのちにかかわる、重大じゅうだい過失かしつにちがいありません。そしてそこには、いっさいの弁明べんめいゆるさない、アウトロー特有とくゆうの、オスきびしさがあるはずでした。今や彼の運命うんめいは、死神しにがみの白いてのひらの上。後もどりできぬ時間をうらめしく思い、のろうのでした。

 なんだってんだ、いったい!

 けっきょく、どっちも不可抗力ふかこうりょくじゃねぇか!

 クソ! クソ!

 ただ、おれはまれただけなのに!

 なんでいつも、こうなるんだ?

 いつもそうだ! いっつも!

 なんで、おればっかり!

 クソ! クソ、クソ、クソが!

 うめき声とともに、手ぢかなモノに当たりちらしていました。といっても、じぶんの予備よびのタッチパッドを、二三個こわしただけですが。

 彼は銀行ぎんこう駐車場ちゅうしゃじょうに、ところどころやぶれた一人がけソファと、電球でんきゅうの切れたコタツをもち出し、ダラダラ、ひとりみをはじめていました。夜空よぞらには星々ほしぼしがひしめいています。ときおり、おだやかな風がほほをなでました。5メートルほどの南国風なんごくふうの木が、さわさわ、ゆれています。白っぽい樹皮じゅひのヤタイヤシは、ボサボサで手入れもされず、駐車場ちゅうしゃしゃじょう屋根やねのように、頭上ずじょうおおいかぶさっていました。かぜくたび、かさなった鷹揚おうようにそりかえり、いっそう星々ほしぼしまたたかすのでした。

 おじさんはひっきりなしに、かきたねに手をのばしていました。さいきんポテチから切りかえたばかりのやつを、ボリボリむさぼっていました。彼は大人なのに、ママのつくる所帯しょたいじみたつまみより、かわものの方が好きでした。コタツに足をのせ、メヒコさんのうすいゴローナビールをかた手に、らっぱみをつづけていました。

 いくらんでも、それ以上いじょうえないのは、ニオイのせいかもしれません。ケミカルなげた基盤きばんのニオイと、除虫菊じょちゅうぎくをねりこんだ蚊取線香かとりせんこうのニオイとがじりあい、ケムリの微粒子びりゅうし鼻腔びくうをとおって、海馬かいばみこんでゆきます。その付着物きおくは、永遠えいえんに消えそうもありませんでした。




 オンショアごう船上せんじょうにて。


 ソルは甲板デッキの上にねころんで、夜空をボンヤリながめていました。街灯がいとう生活光せいかつこう途絶とだえたみなとの上には、ハレーションをおこしたような、明るい星空ほしぞらがありました。

 分単位ふんたんい、いや数十秒単位すうじゅうびょうたんいで、ながれ星がこぼれます。その中でも最大さいだいのものは、火球かきゅう空中爆発くうちゅうばくはつをおこしたもので、しばらく空の一角に、けむりみたいなあとをのこしました。もしかしたら、なにかの流星群りゅうせいぐんのおり、だったのかもしれません。

 おびただしい星屑ほしくずは、粉砕ふんさいされたシャンデリア。巨大きょだいなミラーボウルを爆破ばくはさせた、テロの後のよう。星座せいざ判別はんべつできぬほど密集みっしゅうし、ちらばって、暗闇くらやみのカーテンにかかっていました。

 れいの荷物にもつをすててからというもの、ずうっと彼は、ぼーっとしていました。それまでのじぶんの人生に対する、なにか受身うけみ無関心むかんしん態度たいどとはちがった、なげやりでありながらも、なにかかたくなな感じ。来るものはこばまないが、じぶんの方からは一ミリだってうごきたくない、といったふうでした。

 ソルは確固かっことした意志いしをもって、じぶんの人生じんせい踏板ふみいたを外しました。それは、やってみればおそろしくカンタンで、今さらながら彼は、他人ごとのようにおどろいていました。

 オレが?

 この・・オレがかよ?

 だって、この・・オレだぜ?

「ふふんっ」

 彼は微笑びしょうしました。  

 ――ヘンだ。

 どう考えたって、ヘンだ。

 おかしい。

 いや、おかしすぎるだろ?

 たからクジにあたるより、ありえないことだ。

 この世でもっともありえない、おかしなことがおきた!

 彼は他ならぬ自分自身じぶんじしんのことなのに、「それを自分がやった」ということを、しんじられずにいました。


 見上げたままの夜空はかぎりがなく、すいこまれそうでした。あいかわらず空は、いつものままでした。

 しかし、パスカルのいう「無限の空間、その永遠の沈黙」が、エッジを立てて彼のむきだしのこころ肉薄にくはくすることは、もはやなくなっていました。

 ほんのちょっと前のことです。なにもかもがはじめてだったころ、彼の杞憂きゆうをさそったのは、まさにその広大無辺こうだいむへんでした。どこまでいっても対象物ていしょうぶつにぶち当たらない、ゆき先はてぬ視線しせん深度しんどは、彼をおびやかし畏怖いふさせました。その風景ふうけいも、今や日常にちじょうとなっていました。心休こころやすまるとまではいかなくても、うつくしさに転落てんらくした、見なれたモノになっていました。

 でもそれも今だけ。とくべつな今だけ。という真実しんじつを、ソルはこのしまに着いてから、いえ、もっとずっと前から、かたときもわすれたことはありませんでした。いつもこころのかたすみに、(潜在的)疑念ぎねんを持ち歩き、ありきたりな個性こせいをもてあましていました。彼もまた、自動的確信[=生命根拠=生きられる時間:ミンコフスキー=生きるのに必要な妄想]なき人生を約束やくそくされた、のろわれた詩人しじん一片いっぺんでした。ぞくにいう不幸ふこうな人でした。

 それはなにも今にはじまったことではなく、もともと彼には、安心あんしんできる逗留先とうりゅうさきなどなかったのでした。彼の人生そのものが、一時しのぎのやっつけ仕事しごと、終わりなき査証さしょうのないたびだったからでした。




 高台たかだいにある灯台とうだいわきの荒地あれち。チガヤの生えた砂地すなちくるまをのり入れ、まどに黒いブーツを組んでのせたチェロキーは、なにやら、ボソボソつぶやいています。

「だから、もう、おそいんよ」

「……ああ、けちまったよ」

「ぐずぐずしているからだ」

「だから、言ったろ」

証拠しょうこ?」

「……だから、証拠しょうこをつかむために動くんだろうが! まがいなりにも、そのための権力機構けんりょくきこう末端まったんだろう?」

「あやうく物的証拠以外ぶってきしょうこいがい情報じょうほうまで、うしなうとこだったんだぞ!」

「……よく言うよ、はなっからはたらく気なんかなかったくせに(笑)」

「だいたい、あのガキがいなかったら、どうしてたんだ? 指環ゆびわだけアイツにもたせても、意味いみないだろ」

「ハァ? 異動いどう季節きせつぅ?」

「だから、なに?」

「……終わったからなに? 今さら来てどうすんの? というか、来る気ねーだろ(笑)」

「いいよ、もう。縁側えんがわねこいて、ちゃでもすすってるよ」

「じじいは、大人しくしてりゃいいんだろ?」

「……そのかわり、ちゃんとお給金きゅうきんの方ははずんでくれよ、たっぷり色をつけてな(笑)」




 ダイは一つところ定住ていじゅうすることなしに、北サツマ通りの「ニューアンカー」そばの家屋かおくを、転々てんてんとしていました。とうぜん不法占拠ふほうせんきょになりますが、しまには定期便ていきびんもなく、ほとんどの季節きせつは、封鎖ふうさされたままでした。

 住民じゅうみんらは立ち退くさい、土地ごとのいっさいの所有物しょゆうぶつ放棄ほうきを、行政ぎょうせいによりみとめられました。それにより固定資産税こていしさんぜい免除めんじょされ、支援金しえんきん各世帯かくせたいに、やく300万給付まんきゅうふされました。また、資産価値しさんかちがなくなっても、いすわりつづける人らに対しても、長引いた交渉こうしょうの末、ゴネどくがあたえられました。

 ダイは洗面所せんめんじょかがみの前に立ち、紙切鋏かみきりばさみを手にしました。おもむろにびきったかみをつかむと、ザクザク大ざっぱに切りはじめました。たちまち洗面台せんめんだいは、黒い綿わたの山もりになりました。水は出ないので、そのまま放置ほうち。ダイは「ニューアンカー」に直行ちょっこうしました。


「ちょっとなにぃ、夜中よぉ?」

 あたまをさしながら、

「これのつづき、やってくれる?」

 じつは他の二人も、時々のびすぎたかみを、ママに切ってもらっていました。ここなら水もおもありました。ママがいうには、そのむかし、美容院びよういんにアルバイトでつとめていたとか、なんとか……。



「なんども言うけど、やめておきなさい。らないわよ、どうなっても」

 ママは店のゆか掃除機そうじきをかけていました。

 あれこれ角度かくどを変え、かがみをながめるダイ。

「聞いてるの?」

「いいんだよ、べつに。つかまったって、たかが、詐欺さぎ片棒かたぼうかついだだけだし」

「――それに、これ以上いじょうここにいても、しょうがないしね」

「……でも、けっこうかかわっちゃってるわよ、もう。もしかして、あんた最初さいしょっから利用りようされ……」

「おれのより、自分のこと心配しんぱいしなよ」

「アタシはここで、どんづまり。他に行くとこがないのよ。なにがまっていようと、ここがアタシの終着点しゅうちゃくてん。うけ入れるしかないわね(笑)」

 ダイがちゃかすように、

みるね~、演歌えんかだねぇ~」

「まあー、ここの男たちって、ホント情緒じょうちょがないのばっかり」

「まあ、そうゆうのえらんで、よっておくったんじゃない? そういう耐性たいせいのありそうなやつ」

「あるぅ~。ありそうでコワイ~」

「いや、今テキトーに言ったんだけど……」

 二人そろって沈黙ちんもく

「さて、そろそろ帰って、明日のためにるとするか」

 ダイは立ち上がりました。

「わざわざ不便ふべんなとこ、住まなくてもいいのに。ここにまっていけば? 前から言ってるように、そのままみ着いたって、いいのよ」

「いいんだよ。あちこち転々てんてんとしていたのは、どうやら本当は、ここにを下ろしたくなかっただけ、みたいだから」

「でもそれも、もういい。終わりだ」

「――ほんと? 後悔こうかいしない?」

「するさ、するにまってんだろ。いざ危険きけんな目にあったら。だからって、いちいちぜんぶ勘定かんじょうに入れて、生きていられるかっての」

「わかいって、いいわねぇ」

 ママは、うっとりするように言いました。

「そういうこっちゃねぇけど……」

 小声のダイ。

「それからこのことは、チェロキーには言わないでいてくれよ。とうぜん銀行屋ぎんこうやにも」

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