第11話 サン・ヤーボリの白い船

 美術館びじゅつかんからの帰り道、バスはなぜか行きとちがった、とおまわりのコースをたどりました。カンダタ川をへてスモウ川へ、そこからしばらく南へ下ると、ほのかにしおかおります。ソルはここらあたりにくると、いつもそわそわ、しはじめました。

 ごちゃついた市井しせいのすき間から、切通きりとおししのようにかいま見える、ぼやけた白いやり帆先ほさき。あけられないまどは、網戸スクリーンドアごしみたいに、しゃのボカシがかかっています。かえりぎわに一時ひとときだけ見下ろせる、船溜ふなだまりのひかりかげ 。海へとける、かすれた桟橋さんばしのライン。カーブの終わりに首をのこしながら、やっと見つけたけた海。

 その朦朧もうろうとした静謐せいひつな絵は、さしずめ、南欧なんおうのヴィルヘルム・ハンマースホイ(デンマークの画家)といったところでしょうか。

 夏休み前、さいごの週末しゅうまつ。鳥のことはすっかりわすれたのか、ソルは今、とぼしい記憶きおくとカンオンをたよりに、その風景ふうけいへむかうさいちゅうでした。

 そこの名前も、区画ブロック番号ばんごうも、彼はりませんでした。はっきりしているのは、美術館びじゅつかんちかくのみどりの池を起点きてんに、南西にあるということだけです。マップ上の道をスクロールでたどり、思いつくかぎりのキーワードで、情報じょうほうをしぼりこむと「サン・ヤーボリ・ポート」とでました。白いふねでうまった画像がぞうを見たソルは、どうやらそれっぽいぞ、と思いました。

 てぢかなトーキン・メトロからのりこみ、カンオンにみちびかれるまま、電車でんしゃをのりかえてゆきます。目的地もくてきちもよりのアシャークシャえきにつくと、エスカレーターで地上に出ました。

 しめきったバスの中よりも、いっそうこくいそのかニオイがします。巨大きょだいなビルが、恐怖心きょうふしんをあおるように、彼にのしかかってきました。

 歩きだすと、ゆく手をとおせんぼするように、ビルが立ちはだかりました。大小さまざまな形のビルぐんのかべが、ダラダラとつづきます。歩いても歩いても、水辺みずべ開放域かいほういきにぬけられません。ナビ上では、となり合わせなのに、歩けば歩くほど、とおざかってゆくようでした。えんえん、カンオンに、回りこみをさせられます。

 やっと、切れ目から明るい光がさすと、潮風しおかぜが「どっと」ながれこんできました。

 半透明はんとうめいなフェンスが、左右見とおすかぎり、高くはられています。ちょうど真正面ましょうめんに立つと、透明とうめいにかわりました。テニスラケットのガットのような、見た目と感触かんしょく。わしづかみして、顔をななめによせ、かた目のぶんだけあなにあわせました。

 ぼんやり、むすうの白いヨットが、かさなって見えます。目の焦点しょうてんが合うと、ふねはあきらかに、ちかづきすぎていました。あらしにそなえるための時化しけつなぎのようですが、ちょっとでも風がふいたら、ぶつかりそう。不均整ふきんせいなクモのが、港内こうないをビッシリ、はりめぐらしていました。

 まばゆい純白じゅんぱく船体せんたいが、一つ一つ微妙びみょうにゆれています。もっとよく目をこらすと、ふねはキズだらけでした。切れ切れのふね波間なみまに、水面みなもきらき、あたりはしんとしていました。人影ひとかげはなく、閑散かんさんとしていて、みなとごと閉鎖へいさされているようでした。

 サン・ヤーボリはふねのたまり場でした。つかわれなくなったふね故障こしょうしたふね、船検(車検みたいなもの)の切れたふねなどが、まとめておかれていました。

 その中のほとんどが、ヨットの形をした浚渫船しゅんせつせんでした。環境かんきょうモニュメントとして運航うんこうされている一部をのぞき、河川浄化かせんじょうか役目やくめを終えたふねが、それぞれの接岸施設せつがんしせつ係留けいりゅうされていました。それらのほとんどは、放置ほうちされたままでした。乱立らんりつするビルぐんの中で、ここだけぽっかりあいた、都会とかい真空しんくうのようでした。

 フェンスぎわを歩くソル。はしからはしまで歩いても、防波堤ぼうはていから下りられそうなところはありません。クララン・ポート・オーソリティ港務局の、管理施設かんりしせつ入口へのスロープも、チェーンで封鎖ふうさされていました。

 ソルはもう一度、フェンスに顔をおしつけ、みなと景色けしきをながめいります。さしむかいにならんだふねが、おたがい反対にふくらんでいます。硬質こうしつなカーブをえがくかざは、船体ハルとおなじ素材そざいで出来ていました。には「CCR」のデザインロゴと、マスコットのクラドンがえがかれていました。


――クラドンとは、クラランの河川かせんなどに、ときおり遡上そじょうしてくるりゅうのことです。近年きんねん、川の浄化完了じょうかかんりょうと共に、なぜかめっきり、その姿すがたを見かけなくなりました。そのすがたが発見はっけんされるたび、子らとメディアを中心に、フィーバーをまきおこしました。

 クラドンには、民間みんかん応援団体おうえんだんたいが、おもに三つありました。はじめは「クラちゃんを守る会」だけでしたが、公認非公認こうにんひこうにんをめぐるあらそい、あつめられた年会費ねんかいひ使途不明問題しとふめいもんだいなどで分裂ぶんれつし「クラちゃんを見守る会」「くらちゃん・ふぁんくらぶ」へと、枝分えだわかれしていきました。

 ついさいきん、大手のカートゥーンコンテンツ会社がいしゃが「クラドン」「くらちゃん」の名前とキャラクターを、かってに意匠登録いしょうとうろくしてしまう事件じけん? がおきました。今回の件をうけ、にわかに三団体さんだんたい結束けっそく、いっせいに抗議こうぎをはじめました。それへ一般市民いっぱんしみんもくわわって、その会社かいしゃに対する、不買運動ふばいうんどうへと発展はってんしました。社会的しゃかいてき非難ひなんをうけた会社側かいしゃがわは、すぐさま申請しんせい撤回てっかいことなきをえる、というゴタゴタが、あったばかりでした――。


 人気ひとけのない港内こうないを、気ままにとびかう野鳥やちょうたち。カワウ、ハクセキレイ、アオサギ、ハシブトガラス、オオバン、イソシギにまじって、ユリカモメ、セグロカモメ、アジサシなどがいます。種類しゅるいはさほど多くありませんが、ちょっとした鳥の楽園ユートピアになっていました。よく見るとみなとは、あちこち鳥のフンだらけでした。特殊加工とくしゅかこうされたヨットの表面ひょうめんにも、前回の雨からのフンがたまっていました。

 透明度とうめいどの高い、この川のどこに、エサとなる小魚や、虫がいるのでしょう? 川のまん中には、中洲なかすがありますが、自然しぜんにできたものか、人工じんこうのものか、よくわかりませんでした。アシにおおわれた小島こじまにはヤナギが生え、こずえにはがかかっていました。アオサギ、カワウなどが、営巣期えいそうきにコロニーをつくったのでしょう。

 のっぺりとつづくフェンス。その一部が細長く切られ、ドアになっているのに、ソルは気づきました。横に引くかんぬきにチェーンがまかれ、錠前じょうまえがガッチリかかっていました。これは見るからに、手でしかあきません。

 キョロキョロするソル。あたりに人の気配けはいはありません。彼はもう一度、管理かんりセンターの方へひきかえしました。

 結界けっかいのコーン・チェーンをまたぎ、スロープを下り、玄関口げんかんぐちに立ちます。暗いロビーのおくをのぞくと、赤いランプと、緑の非常口ひじょうぐちが見えました。いったん下がって、建物たてものの全体に目を走らせます。りょうわきにっぱのない、ヒョロリとした、かれたような木がわっていていました。見上げると、最上階さいじょうかいから三階までの、非常階段ひじょうかいだんが見えました。

 彼は呻吟しんぎんします。なぜか、せっぱつまっていました。どういうわけか、彼は行動こうどうを先おくりすることに、罪悪感ざいあくかんを感じていました。たとえそれが、どんなに規範きはん逸脱いつだつした、手段しゅだんであったとしてもです。

 とうとうたえかねて、彼はフェンスに手をかけました。足先が入るかどうか、確認かくにんしています。つま先半分で、いっぱい、いっぱいでした。てっぺんまで5メートルくらい、といったところでしょうか。子の目には、もっとずっと高く、見えていることでしょう。をけっし、ソルは、のぼりはじめました。

 やく2メートル。このくらいは、よゆうよゆう。さて、ここから、しんちょうになります。やく3メートル。ここで決断けつだんしなければなりません。このまま頂上ちょうじょうをめざすか、それとも、あきらめて後退こうたいするか。まよっていると、とちゅうで力つきるおそれがあります。

 こういうときカンオン、はなんやくにもたちません。手をそえられず、ただ情報じょうほうなぶるだけの、空中にうかんだ神経しんけいのコブにすぎません。あくまで、透明とうめいつえでしかないのです。

 足がガクガクしてきました。つま先はいたいし、こわばった指はつめたいし。とまっている方がつかれる気がして、彼はまた、のぼりはじめました。

 やく4メートル。つかんだり、はなしたりしているうち、指の感覚かんかくがなくなってきました。ここから一番上いちばんうえまで「もうムリっぽい」と、うっかり下を見てしまいました。

 下半身の力が「ヒュッ」と、ぬけ落ち、間髪かんぱつ入れず力をこめなおしました。

 なつかしき地面じれん。なぜ、あそこじゃなく、ここにいるのか? ここじゃなくってもいいのに、どこだっていいはずなのに、なんでわざわざ、こんなところにいるのか? 自分で来ておいて、理不尽りふじんでしかたありません。

 止まっていても風だけで、ユラユラゆれている気がします。フェンス全面ぜんめん波打なみうち、ゆるい根本ねもとから、たおれてしまいそう。

「なんでもっと、ちゃんと作らないんだよ」

「ばかばか、死ねよ、ばぁーか」

 ぬすっとたけだけしく、なにかに八つ当たりしました。

 とにかく、上にいけば休めます。とうめん、力つきての墜落ついらくはまぬがれます。一歩一歩いっぽいっぽ歩幅ほはばをさらにせばめ、かくじつに、ちゃくじつに、のぼってゆきます。

 かた手がてっぺんをつかみ、さらに、もうかた方。りょう手でグンと、体を持ち上げ、おなかをせました。またがって、ふせたままの姿勢をいじします。フェンスを両面りょうめんわしづかみにして、ほほをてっぺんの横柱よこばしらせました。

 ぶわぁー、と耳に風があたるたび、ゆらぐてっぺん。むしろ、頂上ちょうじょうの方がゆれるのです。上へつきさえすれば、一息ひといきつけると思っていたのに、ちっとも安心あんしんできません。顔のむきを変えて、風を大人しくさせます。体がめた分だけ、不安ふあんがつのりました。

 ゆれる地面じめん本来ほんらいそれは、不動ふどうなはず。自分がバランスをとっていなければ、フェンスがたおれてしまいそうな、へんな錯覚さっかくにとらわれます。むかい合わせのつま先と、にぎりしめたむね、かたまったまま、しばらくじっとしていました。

 しばらく休むと、不安ふあんをおしのけ上体をおこしました。

 いきづまるほどむねをそらすと、広がる青いドーム。へこんでいるのか、ふくらんでいるのか、わからない蒼穹そうきゅうそこなしの青さ。その深淵しんえんめがけ、さかさに落ちていきそう。

 白い雲は、異次元いじげん要塞ようさい。目をこらせば、千々ちぢにちぎれ消えうせる。全体では決壊けっかいしない水のダムは、形をたもったまま、東へと移動いどうしていきます。

 白線はくせんを引かず運航うんこうする、白抜しろぬきの小骨こぼね。ドームの塗装とそうがす、とんびかげ。その黒だけは、みょうにちかい。

 巨大なものはおそろしく、人を没落ぼつらくさせる。目をたいらに落とすと、街灯がいとうれつ。一本につき一羽づつのカラス。あたまの上ではねを休める、黒い足。

 今どきの子のソルは、やおらカンオンで、ショートゲームをはじめました。このタイミングで、最高得点さいこうとくてんをねらえそうになったので、やめました。ねっちゅうしすぎて落っこちたら、バカみたいですからね。うつぶせになって、また休憩きゅうけいに入りました。

 おりかえしの下りは、あっという間。しんちょうをきしたはずなのに、まったく、おぼえていませんでした。

 立っていることになれぬまま、目の前にもう、階段かいだんがありました。さいわい、茶黒ちゃぐろくさびた手すりがついていました。せまいコンクリートのだんは、垂直すいちょくに落ちるような急勾配きゅうでこうばい一段一段いちだんいちだん、ひざをカクカクさせながら下りていきました。

 桟橋さんばしはフンだらけでした。よけようがないので、しかたなく、ふんづけていきます。係船柱けいせんちゅう、もやいづな、アンカー、帆綱ほづな策具さくぐ、ドラム缶などにも、白いフンがつもりかたまっていました。

 ギチギチで止められたふね助走じょそうをつけなくても、となりへびうつれそう。山もりのロープの下からのぞく、いたを目ざとく見つけ、ひっぱり出しました。日にさらされたいたの先っぽを、プルプルせながら舷側げんそくにかけます。ゴムのようにしならせ、のぼっていきました。

 デッキに上がってあらためて見まわすと、壮観そうかんですが単調たんちょう景色けしきに、ちょっとがっかりしました。白い船体せんたいに、企業名きぎょうめいのロゴやマーク、マスコットなどの塗装ラッピングがはられたもの。カートゥーンのキャラクターでいっぱいの痛船いたぶね。そしてなによりも醜悪しゅうあくな、絶対善ぜったいぜん啓蒙スローガンをかかげたふね

 いちおう助走じょそうをつけて、つぎのふねへジャンプ。体操たいそうマットが、ズレル感じで着地ちゃくち。ガチャガチャうるさいメッセージの林を、さまようソル。

 そこだけ陥没かんぼつしたような、景色けしきが目にとまります。無地むじ一艘いっそうが、白く光っていました。

 ちかよって確認かくにんします。キズはありましたが、まっさらでした。どうしてこれだけ、なにも書かれていないのでしょうか。おそらく完成間近かんせいまぢかに、河川浄化かせんじょうか終了しゅうりょうし、その存在理由そんざいりゆうくしたものと思われます。

「いいね、これ」

「あ、保存ほぞんね」

 カンオンを見ずいいました。

「これってもしかして、あけられない?」

 なんの気なしに、いいました。

「シュッ、コン」

 ビンのフタを、あけたような音。

「え、マジで?」

「おいおい、あいたよ(笑)」

 ロックのはずれたドアのすきまから、そーっと、中をうかがいます。カラッポの細長い空間が、見えただけでした。ドアノブの位置いちには大きいレバーがあり、四角よすみにも小さいレバーが四つありました。とりあえず、大きなレバーを引くと、全開ぜんかいしました。びっくりするくらいカンタン。

「あーあ、あいちゃったよ」

「オレ、しらねぇー」

 簡素かんそ船橋ブリッジに、ぽつんと小さなかじがありました。ゆかにビスで止めたはしらに、もうしわけていどの舵輪だりんと、それに、とってつけたみたいなフェンダーミラーがたの、モニター画面がめん。後ろのかべと一体になっている、ベンチシートなどがありました。もともと乗船用じょうせんようではないので、ひどく殺風景さっぷうけいでした。ゆかに四角しかくく切れこみが入ってます。カンオンでは開かず、手動アナログでしか開かないようです。とくべつな道具どうぐでもいるのか、ゆびが入らないので、あきらめました。

 ほかに、とくに見るものはないようです。小さなモニター回りで、いじれそうな突起類とっきるいはなく、なぜか表面ひょうめんに、うっすらホコリがつもっていました。

「手もちブタさだなー」

 りょう手を頭にまわして、

「エンジンでも、かけてみてよ」

 なんとなしに、つぶやきました。

「カッツン、シュルシュルシュルシュル……

「わ、やばいって」

「とめろよ!」

「はやく止めろ!」

「シュウウゥゥゥーン」

 しずまりました。

「あっぶねぇ、あせったー」

 モニターはまっ黒ですが、赤と緑のランプだけ、点滅てんめつしています。

「なんだよ、まだ生きてんじゃん!」

「はよ、けせけせ」

 なかなか、きえてくれません。おわりの処理しょりをするのに、時間がかかっています。

 チカチカがやみました。ソルは不安ふあんになってきました。ここにいるの、やばくない?

 いちおうカンオンをプライベート・モードにしてはいましたが、まじないていどです。あわてふためく中、ふと、あるアイディアがうかびました。それは、だいたんなものでしたが、おもいでのラクガキのノリで、カンオンに、たのみました。どうせ、うまくいきっこないし、いかない方がいいくらいでした。

 ふねを出ると、あわただしくドアをしめます。

「シュッ、カツツッン」

 ドアがロックされました。

「やばい、やばい」

 いきをはずませ、ふねからふねへ、とびこえてゆきます。いたをガタガタさせ、桟橋さんばしり立ちました。走り出してすぐ引きかえし、いたをもとあったロープの下に、力ずくでつっこみました。

「やばい、やばい」

「ギシギシ」板敷いたじきをハデにならし「チャップンチャップン」なみを立てて、桟橋さんばしを後にしました。

 問題もんだいはあのフェンスでした。選択せんたくのよちなく、とびっつくと、ガシャガシャ、いっきにかけ上がります。おなじ距離きょりでも二度目の道は、みじかく感じるものです。来るときとちがって、三分の一ほどの時間と労力ろうりょくしか、感じませんでした。

 階段かいだんを上がって上の道にもどると、バクバクキョドリながら、顔をまっすぐ前をむけて、はや歩きで立ちさりました。

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