第1話 四月はマウンテンゴリラに喧嘩を売り。

 

 もう少し、時間を巻き戻させていただこう。

 

 これはまだ、自分に怖いものがなかったころの話。


 ただ、ただ、光の道をまっすぐに進んでいた。


 その道は、どこまでも絶えることなく続いていると、信じていた。


 いや、信じていたというより、絶えることなど考えていなかったのかもしれない。


 だから、瞬きの間に、何もかもが変わってしまうなんて、あると思わなかった。


 俺は一瞬で、大切なすべてを―――。



 —――ジリリリリリリリリリリリリリリ



「………………ふぅ」


 強烈な目覚まし時計の音に遮られ、俺は目を覚ます。気分の悪いことこのうえないが仕方がない。絶対に寝過ごさない、そういう当たり前の誓いを自分に立てているからだ。

 時刻は朝の5時。そこから身支度を整え、朝食を摂り、まだ家族が誰も目覚めていないうちにひっそりと家を出る。


 冬はとうに過ぎたと言えど、4月の早朝の空気にはまだ身を刺すものがある。でもそれがちょうどいい。まだまだ気怠さを残していた頭を、冷たい風が覚醒させてくれる。


「…それにしても、まだあんな夢を見るのか…」


 誰も聞いていないことを確認し、俺はひとりごちる。少しナイーブな内容の夢を見たから、1日のスタートとしては最悪なんだろうな。でも俺は知っている。どんな夢を見たとしても、夢は夢でしかなく、実生活に影響を与えるものではありえないということを。

 そんな益体もないことを考えていてもしっかりと地に足はついていたらしく、まずは最初の目的地である駅に到着した。ここから電車の乗り継ぎを3度行い、約2時間をかけて県外の高校へと向かう。

 

 どちらかというと都会にある実家から、どちらかというと田舎にある進学校への道中、俺はテキストを開いて昨日の授業の復習をする。都会から田舎への早朝の通学という性質上、ほぼ始発の電車の中の乗客はまばらである。とても勉強に集中しやすいこの環境は、俺にとってとても嬉しい副産物となっている。そして集中すれば集中しただけあっという間に時間は過ぎていき、体感的に早く目的地へとたどり着けるというわけだ。入学して1週間かけて掴んだ通学のコツみたいなものだが、3年続けられる良きルーティーンになってくれるだろう。乗り継ぎ3度という中断のリズムを飼い慣らせればさらに完璧だ。


………………………………………………………


「ねぇ香穂。あんた結局、中学んときみたいにバレーボール部入るの?」


「いんや、パス! 高校入ってまであんなスポ根してらんないわ」


「だよね~! あの人たちみたいにヒマじゃないもんね~あたしたち! よかったよかった」


 言葉には気をつけた方がいいぜ、若人たち。もしこのタイミングで教室の外を通りかかったのが女子バレーボール部のキャプテンだったら。もしその女バレのキャプテンが人語を理解するマウンテンゴリラだったら。もしそのマウンテンゴリラがプライドもマウンテンで停学上等の武闘派だったら…君らの華の高校生活はいきなり暗礁に乗り上げることになる。

 まぁ実際はそんなことはありえないし、そうなったとしても勝手にしろだ。いや、流石にマウンテンゴリラが教室で暴れ出したら困るな。体重は優に100kgを超えるらしいし、握力も500kgくらいあるらしい。組み合った時点で詰む。全力で逃げる以外ないが、奴にはスピードもあるときたもんだ。さて、どうしたものか…。

 

 俺がこんなしょうもない空想に耽っているのは、今手に取っている文庫本の影響だろう。


「鮎川くん、また本読んでるんだ。今日は何の本読んでんの?」


 さっきまでマウンテンゴリラに喧嘩を売っていた片割れが話しかけてきた。


「…適当に古本屋で買ってきた本だよ。『ゴリラに星は瞬く』、だって。読む?」


「…いや、けっこうです…」


 相手の興味や熱を引かせる話し方なら心得ている。相手が興味のないことを提示するか、嫌がることを言えばいい。女子高生が好んでゴリラ小説を読むわけがないからな。

 思った通り会話はすぐに終わり、元居た場所へと彼女は戻る。


「鮎川やっぱり変わってるよ~、教室でゴリラの本なんて読んでるんだよ?」


「何それ! 変態じゃん!」


「ちょっと顔がいいと思ってたけど…変態は勘弁だよね~」


 クラスメートの月島香穂(つきしま かほ)さんと寺田真春(てらだ まはる)さんは、人のことを好き勝手に評して、好き勝手のたまってらっしゃる。まったく…こんなゴリラ文庫ひとつで他人のことなんか理解できるものか。そろそろゴリラに申し訳なくなってきたな。

 

 始まったばかりの高校生活の昼休み、新入生たちは、まだ見ぬ青春のひとかけらや、予期せぬ出会いを求めて一様に浮足立っている。そしてそれは、県有数の進学高であるこの『世良木(せらぎ)高等学校』においても例外ではないらしい。クラスにおいての自らの立ち位置を確立するための花いちもんめや陣取り合戦に皆、精を出している。

 まぁ、出会いを求めているヤツはそうすればいいし、求めていないヤツにまで触手を伸ばしてこないでほしい。俺はひとまず、休み時間なんかは全部読書に費やそうと決めているのだから。

 

 た・だ!! このゴリラ本だけは読み進めていくか少し悩んでいる。ゴリラが人語を理解するきっかけとなるエピソードが突飛すぎて内容がなかなか頭に入っていかない。さて、どうしたものか…(2回目)。とかなんとか考えているうちに、騒がしかった教室が少しずつ静かになっていく。まだ授業まで10分は時間があるのに、どうしてだろう。


「鮎川くん」


「…ん? 何か用か?」


 斜め後ろから声をかけられたので振り向いてみると、眼鏡をかけた男子生徒が一人立っていた。名前は確か…戸沢陽太(とざわ ようた)だったか。あまり印象には残っていないな…。


「午後から体育館で生徒会と部活動の紹介があるって今朝のホームルームで言ってたの、ひょっとして忘れてる?」


「…あ~…そういえばそうだったな」


 俺としたことが、すっかり忘れていた。


「戸沢の言う通り、すっかり忘れてたよ。教えてくれてありがとう」


 感謝の意を素直に表すと、長く陰鬱とした前髪の隙間から明るい表情がのぞいた。そしてその瞳には少しだけ期待感みたいなものが浮かんでいるような気がする。これはきっと、俺のことを同じ属性の人間だと看做した上で、楽しい会話や一緒に体育館に行くことなんかを求めているんだろう。まぁいい。この直感が勘違いであろうがなかろうが、俺の取る態度はひとつだ。


「人がたくさんいるのは苦手だから、ギリギリに行かせてもらうよ。それじゃ」


 早口でまくしたて、一方的に会話を打ち切って文庫本に視線を落とす。


「え…あ…」


 戸沢が今どんな表情をしているかはもううかがい知れないが、きっと呆然としているんだろうな。


「…それじゃあね…」


 やがて諦めたように、戸沢の足は教室の出入り口に向けて進みだした。親切を仇で返したわけだから、悪いとは思う。だが今の俺に話しかけてもらっても、これ以上の反応はできない。スクールカーストやプライドなんかいっさい関係ない。過去数年間繰り返してきたことを、そのままやっただけだ。


 弱気な人間は、遠ざける。


 強気な人間は、やり過ごす。


 俺の対人対応の基本概念は、この2つだけ。


 この2つを駆使して、俺は過去数年間を、自分の思い描いた通りに過ごすことができた。それはきっと、はたから見て決して幸せなものではなかっただろう。そして最近は、このままではいられないという予感と、このままではいけないという危機感めいたものをうっすらと感じてはいる。


 今まで色んな本を読んできたけど、みんな結局伝えたいことはいっしょだ。

『孤立をしてはいけない』 『人はひとりじゃ生きていけない』

 もしもそれが本当ならば、俺が今まで取ってきた態度は悪手中の悪手ということになる。


「どうしたもんかな…」


「どうしたもんかな…じゃないよ、鮎川!」


 ひとりごちた瞬間に正面からなにかで軽く頭をはたかれる。しまった。勝手に対人センサーをOFFにしてしまっていた。目の前には肩をいからせながら、日誌で首のあたりをトントン叩いて俺を見つめている担任教師の姿があった。どれだけ全力でテンプレを踏む気なんだろう。


「今朝言っただろ、体育館でガイダンスがあるってよ! もうお前以外に誰もいないぞ!」


 体育教師ばりに鍛え抜かれた胸筋を張りながら、青山大樹(あおやま だいき)先生は俺を強く諫めた。ちなみにこの人の担当教科は地理。持ち腐れ感が半端じゃない。

 さて、目の前の教師は典型的な『強気な人間』だ。ならば俺は、柳になるしかない。


「すいません、ぼーっとしていました。今すぐ行きます」


「おいおい待て待て、そんなに慌てることはないだろう。鍵閉めるから、一緒に行こう」


 もしも対象をうまく遠ざけられなかったり、やり過ごせなかった場合、そこからさらに取るべき行動は細かく分岐していく。まぁ臨機応変にというわけだが、相手が担任教師で、歯を白く光らせながら俺の意に添わぬ行動を要求してくる場合は…。


「…わかりました」


 観念するのみだ。


………………………………………………………


「お前は中学時代なにか熱中してたことはないのか?」


「いえ、3年間帰宅部でしたし、特に趣味と言えるものもなかったですね」


「なんだなんだ、愛想のない奴だな~お前は!」


「ご期待に添えなくて申し訳ないです」


 教師と生徒の交流は、授業も休み時間も面談であっても、基本的には一問一答に終始すると思っている。その中で俺がポイントに置いているのは、ファーストコンタクトでいかに俺に対して『興味をなくしてもらえるか』だ。当たり前の話だが、教師が情熱を持っていればいるほど、思惑通りに興味を失ってくれない。


「ここだけの話な…お前の入試の成績は相当よかったらしいぞ。学年でも5本の指に入るくらいにな」


 そらきた。基本的に伏せられてるような情報でも、生徒とのコミュニケーションのためには出し惜しみをしない。きわめて厄介なタイプだ。


「…そうなんですか。ありがとうございます」


「おいおいもっと喜べよ。俺が言うのもなんだが、世良木はなかなかの進学校だ。そこでトップクラスってことはだな、全国でもいい線いってるってことだぞ」


「そうですね。でもまぁ上には上がいると思うので」


「う~ん、謙虚なのか欲がないのか…。学生の本分は勉強だ。成績がいいことは普通に誇っていいことなんだぞ」


 嬉しいことを言ってくれているに違いないのだが、当然俺が喜ぶことはない。『関わってほしくない』系の生徒も毎年受け持っているはずなのだが、この人は信念をもって全員と全力でぶつかっていこうと決めているのだろうか。

 だとしたら素晴らしいとは思うが、俺のことだけは除外してほしい。


「1年間はお前ら横一線で学ぶことになるが、来年からは文理でコース分けされることになるな。お前はもうどっちに進もうか決めているのか?」


「…一応、文系選択をしようとは思っています」


「ほう。将来なりたい職業とか、もう決まっているのか?」


「いえ、単に文系科目の方が得意なんで」


 想定の範囲を出ない問答に、俺は丁寧に、そして無機質に答えていく。しかし、もう体育館が目の前に迫ったときに先生が俺にした何気ない質問が、俺の思考の流れを歪ませる。


「ほぉ~。お前が一番得意な科目はなんだ?」


 …俺が一番得意な科目…? そんなの決まっている。

 昔から、本を読むことが大好きだった。

 中学時代、この科目だけは誰にもおくれを取らなかった。

 だから当然、現国だ。



「…地理ですかね」



 あまりにも自然に、俺の口からこぼれ出る噓。

 俺の心根に未だに巣食っているトラウマに対する、あまりにも過敏なアレルギー反応。

 懇切丁寧に説明をしたって、きっとこの世の誰にも理解されはしない。


「あ、鮎川…おまえ…」


 先生の反応がおかしい。俺のこの無意味な嘘をまさか、見抜かれた?


「お前!! 可愛いところあるじゃないか!!」


 全然そんなことはなかったどころか、先生には今、俺が可愛く見えているらしい。筋骨隆々の30代男性に俺は今、バシバシ背中を叩かれている。ただ痛い。


「俺が地理担当だから地理って言ってくれたのか? 可愛いやつだな~」


 しまった…そういうことか…。

 適当に他の文系科目を挙げるなら、漢文とか英語とかいろいろあっただろう。なんでよりによってこの人の担当科目をピンポイントで言ってしまったんだ…。そして、こういうタイプの人間はどうして相手を褒めるとき、サヨナラホームラン形式(手荒い祝福)を選ぶんだ。


「気に入ったぞ、鮎川! お前がこれから先どんな試験もきっちりとパスできるように、しっかりと個人指導を…」


「ストップストップ! 何をやってるんですか青山先生!」


 自分の迂闊さを心から呪おうとしていた矢先、救世主は現れた。


「先生は生徒との距離が近すぎるんですよ! ブレイクブレイク!」


 肩ががっちり組まれた状態の俺と青山先生の間に割って入って引きはがしてくれたのは、ものすごく目鼻立ちの整っている女性教師だった。ただ、俺は今までこの人にお目にかかったことはないはず。初めて見る顔だ。


「あ、いや、芒崎先生。これは生徒とのコミュニケーションの一環でして…」


 一瞬で顔が赤くなって慌て始める青山先生。美人教師に叱られてしどろもどろになるなんて、この人には地理教師のほかに『テンプレ教師』の肩書きもあげたくなるな。


「舞台袖でアメフト部の子たちが待ってましたよ! 何か打ち合わせすることがあるんじゃないんですか?」


「あ、そうだった! ありがとうございます、芒崎先生!!」


 ぴゅー…っていう現実にあり得ない擬音を残して青山先生は去っていった。そうすると自動的に、この場には初対面の2人が残されることになる。


「あの先生ね、気に入った生徒を見つけたら見境がなくなるのよ~。私が通りかかってラッキーだったわね!」


「…そうですね、ありがとうございます」


 素直に感謝の意を述べて、頭を下げる。


「いえいえ、どういたしまして。…青山先生に絡まれてたってことは…あなた新入生ね? 私、芒崎多佳子(のぎさき たかこ)。2年の現国担当よ! よろしくね!」


 2年の…現国担当か。なるほど、人間関係でトラブルがないように、先週1週間でクラスメートと1年を受け持つ先生の顔とフルネームは全部憶えておいたんだが…そこの網の中にはいない人だったか。

 握手を求められたのでそれに応えると、つないだ手を上下にぶんぶん振りながら視線を合わせてきた。この人も所謂『強気』の分類に入るのか…? これじゃあ結局一難去って一難の構図じゃないか。

 …しかしゾッとするほど整った人だな。きっと学校でも人気の先生なんだろうな、いろんな意味で。


「君、名前は?」 


「…1-Dの鮎川峠って言います」


「…鮎川?」


 先生の眉尻がピクっと上がる。なんだ? 何がひっかかった? 


「ふ~ん…こりゃ私の方がラッキーだったかな? 君が、鮎川峠くんか…」


 直後、眉だけでなく片方の口角も邪悪に吊り上がった(ように見えた)ため、また違った意味でゾッとしてしまう。綺麗な人の表情の急変って、なんでこんなに恐ろしいんだろう。


「…あの、なにかあるんですか?」


「ふふっ。なぁんにもないわよ?」


 俺の沸点がもしも低かったら、切れ味抜群の『なんにもないことあるかい!!』が炸裂していただろうな。気になることは気になるが、何もないなら何もないことにさせてもらおう。


「ありがとうございました、先生。ではまた」


「うん、じゃあまたあとで、ね? 鮎川くん」


 不敵な笑みと『あとで』という言葉に若干のむず痒さを感じながら、俺は体育館の中に入っていく。

 リア充な生活はいらない。

 青春の甘苦い体験もまったくいらない。

 漂い始めたこの嫌な予感が杞憂に終わることを、ただただ俺は願っていた。

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