HIKE!! 

boragi

HIKE!! 序章

「……はぁ……はぁ……」


 大自然の営みは時として我々人間に、『自分がいかにちっぽけな存在であるか』ということを再認識させる。その舞台は大海原であり、大雪原であり、また人によっては打ち捨てられた町外れの雑木林かもしれない。そして、俺にとってそれが今回、町外れで都市外れの県外れにある『春の大山』だったというわけだ。


「……はぁ……はぁ……くそ………」


 小学校の遠足以来の登山に挑むことになった俺は、あとからあとから噴き出てくる大粒の汗を拭いながら、おおよそ70kgの大きな荷物(自分の体)を重力に逆らい上へ上へと持ち上げていく。快適な屋内で目的地もなく走り続けることとはわけが違う。普段使っていない筋肉が悲鳴をあげ、雨上がりの柔らかい地面がそれに拍車をかける。


「………ん?」


 体力が摩耗するにつれ、心身は効率を求めだす。進行方向である前方を向き続けるのは少し苦しいが、下を向いていては気道も塞がるし、何よりもころころと表情を変える山道に対応しきれない。ゆえに、視線は前に、視界は広く保っておくのがよいのだろう。そうすると、今まで気付かなかったたくさんの情報が頭に入ってくる。


 数分前に追い抜かれ今にも姿が見えなくなりそうな年配の男性の服装は、いかにも派手な原色のトレッキングウェアの上下。質感としては自分が身に着けているランニングウェアと大差なさそうだが、大きく違うのは足もとと装備品だ。俺の常日頃から履いているようなスニーカーに対し、あの人は厚底の登山靴に加え、携えた2本のストック?でぬかるんだ悪路をさくさく歩いていく。対する俺はペラペラな靴底にかかる負荷をどこへも逃がすことができず、それを支える足の裏すべてがまんべんなく痛い。

 要するに準備不足だったということだ。登山をナメていた。次回があるとは現時点では思わないが、教訓として心に刻んでおこう。


 そして、先ほどまでは鬱蒼とした樹海の中にいる感覚だったのだが、少しずつ光を感じられるようになってきた。風も少しずつ通るようになってきている気がする。ひょっとすると山頂は近いのでは? …まぁ、願望レベルで似たようなことを考え続けて裏切られ続けているので、過度な期待はしない方が身のためか。

 

 吹きおろしてくる風の先を見れば、同学年の女子が一人、肩で息をしながら必死に歩を前に進めようとしている。彼女こそ、俺を無理やりに今回の『新入生熱烈大歓迎♪ みんなで登れば怖くない! 春の大山打っちゃって! 登っちゃってツアー!!』という謎のイベントに巻き込んだ原因であり、ごまかしごまかし歩いてきた俺の足の裏を終わらせた遠因、さらには盛大に道を間違えた挙句、俺の手をこれでもかというほど煩わせた張本人、岩崎枝葉(いわざき えだは)、その人である。


「…岩崎、大丈夫か? もう少しペースを落とそうか?」


「だ、大丈夫だよ峠ちゃん…ちょうどいいペースだし…。なんだったら先に行ってくれても全然いいし!」


 いやいや、君を一人にしたらまた盛大に道を間違えそうで怖いんだよ。そして今手ぶらで快適に登っている君の荷物の運搬をすべて請け負っているのは誰だと思ってるんだ? 明らかに異常なレベルで重たいし…。というような、頭に浮かぶ文句の数々はすべて飲み込んで。


「わかった。でも、ちょっとでも体調がおかしくなったりしたら言えよ」


 紳士的に返答するにとどめる。というか女子と2人きりで言葉を交わすなんて、ちょっと前の自分には考えられないことだったから、正解がわからない。


「……うん! ありがとう!! 峠ちゃん!!」


 『にぱっ!』という擬音が聞こえてきそうなほどの会心の笑顔を受け止めきれず、俺は視線を宙へと泳がせる。そしてそのまま天を仰ぐ。

 

 どうしてこうなった?

 どうして俺はここにいる?

 

 目を閉じると、視覚以外の感覚が殊更に冴えてくる。まだ4月の気温はそれほど高くもないが、汗が伝う肌に湿気を孕んだ生温い風がまとわりつく。落ち葉や朽ち木の腐った匂いが漂った瞬間、頬に頭上の木々の枝から大粒の雫が落ちてきて弾ける。不意打ちはとても心臓に悪いからやめてほしい。そんなこんなも全部含めて、『不快』と言って差し支えない状況だ。

 …だけど、なんだ? これは。


「なに突然黄昏てんの峠ちゃん! ぼ~っとしてたらわたしが先行っちゃうよ?」


 なんだ? こいつは? なぜ今俺に追いついて、追い抜こうとしているんだ?


「…どうかした? 峠ちゃん?」


「…いや、なんでもないよ。行こうか」


「うん!!」


 なぜ、突き詰めれば他人でしかない人間に、100%の笑顔を向けることができるんだ? 俺の回路の中に存在しない行動を、こいつはなぜ取ることができるんだ? 理解ができない。


「あと何回も言うようだけど、峠ちゃんって呼ぶのはそろそろやめてくれないか」


「峠ちゃんが峠ちゃんじゃなくなったらやめたげるよ! それかわたしを同じように『枝葉ちゃん』って呼んだら気にならなくなるんじゃない? 呼んでみ?」


「……はぁ」


 理解ができない…ことは好みじゃない。今の溜め息だって演出ではなく、紛れもない本物だ。

 なのに、どうして。

 どうしてほんの少しだけ楽しいと思っている自分がいるんだろう。


「……あっ! 見て見て! あれ頂上じゃない!?」


「ん? ……あ」


 俺たちの並んで歩く道の先に、少し広めに均された平地。そしてその先に綺麗に整備された石段が見える。照らし合わせる経験則は少ないけれど間違いない。目的地が見えてきた。


「やったぁ! ねぇ峠ちゃん! どっちが先に頂上に着くか競争しようよ!」


「またベタなことを…っておい!」

 

 返答を聞く前に俺を置き去りにして駆け出す。フェアプレー精神を説くつもりは毛頭ないが、間を空けずにぴったりとついていく。満身創痍であろうあいつが無茶をしたときに、すぐにフォローできる位置にいるために。…よく見たらあの石段すごく長いぞ。本当に大丈夫かこのペースで。


「はっ…はぁ…ふぅ……なかなかやりますなぁ…峠さんとやら」


「無駄口たたくんじゃない。息があがりきってるじゃないか」


「うぅ…ちょっとした会話なのに冷とうお方じゃ…」


 案の定すぐにペースは落ちてきた。2人分の…いや、体感で5人分くらいの荷物を背負っている俺にとっては非常にありがたいことだ。そうこう言っている間に石段に差し掛かる。手前の立て看板の『この先頂上→展望台』の文字も目視した。ならば腹をくくって登るのみだ。


「あとちょっとだ。でも慌てるなよ。ゆっくり登ろう」


「ふぅ、ひぃ~~~~~…はあはあ…うぅ」


 独特のリズムで呼吸をしている彼女を横目に、俺はほんの少し時間をさかのぼった。誰とも深くかかわらずに日々を過ごしていた。高校生活もその延長線上にあるんだろうと思い込んでいたのに、こいつは…。


『………峠ちゃん!!!』


『ずいぶんご立派になって…お姉さん一度もあなたのことを忘れたことなかったのよ! ししし!』


 あの大げさな再会は、きっと俺の中の何かを変えたのだろう。いや、変わったのは運命か。自分を取り巻くすべての出来事を、その小さなからだじゅうで頬張るように楽しむ彼女に触発されて、俺は少しずつ、少しずつ五感を取り戻していく。

 空が、近づいてくる。不機嫌な顔色の木々たちも、俺たちに道を譲ってくれているかのようだ。目の前で風がほどけていく。まるで重さを感じない。一歩一歩が、軽い。


『食わず嫌いはだめだよ!こどもじゃないんだから!』


 あぁ、そうかもな。お前の言う通りだ。

 200段ほどあった石段も、気づけば残り数段だ。

 遮るものは、もう何もない。

 ほら、3、2、1—――



「……ついた……」



 意外にも、先に口を開いたのは俺だった。眼前に広がる、立て看板が示した『頂上』の光景—――それは、完璧にアスファルトで舗装された道と、完全にコンクリートで建築された今風の観光施設だった。奥の駐車場には何台も車が停められている。道の先にうっすら見えるのは、先輩方が先に到着しているはずの展望台だろう。なんだ、登らなくても全然来れるじゃないか。風情もへったくれもない。


「ついたな、岩崎!」


 あれ、なんで俺のテンションが上がってるんだ? 今しがた心の中で、人の手によって塗り替えられてしまった景色に悪態をついてなかったか? いやその前に、はしゃいでしまうような心が俺の中にまだあったのか。そのことに心底驚きながらも、全然悪い気はしない。


 足腰がしんどい。まだ帰りもあるのかよ、噓だろ。

 明日以降筋肉痛確定だよ、やんなるな。

 そもそもなんだよここは、少しは『山の頂上感』を感じさせてくれよ。

 ―――状況を言葉にすると、ネガティブなものばかりが並ぶのに。


『行ってみなきゃわかんないって! うだうだ言わずについてきたらいいの!!』


 なんでちょっとだけ、うれしいんだろう。

 なんでちょっとだけ、笑ってしまってるんだろう。

 ―――言葉で説明できない想いが、血液を駆け巡り身体中を満たしていく。

 なんだよ、結局来てみてもわからなかったじゃないか。


「う………うぅ………」


 気づいたら岩崎は俺のシャツをしっかりと掴み、肩を震わせている。

 もっと大はしゃぎするのかと思っていたが、感極まっているのだろうか。

 らしくはないと感じながらも、理解はできる。

 だから俺は、照れる状況に置かれているのに違いなくても、彼女をふりほどかない。

 

『峠ちゃんは峠ちゃんだよ! なにも変わんないよ?』


 あの時は受け入れられなかった言葉が、すっと胸の中に入ってくる。


「う………うぅ………」



 そうか、ここからまた、始まるのか。

 


 始めても、いいのか。

 


 きっと同じようにはできないけど。

 


 一度は捨てたはずの、物語を―――。



 彼女に抱いた感謝の想い。

 直接伝えるのは癪だから、ありったけを掌に込めて。

 …いや、やっぱり直接言おう。

 それが全身全霊でぶつかってきてくれている、彼女に対しての礼儀だ。



「う…う…う…」



 胸元にしがみつく彼女の頭に優しく手を置いて。



「なぁ岩崎、ありが―――」




「うおえぇえええええ……………」




 びちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃ。




 …………………………。


 えっと、ちょっと待って。なにこれ…あぁ、そういうことか。

 

 嗚咽じゃなくて………嘔吐だったんだな。そうかそうか。



 こうして俺、鮎川峠(あゆかわ とうげ)の物語は、

 若木の成長著しい春の大山、誰よりも太陽に近いこの場所で、

 まばゆい日光と…酸っぱい匂いに包まれながらスタートしたのでありましたとさ。



  吐瀉物を 吸いたるシャツと 春の山     峠 

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