その日、テニスコートでのできごと

 僕は、知っていた。先輩は知るよしがないかもしれないけれど、僕は。

 知っていたんだ。知っているんだ。天宮天雨先輩が、どれだけあのサッカー部のエースとか言われているひとのことが、好きかってこと。




 入学式の日だった。

 あの日は雨が降っていた。

 霧雨で、もうそれだけでうっとうしかった。


 僕にはたいした才能もなかったようで。

 自分の人生なんて、もうほぼほぼ先が見えたと思ったし。



 真面目に入学式に出る気もなかった。

 もっとも、それは――中学までは、いい子、いいひとで通してきた僕、……自分の無能力を自覚しているがゆえに縮こまってヘラヘラ過ごしてきた僕の、おそらくはじめてと言っていい、集団からはみ出る、行動だったのだ。



 校舎裏。

 校舎の壁を背もたれにして、硬いコンクリートの上で、だらんとして空を見上げていた。

 ……灰色の、空だった。



 遠くからは生徒たちの合唱が聞こえていた。

 耳に優しい、優しすぎる、合唱曲。なんの曲かはわからない……そしてふと、これは校歌かと思いあたり、耳をすませば歌詞がその通りだった、……校歌、こんなダッセェのかと、僕は頭を抱えこんだ。



 どのくらいのあいだ、そうしていたのだろうか。

 まだ入学式は続いているだろうに――人の気配が、した。



 僕はとっさに逃げる、とかはしないでうずくまった。

 両膝を抱え込んで、頭を埋めるような体勢で、小さくまるくなったのだ。


 どうしてそうしたのかは、あとで考えてもよくわからない。

 わからないけれど、そのときもう動く気力さえもなかったのかもしれない、――なにせ灰色の雨に霧雨、しかも入学式ときたら。心も、身体も、重たくなったってそれは道理というものだろう。




 ばしゃ、ばしゃ、ばしゃ、ばしゃ。

 だれかが、水たまりを蹴ってゆく音が、した。

 激しい音だった。……まるで、すべてを振り払うような。


 そのあとに。

 ぱしゃり、ぱしゃり、ぱしゃ、しゃ……と、どこか軽快で、それでいてリズム感に欠けた、ちぐはぐな足音が、続いた。……こちらは蹴ってるって感じはしない、せいぜいが、水たまりと戯れているんですねって印象の足音。



 ……音の気配は、そんなに近いものではなかった。

 そのとき僕のいた場所は、ちょうど物陰にもなっていた。

 その少し向こうの、小さなテニスコートで、そのできごとは繰り広げられているようだった。



 だから僕は、そのままうずくまり続けていることが、できたのだ。



『――真! 待ってよ、待ってってばっ』



 聞こえてきたのは、女性のちょっとアルトな声、……のちにきちんとかたちで知り合う、天宮雨音先輩。



『ついてくんな』



 そして続いた、男の僕が聞いたってびっくりするくらい低くぶっきらぼうな声は、……天宮雨音先輩の幼少期からの幼なじみだという、葉隠真……先輩。



『そんなこと言ったって、真、ねえ真っ……駄目だよ、学校このまま辞めるなんて!』

『どうしてだ? 高校というのは、もう義務教育ではない。辞めるのは俺の勝手でしかない』

『なんで、ねえなんで。私たち、がんばるって、いっしょにがんばるって決めたじゃない。高校進んで才能を発揮するんだ、って――』



『ああ。おまえは発揮されただろうな』



 おどけたように言い、それでいて同時に地を這うような気配に僕はぞっとして――顔を上げてもこのやりとりは目の前でなされていないと承知の上で、がばっと顔を上げてしまった。



『いいよな、エスランクの天才サマサマは』



 ――エス?

 この学園には、エスなんかいるのか。



 下世話、と言われても仕方ないかもしれない。

 けれどもエスと聞いて完全に興味をもたないでいられるやつなんか、いるのか――そう思いながら僕は、うずくまり状態を解除し、立ち上がり、そろり、……そろりと、テニスコートが覗ける位置まで、こっそり移動していったのだ。

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