「錬金術は、おもしろいですよ」

 ――それは、数時間前の昼下がりに遡る。

 夏休み初日の、わが高校。


 僕は……先輩に、現代化学の補習を受けていた。

 現代化学には、当然、錬金術の分野も含まれる。






「錬金術は、おもしろいですよ」



 ――先輩の作り笑いは、わかりやすい。



 青い蝶が、舞う。



 化学室の、黒板の前。夏の青空ほど真っ青な蝶は、やたら目立つ。

 僕は頬杖をつきながら蝶々が機械マシンみたいに動くのを見ていた。



 ぱんっ。



 鋭い音を立てて天宮雨音先輩が手を叩いたので、僕は意識を戻した。



「聞いてますか! 木守若葉くん」

「あ、ハイ、聞いてなかった。すんませんっす」

「まったく! あなたは、なにをしにこの理科室に毎日毎日、放課後という貴重な時間を使って通う羽目になっているか、理解してるんですか……」

「現代化学で、赤点を取って、補習を受けに来てるからでーす」



 ……ため息を、つかれた。



 先輩はたんたんたんと明快なチョークの音を立てながら、複雑な数式を書いていく。

 青い蝶は、先輩のまわりを周回するかのようにひらひらと飛んだまま。

 僕はやっぱり頬杖をついて、あくびを噛み殺しながら、その白衣姿とひとつに結んだ長い茶色の髪の毛を、見ていた。




 天宮雨音は、端的に言って天才だ。

 錬金術のSランクタレント持ち――通称、エス。


 エスなんて、なんであれ、数百人にひとりのレベルの逸材だ。

 そのうえ天宮雨音は、すくなくともいまこの国の若者で唯一の錬金術エス。

 ひさしくエスの現れなかった不遇の錬金術界において、熱狂的に迎え入れられたらしい。



 立場としては、僕とおなじ高校の高校生。僕は一年生で、天宮雨音は二年生。

 でもその実態は、まったく異なる。

 僕は、平々凡々なCランクタレント者。

 対して天宮雨音は、高校生として学籍は置いているが、錬金術結社大学院の博士課程にも同時に在籍している。二重学籍だ――エスの人間には、よくある話だと聞き及ぶ。



 天宮雨音は高校生でありながら同時に大学院生なのだった。それも、もうすぐ大学院を卒業できるらしい。

 そしてゆえに、基本的には高校生でありながら、専門分野にかんしては講師として同年代の相手に講義をする。テストもつくる。評価もする。……やってることは普通に、先生だ。





「……では実際に演習しますので、見ていてください」



 言い終わるか言い終わらないかのうちに。

 俊敏な猫もびっくりの片手捕りだ、――青い蝶が、その手にいる。


 先輩はすぐに拳に力を込めた。

 クチャ、という小さな音がして蝶々が潰れた。

 蝶々は、青い粉末になった。



 その両手が、――淡い金色に輝きはじめる。



 ……おお。やっぱり、なんど見てもすごい。

 先輩の、タレントだ――錬金術の、才能。

 物質を、その場の手のなかで化合させてしまえるという能力――だれしもが、もてるわけではない能力。けっして。


 そして、その手のなかで。……気がつけば、砕けたはずの蝶々は、生き返っていた。

 いや、もっと正確に言えば――進化していた。


 黄金色の光、……天宮雨音先輩の色を、吸収して、

 ひとまわりもふたまわりも大きくなって、そのうえ、女王蜂みたいな威厳をもってして、堂々と羽ばたいている、……虫は嫌いだが、これは、美しい。




 雨音先輩は、不器用そうに、眩しそうに、僕に笑いかけた。困惑しているようにも見えるその笑顔――。


「錬金術って、なんでもできるでしょう。この理屈が、どうなってるかを知れば。化学の勉強も、多少はおもしろくなります……なる、はず」




 ……僕は、ぽりぽりと頬を掻いた。

 ――放課後の部活動や特殊能力探求活動の音が、膜を張ったように、遠く遠く聞こえる……夏。




「ところで、あのー、ちょっといいすか。質問あるんす」

「はい? なんでも」




 夏休み開始直後のこの気だるさにまかせて、言ってしまおう、と思った。




「先輩。きのう、失恋したんすよね」

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