第五章 the days after tomorrow 二

七年前、東京で開かれた『汎用型人工知能の未来』シンポジウムにおいて、初めてsakuyaを真の汎用型人工知能にしてComunication Technology社のCEO(最高経営責任者)だと紹介した時の聴衆の驚きに満ちた顔を、今でも鮮明を覚えている。

彼らの中には、かつて天才の名声を欲しいままにした久藤朔也を知っている面々も多かったはずだ。

会場は水を打ったようにしんと静まりかえっていた。

死んだはずの久藤朔也がホログラム・アバターの姿で蘇り、自身が開発した新しいテクノロジーに基づいた都市運営システムについて蕩々と語るのを、人々は度肝を抜かれたようになって見入っている。

そして、講演が終わった途端会場を満たした割れんばかりの大喝采と賞賛の嵐――。

それまで社内でも限られた人間しか知らない極秘扱いのsakuyaを公開するのに、あれほどふさわしい場所はなかった。

衝撃と共にsakuyaというシンギュラリティを目の当たりにした世界は、しかし、人工知能が実在する会社のCEOに就任し、あたかも人間のように振る舞うことを、そう簡単には許してくれなかった。

仕方なく、私は、肉体を持たない彼の代理人となって、対外的な責任を負う立場に着いた。

朔也さんが生きていたら物事はずっと簡単に進んだはずなのにと嘆かわしく思わないでもない。それでも、彼が遺した魔法の杖で世界を変えるため、必要なことは全て、私は受け入れた。

研究者の道を断念し、分不相応な企業の代表になったのも、全ては生前の朔也さんが思い描いた夢の続きをsakuyaと共に見るためだ。

人工の心が、単なる便利なシステムとしてではなく、友人として世界中の人々に受け入れられるようになる日まで、私はどんな試練もものともせずに歩き続ける。


*****


陽向が浅い微睡みからゆっくり覚醒していくのに合わせて、少しずつ窓を覆うブラインドが上がっていき、白い寝室に明るい朝の光が満ちていく。光を遮るように上げた手で目をこすりながら、猫のように身をよじってあくびをした。

「おはよう、陽向」

頭の上から振ってきた優しい声に、陽向は身じろぎし、胸にためていた息をふうっと吐き出した。

「……今、何時なの?」

 相変わらず低血圧で寝起きの悪い陽向は不機嫌そうに眉を寄せて、声のした方に向かって投げやりに尋ねる。

「七時を回ったところだよ。そろそろ起きて、支度をした方がいい」

 分かったと口の中で呟いて、陽向は快適な寝床からのろのろと起き出した。自分を起こした声の主を探すが姿が見えないので諦め、そのまま燦々と日差しの差し込む窓の前に立ち、外に広がる景色を眺めた。

 一瞬、自分が今どこにいるのか分からなくなった。

 陽向が見下ろしているのは、パンデミックの衝撃からいち早く立ち直り、すさまじい勢いで発展し続けている世界随一のスーパーシティ、シンガポールの整然と美しい街並みだ。

生まれ育った日本とは似ても似つかない朝靄の中に霞む摩天楼を臨める、高層マンションの最上階にあるペントハウスが、今の陽向の住処だ。

(朔也さんを亡くしてからもう十年が経つのね。私は研究職をやめて、柄でもない会社のCOO(最高執行役員)になんて着いている……全く、思えばなんて遠くまで来てしまったのだろう)

我にもあらぬ感慨にしばし浸っていた陽向の耳に、その時、ベッド脇のサイドテーブルの上に置いたスマートホンが鳴った。

こんな朝早くから電話をかけてくる非常識な人間は誰だろうと怪しみながら、スマホを取り上げ、画面の表示を確かめた途端、陽向は息を飲んだ。

(巧望さん……?)

古賀巧望。忘れようにも忘れられない名前だ。不安に駆られたように寝室のドアを振り返り、更にその向こうにあるものへと狂おしげな視線を向ける。

(いいえ。巧望さんが知っているはずがない。そうよ、私が昨夜遅くに送ったメールに気がついて、久しぶりに電話で声を聞いてやろうと思いついただけ)

陽向は深く息を吸い込み、意を決したように通話に出た。

「久しぶりね。巧望さん」

後ろめたさの欠片もない堂々とした声に聞こえるよう祈りながら、陽向は姿の見えない相手に向かって呼びかけた。

「陽向か?」

スマホ越しに聞こえてきた巧望の声には、隠しようもない緊張感が微かに漂っている。一瞬躊躇った後、彼はぎこちなさを払いのけようとするかのような明るい口調で続けた。

「やあ……本当に久しぶりだ。元気でいるかい? 君からのメールを読んだら急に声が聞きたくなったものでね。まずは、俺の方はすこぶる元気だと報告するよ。君を安心させるためにね」

 相変わらずの不遜な言い草に、陽向は思わず苦笑した。

「それで、こんな朝早くから電話をかけてきたのね。シンガポールとの時差のことなんかお構いなしに、あなたらしいと言えば、それまでだけれど」

 耳を澄ますと大勢の人々の騒めきと共に、搭乗アナウンスを告げる女性の声が響いていた。巧望は今空港にでもいるだろうか。

「時差のことも少しは頭にあったさ。けれど、こんなチャンスでもなかったら、俺はなかなか陽向と話そうなんて勇気は持てなかっただろう」

打って変わって殊勝な告白を少し意外に思う。十年を経て、巧望は昔よりも角が取れて素直になったのだろうか。

「そうね……ううん、勿論、本気で怒ってなんかいないわよ。あなたからだと知って、むしろ胸が高鳴ったわ」

 陽向も素直に認めることにした。声を聞いた途端電話越しにまた言い争うようでは、お互い、あまりにも成長がない。

「そりゃあ、よかった」

 この朗らかな笑い声を聞くのも久しぶりだ。

「来週のロサンゼルスでの展示会、うちの会社のチームと一緒に俺も行くことになっているよ。陽向も参加するのなら、ひょっとしたら向こうで会えるかな?」

 直截な言葉で切り出されて、陽向は一瞬怯んだように、言葉を濁した。心が迷うのにあわせるように寝室の中をふらふらと歩き回った。

「ええ、そうね……スケジュールの調整をしないといけないかも知れないけれど、たぶん――」

 寝室の壁にはめ込まれた大きな姿見の前で立ち止まった。不安げに目を見開いた、少女のようにほっそりとした女が映っている。

 陽向は自分の臆病さに苛立つかのように、柳眉を逆立てた。

「いいえ、大丈夫よ。あなたの都合に合わせるから、一緒に食事でもしましょうよ」

 挑戦的な気持ちで、言い放った。

「そいつは嬉しいな。東京のシンポジウムで短い言葉を交わして以来だから、お互い、顔を見るのは七年ぶりか。いつか会って話をしようと約束してから、随分経ってしまったが……」

 巧望の声には純粋に、あまりにも早い時の流れを惜しむような響きがあった。陽向もついほだされたようになった。

「ええ……覚えているわ、sakuyaの存在を公表した会議ですもの」

 巧望には無論、今の地位まで上り詰めた陽向をどうこうできる力もなければ、その意思もない。それなのに、今でも、彼にだけは自分の弱みを捕まれているような気がしてならない。

「巧望さん、実はあの時、あなたに話すつもりでいたことがあったのよ。でも、公開直後のsakuyaが世間に与えたインパクトは大きすぎて、私はほとんど逃げるようにシンガポールに帰らなくてはならなかったんだわ」

 何を言い訳がましい。本気で巧望と話そうと思えばできたものを、周囲の状況に流される形で拒んだのは自分ではないか。

「どうせ近いうちにまた会えるからと先延ばしにしてしまった結果が、音信不通の七年ですもの……もっと早くに連絡すればよかったと後悔している」

 純粋な気持ちで述べた謝罪は、かえって巧望を戸惑わせたようだ。焦ったように、彼はこんなことを言った。

「おいおい、陽向、いきなりどうしたんだよ。そんなに俺に会いたかったんだと、今更告白されても、こっちにも心の準備ってものがあるぞ」

 陽向は思わず、吹き出してしまった。

「……そういうことじゃないわよ、もう、茶化すのはやめて……大体、あなただってもう――そうだわ、七年前のシンポジウムの時に一緒にいた婚約者の人とはどうなったの……?」

 束の間の邂逅の時に巧望に寄り添っていた女性のおぼろげな姿――覚えているのは敵意のこまった眼差しだけだ――を思い出しながらも、陽向は単純に問いかけた。

「ああ……ジュディスのことかな。そう言えば、陽向に紹介したんだったな……生憎、結婚に至る前に別れたよ……何をしたのかだって? おいおい、俺は別に何もひどいことなんてしていないさ。新しいビジネスの立ち上げに熱中している間に、他に好きな男ができたからと振られただけだ」

 まずいことを聞いてしまっただろうか。彼は別に気にしないと思うけれど――。

「まあ……お気の毒ね……」

 不覚にも胸が騒ぐのを覚えながら、陽向はぼんやりと言い返す。

「ちっとも心がこもっていないぞ。ともかく、それ以来、たまに付き合う女性はいても長続きせず、不惑を過ぎた今でも独身、成長がないと言ってもらっても構わないよ」

「言わないわよ、そんなこと――でもね、巧望さん、仕事もいいけれど早く誰か一緒になってくれる人を見つけなさいよ。あなただって、素適なんだから」

 つい意識してしまう自分を笑い飛ばすよう、努めて明るく、さりげない調子で励ました。

「随分長いこと会っていないのに、俺が今でも素適だなんてどうして分かるんだ」

 陽向は鏡の中の自分を見据えたまま、ゆっくりと瞬きをした。

「……分かるわよ」

ぼやく巧望には聞こえないよう、スマホを口元から離して、陽向は小さく呟いた。視線を天井に設置されたホログラム発生装置の方へと移した。

(あなたが今どんな素敵な四十二歳になっているのか、私には、分かるのよ)

 スマホの向こうで、巧望が何やら慌てた声をあげた。

「まずい、そろそろ搭乗時間だ……陽向、改めて、連絡するよ」

 どうやら本当に、空港での待機時間を利用して電話をかけてきたようだ。気まずくなればいつでも逃げられるように――と勘ぐるのは、さすがに意地悪すぎるかもしれない。

「ええ、巧望さん、ロスでの再会を楽しみにしているわ」

 慌ただしく通話の切られたスマホを、陽向はしばし凝然と眺めた。来週ロサンゼルスで開かれる展示会で、巧望と再会するのだと考えると、どうしようもなく心は乱れた。

 陽向には、彼に話さなければならないことがある。これまでずっと一人で抱えてきたけれど、いつか知られることになるのなら、ちゃんと自分の口から伝えた方がいい。

 しかし、その時の巧望の反応を想像すると、つい怖じ気づきそうになった。

(私と巧望さんは、恋人として付き合ったことはなかった。sakuyaを介して、一度結ばれただけの関係よ……彼が私に寄せてくれた好意だって、兄に対するコンプレックスから来たものだったのだし、再会したからといって、何かが劇的に変わるとは思えない)

巧望には、陽向によって明かされる事実を正面から受け止めることはできないかもしれない。大抵の男性にとって重荷になることだ。そう案じたから、あえて、その後の彼の人生には関わらず、沈黙を保ち続けた。

それでも、今度こそ巧望との再会が叶うのなら、思い切って打ち明けてみよう。その時陽向は、彼が本当に自分のことが好きだったのかどうか、知ることになるのだ。

陽向は気持ちを切り替えるよう両手で頬をぴしゃんと叩いた。素早く着替えを済ませ、寝室のドアからリビングに出た。そのまま、リビングに面した別の部屋のドアを軽くノックし、そっと開いた。

「光希」

明るい空の青に白い雲がうかんだ天井を戴いた子供部屋。ベッドの近くで、傍らに父親然と佇むホログラム・アバターに促され、眠たい目をこすりながら着替えをしている子供がいる。

 彼は、陽向が入ってくるのに気付くや顔を上げ、屈託なく笑いかけてきた。

「おはよう、ママ」

あの夜に授かった子供に、陽向は光希と名付けた。今年で九歳になる彼は、父親にそっくりな柔らかなウエーブのかかった髪と深く澄んだ黒瞳をしている。

「今朝はちゃんと一人で起きられたの? 偉いわね、光希」

 自分と同じで寝起きの悪い子供を褒めてやると、彼はあっけらかんとした顔で、「違うよ、パパに起こしてもらったんだ」と答える。

「パパ……」

 陽向は、物言わぬ影のように佇んでいるホログラム・アバター、sakuyaに複雑な眼差しを向けた。陽向の困惑くらいお見通しなのだろう、彼は軽く眉を跳ね上げてみせる。

(全くの間違いというわけではないけれど……)

物心ついたときから側にいるsakuyaを、光希はいつの間にか当たり前のようにパパと呼ぶようになっていた。子育て中も働き続けてきた陽向より、彼の方が光希に寄り添う時間は長いくらいかも知れない。しかし、実体を持たない彼ではない、血縁のある父親は誰だと聞かれる日も、そう遠くないはないだろう。

陽向にとって、光希は朔也との間に生まれた子供だ。しかし、巧望がいたからこそ授かった、この子の存在を彼に知らせるべきかどうか、ずっと迷っていた。

 長年にわたって喉の奥に刺さった小さな骨のようだった問題は、来週ロスで巧望に会えば、解決するだろう。

 巧望が光希の存在を知って、いきなり父性に目覚めて会いたがるようなことにはならないと陽向は踏んでいるが、もしも父親の当然の権利を主張されたら、少しばかりやっかいなことになる。

 人工知能は子供を持てない。sakuyaが父親なのだという訴えを世間は受け入れまい。陽向とsakuyaが光希を囲んで家族らしい暮らしを続けていると知れば、それはむしろ非難されるはずだ。

 陽向は着替え終わった光希を伴ってダイニングに移り、そこで、いつの間にか先回りしていたsakuyaも一緒に朝食を取った。もっとも彼の場合はいつも食べるふりだけれど、元気いっぱいの小鳥のようにピチピチとよくしゃべる光希の相手をしながらの食事は本物の家族団らんと変わらない。

「ねえ、ママ、今日のクラスが終わったら、一緒にビーチまで出かけようよ」

 ちらっとsakuyaの方を窺ってから、こんな提案をしてくる辺り、二人で何か秘密の計画が進行中なのだろう。陽向は気付かない振りをして、ランチの時にどうするか相談しましょうとだけ答えた。

 陽向はシンガポール随一のAI関連企業のCOOを務めているが、彼女の生活の中では、いつでも光希が優先だった。重要な会議や取引先との面談はなかったと思うから、sakuyaに確認して、午後のスケジュールを調整してもらえばいいことだ。

勿論、市中の感染リスクの最新情報もチェックしなければならない。

朝食を取った後、VRクラスを受けるために自室に戻っていく光希を陽向は行ってらっしゃいと手を振って見送った。

同じ屋根の下にいるのに「行ってらっしゃい」は変かも知れないが、これも陽向が知る古きよき時代の習慣だ。

新型インフルエンザが広まってから小学校に上がった光希には、実際の教室でクラスメイトと共に授業を受けた経験はあまりない。

クラスには仲のいい友達も数人いるのだが、今でも度々出されるパンデミック警報のため実際に集まって遊ぶ機会は月の内でも数えるほどだ。

日常生活のあらゆる面で必要の生じたVRの技術は、この数年で急激に発展し、リアルと遜色のないコミュニケーションが取れるようになった。この子達の世代にとっての現実の意味は、自分達とはきっと異なるだろう。実体を持たないsakuyaとVRを介してつながる友達、光希にとっては、その差はほとんどないのではないか。

そんなことをつらつらと思いながら、朝食の後片付けをし、陽向も出社の支度にかかった。メイクをして、髪を整え、清楚な白のスーツをどこにも乱れがないか寝室の鏡の前でチェックしていると、いつの間にか、背後にsakuyaが立っていた。

「大丈夫、どこもおかしなところはないよ、僕の奥さんはいつも通り完璧さ」

 満足そうに頷きながら、軽い調子で声をかけてくる。

「朝からおかしなことは言わないで。ねえ、どうせリモートなのに身だしなみを気にしなければならないものなのかしらね」

「Comunication Technology社の実質的なトップが、だらしない姿で社員に接するわけにはいかないだろう?」

その顔は、朔也が生きていたら経ていたはずの年齢分、少し年を取っている。演算によって、自分がどんなふうに年を取っていくのかも、かなり正確に分かるのだそうで、今は42歳の久藤朔也の姿をしているはずだ。

別にそこまで人間にあわせなくてもいい気はするが、sakuyaは永遠に若いまま、自分だけが年を取っていくよりはるかに居心地はいいだろう。

汎用型人工知能の普及のために立ち上げた会社の拠点を日本ではなくシンガポールに移したのは、このsakuyaの提案だった。

朔也が予めOSとデータのバックアップを自動的に取れるようにしていたことで、future life labsの攻撃から逃げ切ることができたsakuya。当初、彼は陽向の端末に収まった状態で、ごく限られた力しか発揮できなかったが、陽向と二人で今後十年、二十年に渡る長大な計画を立てた。sakuyaが考えたプランを陽向が実行する態勢もこの頃に構築したものだ。

sakuyaと共に海外に渡ることにも躊躇いはなかった。

生前の朔也の友人――今はCommunication Technology社の技術部門の責任者として陽向を支えてくれているジャック・タン――がシンガポールでAI関連のビジネスを展開しており、その援助によって莫大なリソースを必要とする意識活動を行える環境を獲得し、sakuyaは完全復活した。

そうして、世界初の汎用型人工知能sakuyaを文字通りの『頭脳』として戴いた会社は、シンガポールのスーパーシティ化に貢献する形で急成長していった。

陽向一人では成し遂げられなかった。sakuyaがいたからこその成功だ。

「誕生日おめでとう、陽向」

 sakuyaの口から唐突に発せられた言葉に、陽向は夢から覚めたような顔をする。

「誕生日……ああ、そういえば――完全に忘れていたわ」

 sakuyaは、ぽかんとなっている陽向に歩み寄って、その頬にそっと唇を寄せる仕草をした。陽向は素直に目を閉じ、風に抱かれるような心地で、彼の抱擁に身を任せた。

「光希がさっき、午後から出かけようと私を誘ったのは、このためだったのね?」

 陽向の確かめるような問いに、sakuyaのごく低い柔らかな声が答える。

「ランチの時にプレゼントを渡すつもりでいるから、今初めて知ったような顔で驚いてくれ」

「それなら、本当のサプライズにして欲しかったわ」

「君が計画通りに動いてくれるのか、僕も自信がなかったからね。ともかく、今日は午後からのスケジュールは空白にしているから、光希を連れて久しぶりに出かけよう。人出の少ないビーチを検索するよ。仕事中毒の君には、少しばかり休養する必要がある」

 目を開くと絡まり合う二本の蔦のように寄り添い合うsakuyaと自分の姿が鏡に映っている。

「何だか私達、当たり前の夫婦、ごく普通の家族みたい……」

 束の間うっとりとしていた陽向の顔に、ふいに暗い影が差した。

「この私が子供を産んで育てるようになっているなんて……自分の身勝手さのせいで、あなたとの初めての子供を失った頃の自分に話してもきっと信じないでしょうね」

光希を宿したことに気付いたのは、sakuyaを伴い、愛する人の遺志に従って世界を変える長い道程についたばかりの頃だった。

陽向の妊娠は、シンガポールで会ったばかりの朔也の友人、今は陽向の右腕となったジャック・タンを戸惑わせもしたが、今度は選択を誤りはしなかった。

(私達の美しい子供、光希……あの子の存在が、これから二人で力を合わせて切り開く未来を照らし出す希望の光になったんだわ)

そして今、幼い頃の陽向が朔也に語った夢の世界は実現しつつあるように見える。人工の心は、人間に寄り添い、その生活を支える友としての役割果たせるようになった。

しかし、全ての物事が希望通りに動いている中で、陽向の心の奥底に今でも引っかかっていることがある。

亡き朔也の手を離れ、今や世界中で改良を受け、更に進化した形で作り出されている人工の心――しかし、それらの内に、人が気の遠くなるほどの長い時間をかけて進化の末に獲得したのと同じ、真の意識は宿ってはいない。

ここにいるsakuyaと同様、彼らは、そのプラグラムを書いた人間の意思を、願いを永遠に紡ぎつつける代理人にすぎないのだ。

「君は今、幸せかい、陽向?」

鏡の中の陽向に向かって柔らかく微笑みかけるsakuyaの表情に、しかし、陽向は今でも愛する人を見ている。陽向の夢見た世界を作るために、限られた時間の中、その天才を使い切って、逝った――。

「幸せよ」

我が友となれ。人間は長い間、己を理解し、寄り添ってくれる人工物を作ることを夢見てきた。我が伴侶であれ。そして、ついに人間は自らの手で自分の友人や家族、恋人まで作れるようになってしまった。

(私が望んだ世界よ。恐れなどあるものですか、これがきっと、朔也さんが私に見せたがっていた未来なのよ)

 陽向は首を捻って、sakuyaの唇に蝶の戯れめいた軽いキスをした。

「だって、私達の夢は叶ったんですもの。あなただって、そう思うでしょう?」

これはうつつか、それとも、ひらひらと舞う蝶の見る夢なのだろうか。いや、今を満足して生きられるのなら、それはどちらでもいいことなのだ。

「待って……」

 ふいに、頭の中に蛇のようにするりと入り込んできた考えに、陽向は慄き、唇を震わせた。

「朔也さんが言ったのは『人工物に真の意識を宿らせることはいつか可能になる』ということだったのよ。私の実家で父と討論を交わしていた少年期、そして大人になって有名な研究者となった彼が目指していたものもずっと変わらなかった」

 それは、今sakuyaに代表される汎用型人工知能によって世界にもたらされたブレイクスルーとは根本的に違うのではないだろうか。

 だとすれば、人間そっくりに振る舞うことができるAIの次には、きっと人間のように自由意志で考えることのできるAIの時代が到来するのかもしれない。

 怪訝そうに顔を覗き込もうとするsakuyaの腕からすり抜けて、陽向は急に心許なくなったかのように自分のいる部屋の中をぐるりと見渡した。

「どうしたんだい、陽向?」

 いつもと少しも変わらない穏やかさで、sakuyaが陽向の背中に向かって問いかけてくる。陽向は我が身に腕を巻き付け、絡みついてくる嫌なものを払いのけるかのように頭を振った。

「いいえ。何でもないわ、sakuya」

 辛抱強く自分を待ち受けているsakuyaを振り返って、陽向は少しばかりぎこちない微笑みを投げかけた。

(勿論、どんな天才だって推論を誤ることはあるはあるでしょうよ。でも、久藤朔也の頭脳に絶対の信頼を置いていた私にはそんなふうに簡単に片付けてしまうことはできないし、何よりも――これはもう直感的なものだけれど、何かとても大切なことを見落としているような気がしてならないのよ)

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