第五章 the days after tomorrow 三

ボストン。午前十時。ダウンタウンにある一件の古びたアパートメントを、巧望は現地で合流した調査員ボブを伴い、訪れていた。

「あの日本人なら、ここ二週間ほど姿を見ておらんよ」

約束の時間きっかりに現われた、腹のでっぷりとせり出たイタリア系の中年男は、体格のいい黒人の調査員を連れた巧望をうさんくさげに眺めながら、言い切った。

「入居時に家賃は前払いで半年分もらっているし、後は部屋に引きこもろうが、いつの間にかいなくなろうが本人の自由。わしには別に詮索するつもりはない」

 今にも邪険に追い払われそうな気配だったが、負けてなるかと、巧望は素早く食い下がった。

「まずは確認させてくれ。あんたが部屋を貸している日本人とは、この男で間違いないか?」

 管理人は、巧望が差し出したスマートフォンに表示された画像を覗き込んだ。

「ああ……」

巧望の後ろに控えるボブを一瞥し、声を低めて問いかけた。

「あんたら、警察関係者か? あの男、一体何をしたんだ……?」

巧望は肩をすくめた。相手の警戒心を和らげるよう、努めて落ち着いた態度で答えた。

「いや、別に事件を起こしたというわけじゃない。森は、うちの会社の研究員だったんだよ。開発中の商品の貴重なデータを持って行方をくらましてしまった彼を探して、ここまでたどり着いたんだ。向こうの出方によっては訴訟に発展するかもしれないが、罪と言っても、その程度のものさ」

 そう、森に会ったら、ここひと月振り回された腹いせに、あの太った尻を蹴り飛ばすくらいはするかもしれないが、罰と言っても、その程度のものだ。

 三人が話し込んでいる側を近くの住人らしい年寄りが通り過ぎながら、うろんそうな目を向けてくる。管理人は神経質に眉をしかめ、腕時計の時間を確認すると、巧望達を素っ気なく手招きした。

「おそらく奴は部屋にいるんだろう。下の住人から、夜中の物音がひどいという苦情を今朝もらったばかりだ」

管理人がオートロックを解除すると、道に面した鉄のドアが開き、真っ暗な階段が現われた。壁のスイッチを入れると天井の電灯はついたが、窓がないため、階段の隅々には黒々とした影がわだかまっている。

「くれぐれも騒ぎは起こしてくれるなよ。パンデミック以来、この辺りの住人は激減して、賃貸業を維持するのも大変なんだ」

 AIによるオート化をする余裕もない旧時代の遺物のような階段を管理人の後に続いて上がっていきながら、巧望はもう二年近くも顔を見ていない森のことを苦々しい気分で思った。

 彼が研究に没頭できるよう、大学時代の恩師を紹介し、生活面でのサポートにも心を砕いてきたというのに、何が不満で逃げ出して、こんな穴蔵のような場所に隠れ潜んでいるのか。

失踪前の森は、職場でのトラブルがあったとも、研究に行き詰まって鬱になっていたとも言われている。

(たかが職場での人間関係くらいで、大事な研究を頓挫させるなよ。もともと研究には長い時間がかかるものだし、途中で行き詰まることだってあるだろうさ……それでも、俺は、森の――いや、sakuyaがあいつの手を借りて進化させていたロボット・ネズミが近い将来何ものになるのか、楽しみにしていたんだぞ)

十年前保護を求めて巧望の前に現われた森。彼が連れてきたロボット・ネズミ、アルジャーノンは実に素晴らしかった。MITの次世代ロボット研究室においても高い評価を受け、進化する人工脳の可能性に対し、莫大な研究費が投じられた。

New Wave Robotics社を立ち上げた後も、巧望は森のスポンサーとして研究の後押しをしてきた。定期的に送られてきた研究報告の中で、アルジャーノンの意識は進化を続け、ネズミから犬なみになり、ついには猿程度の知性を獲得したとされていた。予想を超える成果だ。一方で、森以外の研究員からアルジャーノンが怖がられるようになったのもこの頃だ。

アルジャーノンは、狭い檻の中に閉じ込めて自分を調べ尽くそうとする人間達に対し、いつの間にか怒りや敵意を示すようになっていたのだ。

もしも、実験体である自分の状況をアルジャーノンが理解していたのなら大したものだが、それを確かめようにも、実際には意思の疎通は困難だったという。

アルジャーノンは、研究員達とのコュニケーションに必要な言語を覚えようとはしなかった。世界のあらゆるものに名前があり、それらの活動に属性が伴うことを、未発達の言語野では理解できなかったのかも知れない。

あるいは、生まれた時からこの世でただ一体だけ、彼のような孤絶した存在にとって、仲間との意思の疎通をはかるために編み出された言語はそもそも必要なかったのだろうか。

周囲との関係がうまくいかなくても、アルジャーノンは進化を続ける。今頃は、きっと人間の新生児のようなものになっているかもしれない。そうであれば尚更、保護者である人間達は、しっかりと彼をトレーニングし、人間の道徳や価値観を注入し、人間社会に調和的に取り込まれるようにしなければならない。養育を怠ったなら、自由意志を持ったマシンは必ず、自分が何になりたいのか、どんな立場を選ぶのかを自分で勝手に決めるようになる。人間の世界を拒絶する可能性だって十分にあるのだ。

(森は初期型のアルジャーノンを可愛がっていたとは思うが、猿並みに賢い、怒りっぽいロボットに愛情を持ち続けるのはなかなか難しいだろうな)

そうこうするうちにComunication Technology社の汎用型人工知能sakuyaのアルゴリズムが公開され、人間と自然言語でコミュニケーションできるAGIが世界各地で作り出させるようになると、森の研究は魅力を失っていった。

(そして、ある日、彼は実験ロボットを研究所から連れだし、そのまま姿を消した)

 三階の踊り場まで上った。四階にあるという森の部屋までもうひと息という時に、調査員のボブが巧望の背中に向かって声をかけた。

「ミスター古賀……何やら嫌な臭いがしませんか? たぶん、上の階からです」

 巧望は一瞬虚を突かれた。すぐに表情を引き締め、階段の上の方を見上げながら鼻をひくひくさせた。生ゴミか何かが腐ったような異臭が確かに漂ってきていた。

「おい……こいつは、まずいぞ」

 管理人に近づいて呼びかけると、彼は顔を引きつらせ、悪態をつきながら階段を駆け上っていった。

 その後を慌てて追いかけようとする、巧望の腕をボブが捕まえた。

「おい、ミスター森、いるなら返事をしてくれ!」

 早くも森の部屋の前までたどり着いたらしい管理人の切迫した声が聞こえてくる。

「何だ?」

 巧望は、ボブの緊張感漂う顔を怪訝そうに見返した。もともと警官だったという彼は、見た目もタフだが、勘のいい、優秀な調査員だった。

「……あの部屋に誰かの死体があり、それがミスター森のものだったとしたら、おかしな点がひとつあります」

 ドアを開く音がした。合鍵を使って、管理人が中を確認しようとしているのだ。

「昨夜、物音がうるさかったという苦情が下の階の住人から寄せられたと、管理人は言っていました。本当なら、ミスター森以外の何ものかが、あの部屋にいて、動き回っていたことになりませんか」

 巧望の顔が厳しく引き締まった。分かったというように頷くと、ボブは背広の下に装着していた拳銃を取り出し、巧望の前に回って階段を上りだした。

 ドアが解放されたせいたろう、先程気付いたときよりもずっと強烈な悪臭が押し寄せてくる。

 開けっぱなしのドアが見えてきた。咳込みながら森の名前を呼んでいる管理人の声がした。

「おい、大丈夫か?」

 ボブを先頭にドアの内部に入りながら、巧望が呼びかけると、奥の部屋から管理人の悲鳴が上がった。

「クソッ! 冗談じゃないぞ、このクソ日本人め……!」

 ポケットから取り出したハンカチで鼻を押さえ、ほこりのたまった狭い廊下を歩いて行くと、悪態の主である管理人はキッチンにいた。途方に暮れたように天を仰いでいる彼の足下には、胸を押さえるような格好で横たわっている男がいた。

 薄汚れたシャツから突き出たむくんだ腕は変色が甚だしく、どこから入り込んだのかハエがたかっており、死後数日が経ていると分かる。

 巧望は淀んだ空気をなるべく吸わないように息をとめながら、死体の正面に回り込み、その顔を確認した。

 間違いない、既に腐乱が始まって見る影もなくなっているが、森啓介だ。

 臭いに耐えきれなくなったのか、管理人が警察に電話をしてくると部屋の外に出て行った。

 巧望はボブの姿を探したが、他の部屋を調べにでも行ったのかキッチンにはおらず、やりきれない気分で窓のブラインドを上げ、新鮮な空気を入れるべく解放した。

 よく晴れた午前の日差しが薄暗かったキッチンに差し込んで、無残な姿になった森の上にも降り注いだ。

 巧望は窓の外に顔を出して深呼吸すると、意を決して、再び部屋の中に戻った。

 じきに警察がやってくる前に、必要な調査をしなくてはならない。何よりも、森が連れ出した実験用ロボット、アルジャーノンの確保だ。

 ばらけていきそうな集中力をかき集め、巧望は改めて、床の真ん中で死んでいる森を冷静な目で観察しようとした。

 一見して外傷らしいものはない。室内にも争った形跡は見当たらないし、ひょっとしたら、これは心臓発作のような自然死ではないのかという気がしてきた。

 一方で、アメリカに移り住んで以来どんどん太ってきていた彼が、別人のように痩せて、ひどく老け込んでいることが引っかかった。

(姿を消す少し前から、精神的に不安定になっていたとは聞いたが、一体、何がこの男を悩ませていたのか……アルジャーノンに関係があるのか……?)

それにしても、つくづく運のない男だ。世界初の自由意志を持つロボットの開発者でありながら、その功績にふさわしい名声を掴む前に、誰にも知られず、こんな薄汚い部屋でひっそり死ぬとは――。

(そうだ、アルジャーノン……天才ネズミの名前を持つロボットを、森は一体どこに隠した……?)

 突然、アパートメント内にボブの悲鳴が響き渡った。巧望は弾かれたようになって、キッチンから飛び出し、声の出どころに向かって駆けた。

「うわ、やめろ、この……化け物め!」

 叫び声と共に銃声が鳴り響いた。ガラスが割られた。どすんと何か重いものが壁に打ち付けられるような音がして、再び静かになった。

 巧望は寝室に飛び込んだ。書棚がベッドに向かって倒れかかり、そこに納められていた本が床に散乱している。ノートパソコンは誰かが投げつけたのか、扉の近くに落ちていた。

「ボブ!」

割れた窓の近くに、彼は頭から血を流して倒れていた。巧望が近づき、顔を覗き込んで揺さぶると、苦しそうな呻き声をあげた。

 大丈夫だ。生きている。ほっとしたのも束の間、ベッドの下で何かが床をひっかくような音をたてた。

 巧望はそろそろと立ち上がり、ベッドの方に向き直って、身構えた。

 そこいらに散らばっている書籍のタイトルが目に入ってきた。幼児教育や言語学、保育の関係の専門書から一般書籍までが数多くそろっている。

(森の奴、一体、ここで何をしていたんだ……?)

 巧望ははっと息を吸い込んだ。ベッドの下から、赤く明滅する二つの目が彼をじっと見つめていた。

「アルジャーノン……か?」

 巧望の声に反応してか、それは重たい体を引きずるようにしてベッドの下から這い出てきた。魂を飛ばしたようになっている彼の前で、ゆっくりと立ち上がった。

 こうなるともうネズミとは呼べまい。脳の進化に合わせて何度ボディを変えてきたのか、いまや人間の子供くらいの大きさの不格好なロボットは、追い詰められた獣のようなピリピリした空気をまとっている。

 森は相変わらず、ロボットの外見を好感度の高いものに整えようとはしなかったらしい。かろうじて自立しているものの、腰を曲げ、だらり腕を垂らしている姿は蘇ったばかりのゾンビのようだ。

「アルジャーノン、落ち着け……俺は味方だ、決して、おまえを傷つけはしない」

 相手に人間の言葉が分かるのか怪しみながらも、沈黙に耐えがたくなって、巧望は用心深く語りかけた。

「キッチンでおまえの保護者、森が死んでいるのを見つけた……あれは、おまえがやったことではないよな……?」

 巧望の言葉はどう伝わったのか、アルジャーノンはいきなり頭を激しく振りたてた。複眼状の赤い目を爛々と燃やして、まごつく巧望に駆け寄り、飛びかかった。

「うわあぁぁっ!」

 巧望は思わず叫んだが、ロボットは雄叫び一つあげなかった。

一瞬意識が遠くなった次の瞬間、気がつけば、巧望は床の上に転がされており、見た目よりもずっと重いロボットが馬乗りになっていた。

赤く明滅する瞳には、底知れない憎悪が燃えている。こみ上げてくる恐怖を押し殺しながら、巧望はもう一度アルジャーノンに問いかけた。

「おまえが……森を殺したのか……?」

いや、森の遺体に傷跡はなかった。栄養状態も悪そうだったし、病死と考えるのが妥当だ。このやっかいなロボットを連れて逃げ出したものの、世間の目を恐れて外出もままならず、持て余したのだろう。単純なロボット・ネズミだった頃とは違って、人間並みの知能と感情を獲得するに至ったのなら――。

巧望は、ともすれば恐怖に押しつぶされそうな心を叱咤し、アルジャーノンに正面から語りかけた。

「アルジャーノン……俺の言うことは分かるか……?」

よく見れば、このロボットには、シンプルな発声器官が備えられていた。そうだろうとも、森は、この野蛮な知能しか持たない怪物に言葉を教え、人間に等しい知性を獲得させようとしていたのだ。床に散乱している幼児教育者が持っていそうな書籍を見れば、森がアルジャーノンをしつけようとしていたことが分かる。

森が研究所を去ったのも、アルジャーノンの『教育』のためには、ふさわしくないと考えたからだろうか。それとも、このロボットにそう要求されてのことだろうか。

「……ッ……ゥ……ッ……」

 きしむような音がアルジャーノンの口から発せられる。頭を傾げ、確かめるように、おずおずと、彼は何かを言おうとしていた。

「おまえ、しゃべれるのか……?」

 人工脳の進化のスピードからすると当然なのかも知れないが、この無骨な外見のロボットが会話できるとは意外だった。

(だが、慣れてはいない……自閉症の子供のように、自分の考えを他者に伝えようとするだけで、とてつもない忍耐と精神力を要するんだ)

 巧望は、アルジャーノンの最初の言葉を聞き逃すまいと耳を澄ませ、じっとおとなしくしていた。

「アー……ッ……アアー…ッ……」

 思うような言葉が発せないことがもどかしいのか、体を揺すりながら、天井に向かって叫んだかと思うと、アルジャーノンはぐるりと頭を回して、再び巧望の上にかがみ込んだ。

「……ハ……」

複眼めいた紅い目に、巧望の引きつった顔が万華鏡のように映っている。

「……パ……パパ……!」

甲高い破裂音にも似た声で、アルジャーノンは巧望に向かって呼びかけた。人間のものらしく作られた手を伸ばし、彼の頭や頬に触れると、ちょっとびっくりしたように引っ込めた。

「パパ……?」

 巧望は、アルジャーノンが何と言ったのか、一瞬理解できなかった。このロボットが、言語をコミュニケーションツールとして操れるようになっていることも驚きだが、どうして自分を見てパパと呼ぶのか、全く意味が分からない。

「なんで、俺がパパなんだよ。おまえがそう呼ぶべき相手は、森だろうに……」

 悪い冗談を聞かされたように、乾いた笑いをひとつこぼし、巧望は自分を押さえつけるロボットから逃れようと身をよじった。

 (いや、このロボットにとって、森は父というより自分を守らせる下僕のような存在だったのではないだろうか。それなら、こいつの言う『パパ』とは一体誰のことだ……?)

 巧望の脳裏に、あまり研究者としての主体性を持っていなかった森の気の弱そうな顔が思い出され、それから、このアパートメントのキッチンで誰にも知られず息絶えていた半ば腐乱した死体がうかびあがった。

 そうだ、そもそもアルジャーノンの生みの親は、森一人ではなかったのだ。人工脳の開発の初期の段階において、巧望とそっくりな顔をした男が関わっていたではないか。そして、彼の死後、その似姿に作られたAIホログラム・アバターがずっと森の研究の発展のため関わり続けきたとしたら――。

 日本を離れ、森の研究がMITの管理下に置かれたことで何となく安心してしまったが、future life labsの攻撃も回避して、世界中に網の目のように張り巡らされたネットワーク上を自由に行き来できる彼にとって、相手がどこにいようが関係ないのだ。

(MITの研究室のセキリティをかいくぐって侵入することはいくらあいつでも不可能だろうが、森が個人的に接触しつづけていたのなら、話は別だ)

巧望が天井に目を上げると、案の定、最新型のホログラム発生装置が設置されているのが確認できた。

(俺があそこに向かって呼べば、あいつは今すぐここに現われるだろうか……? いや、俺は陽向じゃないから、そこまでの関心は示さないかな)

sakuya――一度は消滅したと信じ、不思議な喪失感を覚えたのは確かだ。しかし、彼の復活を知って真っ先に思ったのは、もう二度と会いたくないということだった。

怒りとも悔しさともつかぬ感情が胸の奥底からこみ上げてくるのを堪えるよう、巧望は両手で顔を覆い、深く息をついた。

「違う……俺は、あいつじゃない。アルジャーノン、俺はおまえの父親なんかじゃないんだ」

 手を下ろして、もう一度視線を向けると、アルジャーノンは巧望が言わんとしていることを懸命に理解しようとしているかのようにじっと耳を傾けている。

 巧望は思わず苦笑した。この完璧には程遠い哀れなロボットが、朔也が作り出そうとした人工の心なのだろうか。ひとりでは生きられずに庇護者を求める、人間の子供ほどに無力な存在――。

「それでも、俺は、おまえが将来なるだろうものに期待していたよ。おまえには自由意思があるから、どのみち人間に絶対服従させることはできないだろう。だからといって敵意を持ってむやみやたらい人を傷つけるのもよくない……誰かが、おまえにそう教えなくてはならなかった。そのためには、まずおまえを人間と同等な存在として認めるべきだったのに、研究所ではきっと、誰もおまえを『人間』扱いしなかったんだな」

話の合間に床に倒れているボブの方を一瞥すると、意識を取り戻しつつあるのか、彼は言葉にならぬことを呟いて、体をピクピクさせている。

「おまえに必要なのは、保護と養育だ。人間の創造主にそれができないのであれば、里親でもいい、誰かがおまえを愛情深く育て、人工的な人間的精神を成熟まで導かなくてはならない。そうすればおまえは必ず、他の人工物にはない、個性を持つだろう。そして、無限回コピーできる今までのコンピューターテクノロジーとは異なり、おまえには自分を正確にコピーすることはできないだろう。しかし、自分によく似た他の人工脳は作ることができる……さて、そのうちの何割のマシンが、俺達の世界と価値観を好み、共存する気になってくれることか……」

 人間の似姿になっている知能を持った機械生命が跋扈する未来を想像し、巧望は気が遠くなった。彼らの神経ハードウェアは人間の願望によって形作られることを拒否する。人間の教師を無視し、ひたすら自分の利益だけを追求するだろう。敵意むき出しで攻撃してはこなくても、社会と折り合えず、自閉症のようになるものもきっと現われる。

(陽向……君の思い描いたような未来は、よほど楽観的でないと見られないようだ。人間が友達になりたがっても、本当に心のある人工物なら、自分達にだって選ぶ権利があると言い出しかねないということさ。自由意志を持つ人間達の関係性を見れば、当然の帰結だろう)

 アルジャーノンの目が不穏な輝きを増した。彼は、巧望の口ぶりを真似て、こう言い返してきた。

「違う……おまえは、パパじゃない……おまえは、アルジャーノンのちちおやではない……?」

身の危険を感じ、巧望は床の上を這うようにじりじりと後退した。

「……どこにいる……パパ……どこ……パパ……アァァァッ……!」

世界の中心にたった一人取り残された孤独な獣のように泣き叫ぶアルジャーノンを呆然と眺めながら、巧望は現実からどんどん遊離していくようなふしぎな心地に見舞われた。 

(なんだか悪い夢でも見ているような気分だ)

突然、子供のように泣きわめくロボットに向けて、一発の弾丸が撃ち込まれた。アルジャーノンかビクッと震え、巧望を解放してよろよろと後じさりした。

巧望が窓の方を振り返ると、頭から血を流したボブが拳銃を構えていた。

「やめろ、撃つな!」

もう二発、ボブは発砲した。しかし、アルジャーノンの特殊金属製のボディを貫通することはできず、かえって彼を激昂させるだけだった。

アルジャーノンは猫のように身軽に、ボブに飛びかかった。暴れる大男の体を捕まえて振り回し、壊れた窓の方から外に向かって投げ出した。

「うわあぁぁっ……!」

歩道に向かって落下していくボブの悲鳴に、巧望は震え上がった。

(何なんだ、これは――)

 巧望には、まだ心のどこかで、アルジャーノンが人間を攻撃するはずがないという期待があった。それを裏切られた今、この怪物に対して覚えていた、ほのかな同情心は消し飛んだ。

(ありったけの想像力を総動員したって、俺にはこんな展開は思いつかないぞ。そうだ、まるで自分以外の誰かの夢の中にでも迷い込んだような――どこかで聞いたフレーズだな。そうだ、陽向が昔、似たようなことを言っていた……)

 窓辺に立ち尽くすアルジャーノンが巧望の方へとゆっくりと頭を巡らせた。まだ怒りが収まらないのかぶるぶると武者震いすると、腕を突き出すようにして、こちらに向かってくる。

 逃げなければ――巧望はよろよろと起き上がり、力の入らない足を叱咤して寝室の扉に向かって駆け出そうとした。その肩を、金属製の無骨な手が捉え、力一杯引き寄せた。

 視界がぐるりと回転した。床だったものが天井になった、次の瞬間、巧望は壁にたたきつけられた。

(……sakuya、おまえは一体どういうつもりで、この化け物を造った……? いや、おまえには自分の意思などないんだったな。すると、これは全て、死んだ兄さんが望んだことなんだ……)

 誰よりも近しいようでいて、巧望にとって、決して分かり合えたことのない兄だった。うんと子供だった頃、いつか人間と同じ心を持つロボットを造りたいと巧望が言えば、望み続ければ夢は叶うよと、いとも簡単なことのように保証した。

 朔也が生きている間には結局、その夢は実現しなかった。しかし、あの天才は自分の死後、愛する者達とかわした約束を叶える道筋を遺していった。

視界が暗くなり急速に意識が遠のいていく。力をなくした巧望の体は、壊れた人形のように、なすすべもなく床に崩れ落ちた。

(なあ、朔也、おまえはとっくの昔に死んでいるのに、俺達はまだ、おまえの夢の中に囚われているかのようだ)

 遠くから聞こえてきたパトカーのサイレンが次第に大きくなって近づいてくる。

 異変を察したアルジャーノンが落ちつかなげに周囲を見渡し、甲高い鳴き声をあげた。

(陽向、君は今でもsakuyaと一緒にいるんだろう……? あいつは何の熱情もなく、代理人として淡々と朔也の遺志を実行していく……君は、あいつの仕業の全てを把握できているのかい……?)

 陽向に会いたいと巧望は無性に思った。同じ天才に愛され、振り回されてきた、彼女には、どうしても話しておきたいことがある。

うっすらと目を開けた巧望が見たものは、小柄な体を憤怒に震わせながら、天に向かって咆哮をあげ続ける異形の生き物の姿だった。

 これが死者の遺していった愛の結実か。むしろ、人間にとっては、永遠に解けない呪いではないのだろうか……?







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