初恋<ルシアン・アルト視点>
あの日の出会いを、僕はよく覚えている。
オフィーリア学園に入学したての頃だった。
侯爵家にいた時も、決して居心地は良くなかった。あの頃の僕は多分、何処にいても居心地が良いとは思わなかったと思う。
それは自分の自信の無さが影響していた。
その日も、部屋にいるのさえ嫌で、寮の周辺を散策していた。けれど、周辺だと人が多くて、居づらくなり、森の中に入ってしまった。
こんな風に逃げて、自分は本当に情けないと思いつつ。
目的もなく彷徨い歩いてると、か細い声が聞こえた。
動物の声だと思った。
声をたどっていくと、子猫がもう動かなくなってしまったのだろう母猫に身体をこすりつけて鳴いていた。
真っ黒い毛並みで、母猫が舐めてくれないからだろう、ボサボサになっている。
いつからそうなのか、空腹からなのか震えている。
子猫が、何故だか自分自身のように思えて、放っておけなかった。
真っ黒で、ボサボサで、頼りなげで、みすぼらしい…。
そっと抱き上げて寮に向かって歩いていた時、突然何かが飛び出してきた。
「!!!」
「うわっ!」
目の前には、割とぽっちゃりな女の子がいた。
寮でちょっと話題になっている、ふくよかな令嬢 ミチル・レイ・アレクサンドリアだろう。
走っても無駄だ、と笑われていた。多分それは、同性からも。
けれど彼女は走ることを止めない。笑われていることなど、多分耳に入っているだろうに、止めない。
そんな風に人の話題に上っていることが分かったら、僕ならもう走れない。
「びっくりしたわ。」
走っていたのだろう。息をふぅ、と吐いて彼女は言った。
僕は慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!あ、慌ててて…。」
彼女はにこっと微笑んで、「大丈夫。それより、どうしたの?」と、僕の手の中を覗き込む。
「この猫を拾ったんだけど、すごい弱ってて…だから部屋に連れて帰ってごはんをあげようと思って…。」
子猫は僕を見上げ、にゃうー、と鳴いた。おなか空いた、って言ってるのだろうか。
ミチル嬢は僕をまっすぐに見て言った。
「ねぇ、一生飼えるの?」
「え?」
予想もしてなかった問いだった。
「その子は生きているのよ。今、可哀想だからって手を出して、あなたは一生その子の面倒を見れるの?」
まったく、そんなこと考えてなくて、とにかく助けなくては、自分によく似たこの猫を何とかしなくては。それだけだった。
母は猫アレルギーだとか何とかなので、絶対に連れて帰れない。もし連れて帰ったら母に捨てられてしまう気がする。
どうすれば、この猫を助けられるんだろう。
胃が重くなるようだった。
そんな僕の手から、ミチル嬢は猫を取り上げた。
「えっ?!あの?!」
ミチルはにこっと笑って、「私が面倒を見るわ」と言うなり、僕の方を指さして、「制服、汚れてるから着替えたほうがいいわよ?あ、あと手も念入りに洗ってね。」
そう言うなり出会った時と同じ、結構なスピードで去って行った。
――あなたは一生その子の面倒を見れるの?
ミチル嬢の言葉を思い出していた。思い出そうとしなくても、自然と頭の中で再生された。
僕と同じで真っ黒で、ボサボサな黒猫を、一生面倒見ると彼女は言った。
笑われても気にせず走り続ける、普通なら真っ黒くて不吉と言われ、嫌がられる黒猫を、一生面倒見ると言い切った彼女のことを。
意思は強そうだ、と思った。
猫のことを感謝したいと思ったけれど、クラスも違うし、あまり接点はなさそうだ。
ある日、人混みを逃げるように図書室に来た所、彼女がいた。
椅子に座って何やら真剣に読んでいる。
猫を引き取ってくれたことに謝意を述べたくて、そっと彼女に近づいた。
彼女はすぐに僕に気が付いて顔を上げた。
一瞬怪訝な顔をして、すぐに僕のことを思い出したようだった。
「…あの、猫は…元気ですか?」
ミチル嬢はにこっと微笑んだ。
「えぇ、元気よ。」
あれから身体を清潔にして、子猫がおなかを壊さないように薄めたミルクを飲ませたと言った。
猫好きの侍女がつきっきりで面倒を見てくれているので、すぐに良くなるだろうと言った。
ほっとした。本当に。
勝手に感情移入してしまっている猫は、今は大切にされている。それが嬉しかった。
僕は別に家族から大切にされていない訳ではない。
むしろ大切にされている。
そう言えば、彼女に名乗っていなかったことを思い出し、猫への感謝もこめて、丁寧にお辞儀をし、名乗った。
途端に彼女は畏まってしまった。
「アルト侯爵家の方とは知らず、大変ご無礼を致しました。お許し下さい。」
アルト侯爵家は、この国の名家として名高い。
侯爵という爵位ではあるものの、事実上の公爵家と同じ扱いを王家から受ける家だ。
代々宰相を輩出する家柄で、時には諸外国から自国の宰相にと望まれることも少なくない。
叔父も、そうしてこの大陸の中央に位置する皇国 ディンブーラ皇国の中枢で働いている。
けれど、僕は出来損ないなのだ。
アルト家の出来損ない。
何をやっても、兄のようには出来ない。
真っ黒で、いくらまとめてもあちこちピンピンはねてしまってまとまらない髪。
読書ばかりしている所為で白い肌。寝不足で目の下にはクマがあり、運動もしないので、ヒョロヒョロでガリガリだ。
猫背も治らない。
勉強はまぁまぁ出来てるとは思うけど、父や兄と話していると、自分の物知らずさに消えたくなる。
こんな僕を、アルト家の一員として扱わないで欲しい。
何度も普通に接して欲しいとお願いすると、ミチル嬢はちょっと困った顔になったが、最後には笑って、分かりましたわ、と了承してくれた。
彼女の笑い方は、 なんかほっとする。
貴族令嬢の、完璧な笑顔とはちょっと違っている。
多分、あの笑顔も出来るんだろうとは思うけど、そうではない笑顔を向けてくれていることが嬉しかった。
僕はそれから、逃げる為ではなく、ミチル嬢に会いたくて、図書室に通うようになった。
好きとかそう言う気持ちはよく分からないけど、彼女と話すと、僕の心のひび割れた部分に水が注がれるような、そんな気がするのだ。
多分、ミチル嬢は僕のことを本の虫だと思っているに違いない。
いつも図書室にいるのだから。
確かに、本はよく読む。
アルト家の一員として、より多くの知識を身につけるのは当然だ。
本当は君に会いたくて来ています、なんて、告白みたいで言えない。
だから、僕は本の虫だ。
ミチル嬢との会話の殆どは猫のシアンのことだ。
驚いたことに、彼女は僕によく似た名前をあの時の黒猫に付けていて、それがまた僕と猫を同一視させるのに拍車をかけたのだけれど。
シアンはオスで、ミチル嬢とその侍女のお陰で順調に回復し、今では室内を走り回っているらしい。
猫好きな侍女は多く、男子寮にもその話が届いたぐらいだ。
僕の部屋の侍女も猫好きなのに、母の猫アレルギーがある為、屋敷には猫がおらず、残念がっていた。
授業がある時に、侍女たちの休憩時間などでシアンはみんなのアイドルとして可愛がられているらしい。
ミチル嬢は不思議な令嬢だと思う。
普通の令嬢は、何事にも一番を目指せと激励するのが常で、僕にはそれが苦痛で仕方ないのだけれど、体育が憂鬱だと言う僕に彼女は言った。
「課題はこなせているのでしょう?何が問題なのですか?」
一番を目指さないと、と僕が答えると、即答で無理でしょう、と言われてしまった。
「長年騎士団長を輩出する運動神経に特化した遺伝子を持つハーネスト家と、文武両道の殿下がいるのですから、一番は無理でしょう。そこは気になさる必要はないですわ。比較対象が悪すぎます。」
それに、その上をいって目立つのは得策じゃありませんわ、と言われた。
空気読め、ということだと思う。
まぁ、読まなくても上にはいけないんだけれども。
と言うか、あまりにも、何当たり前のこと言ってるんだという表情に、僕はちょっと力が抜けた。
「どうしても出来るようになりたいのであれば、筋肉の使い方など、ルシアン様だからこそ出来る視点で成し遂げられればいいですわ。」
僕だからこそ出来る視点?
訝しがる僕に彼女は話を続けた。
「身体で覚えられるタイプ、これは適性のように思えるかも知れませんけれど、幼い頃より同じことを繰り返してきたことにより、パターンの識別が可能になっているのだと思います。こういう時はこうすれば上手くいく、という失敗と成功の経験の積み重ねにより、理屈は必要とせず出来る、ということですね。」
あぁ、なるほど。
身体能力の絶対的な部分はあるにしても、原因への対処方法は根本的な所で脳が判断している筈。
ハーネスト家のような一族だと、もう考える必要もないぐらいの経験を既に幼少期から叩き込まれている、ということなのだ。
アルト家がそうであるように。
課題に上がっている運動が、何処の筋肉をどう使っているのかを考え、動け、ということだろう。
何と的確なアドバイスだろう。
「ミチル様は、凄いですね…そんなこと、考えもつきませんでした…。」
「出来るやり方を考えただけで、何も凄くありませんよ?」
きょとんとしているミチル嬢に、僕はちょっと笑ってしまった。
こんなに凄いのに、本人は何も分かっていないのだから。
だって僕は、自信を持てるかどうかはさておいて、この先何とかやっていける、というだけの自信をこの瞬間に得た。
ずっとずっと、僕を責め続けていた、所在の無さ。
それをこうも簡単に、あっさりと。
そして僕は、明確に、彼女への好意を認識した。
「まぁ、シアンが喜びますわ。最近とてもわんぱくになって、なんにでも飛びつくのよ。」
いつものように、彼女に会いに僕は図書室に来ていた。
今日はシアンへのお土産として、おもちゃを渡した。
本当は彼女にも何かプレゼントしたいのだけれど、恋人でもない相手にアクセサリーなどあげられないし、お菓子なら、と思って渡した所、ダイエット中だからと断られてしまった。
そうだ、だから彼女は今でも毎朝走っているんだったのに、忘れていた僕は愚か過ぎる。
そんな話をしていた時、集団の足音と声が、図書室に近付いて来ていた。
誰か来る。
僕はそっとミチル嬢から離れ、別々の所で本を読み始めた。
婚約者でもない男女が二人でいるのは控えるべきことで、僕はまだ彼女に想いも伝えられていない。
彼女に迷惑をかけない為にも、距離を取るのが最善だ。
とは言え、決して多くない彼女との時間を邪魔されたことに、僕は若干苛立っていた。
ドアが開き、ジーク王子と側近のジェラルドが入って来た。
この二人が図書室に来るなんて珍しい。
王子は側仕えに命じて本を持って来させることが多く、自分で足を運ばない。
ジェラルドは頭も悪くないが、運動の方を好むタイプだから、図書室に用はない、筈。
王子とジェラルドのとりまきたちが、相手にもされないのにひっきりなしに話しかけている。
本当に、五月蝿い。
ジェラルドは室内を見渡し、ミチル嬢に目を止めた。
「ミチル嬢、ここにいたか。」
ジェラルドはミチル嬢を認識するなり、大股でミチル嬢に近付いた。
彼の背後にいるおっかけたちが、恐ろしい眼差しでミチル嬢を睨んでいる。
どうしよう、間に入るべきか?と思ったが、ミチル嬢は大して気にしていないようで、完璧な貴族の微笑みを向けていた。
ジェラルドは制服のポケットから丸い塊を2つ取り出して、彼女に差し出した。
「先日、うちの侍女から、ミチル嬢が猫を飼い始めたと聞いたから、これを。」
ネズミのカタチをした麻縄のぬいぐるみだ。
シアンはわんぱくで、すぐにおもちゃを駄目にしてしまうから、いくらあっても足りないぐらいだろう。
「まぁ…!ありがとうございます!」
ぬいぐるみを手にミチル嬢は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は僕の好きな、貴族の微笑みではない、自然な笑顔だ。
ジェラルドは平静を装っているが、髪に隠れてあまり見えない耳がちょっと赤くなっている。
むかっとした。
「じゃあ、またな。読書の邪魔をして申し訳なかった。」
気恥ずかしいのだと思う。
ジェラルドは逃げるように図書室を出て行った。それを王子ととりまきも追う。
王子を放ったらかして行くなんて、ジェラルドにしては随分らしくない行動だと思う。
他に誰も来ないのを確認して、ミチル嬢に近付いた。
「ミチル様は、あの方たちのこと、気になりますか?」
「あの方たち?」
名前を呼んで顔を赤められたら嫌だった。誰を好きなのか知るのが怖くて、あの方たち、と言ってしまった。
「殿下たちのことですか?」
頷く。
「気になるかどうかで言ったら気になりませんね。」
簡潔な答えだった。
全く気にしてないのがよく分かる答えだ。
表情に変化はない。
あれだけ女性たちが夢中になっている殿下たちのことを、なんとも思っていないと言い切る。
自分の願望がそう言わせているのではないだろうか?そう思って、聞き方を変えてみる。
「あんなに凄い人たちで、容姿も優れているし…女性なら…憧れるのかと…。」
うーん、とミチル嬢は唸りながら首をひねる。
「確かにステキな方たちですけれど、だからと言って好意を持つかと言うと、それはまた別の話なのではないかしら。」
「そういうもの…ですか…?」
なんだか、肩の力が抜ける。
「他の女性陣がどうなのかは分かりませんけれど…ルシアン様は随分気になるみたいですね?」
しまった。あまりにもストレートな聞き方だったから、僕の気持ちがミチル嬢に伝わってしまったのではないか?
恥ずかしくて顔が上げられない。
「…僕はあの人たちみたいに…見た目もよくないし…運動も駄目だし…もっと…しっかりしなくてはいけないのに…。」
あああ、しかも何を言ってるんだ僕は!これじゃ、僕を見てと言ってるようなものだ!
ミチル嬢は僕の顔を覗き込む。
眼鏡、分厚くて良かった…。
見ないで、お願い…。
「先日のテストでも、ルシアン様はトップだったではありませんか。それにきっとルシアン様のような可愛らしい方がお好きだという方も、世の中には多くいると思いますわよ。」
可愛らしいって言われた!!
え!これ、喜んでいいの?それとも、男としては駄目なのか?!
戸惑う僕にミチル嬢は一歩近づく。
これ以上来ないで。心臓が爆発するから。
「ルシアン様ってもしかして…。」
「…あの、その、えっと…。」
「どなたか思う方がいらっしゃるのですか?」
カッと顔が熱くなったのが分かった。耳も赤くなってる気がする。
それを、君が聞くの?!
うふふ、と微笑みながら、ミチル嬢が言った。
「ルシアン様の片思いが通じるといいですね!」
あれ?
もしかして、全然伝わってない?
噛み合ってないままに話をしてたってこと?
しかもなんか応援されてる!
「あ…はい…。」
急に脱力して、思わず壁に手をついてしまった。
とりあえず、気持ちを落ち着かせなくては。
深呼吸を何度かする。
よし、僕のことはいいから、ミチル嬢の理想を聞かなくてはいけない。
理想に近付ければ、異性として見てもらえる可能性も増えるだろう。
今は対象外だとしても…。
「僕のことはまぁいいとして…ミチル様はどんな人が理想なのですか?」
「私ですか…?」
考える姿勢をとりながら、思い出すように言葉を口にするミチル嬢。
「うーん…頭の良い人…ですね。背が高くて、ステキな声で、黒髪で…!」
言ってる途中で我に返ったミチル嬢は、頰を膨らませて抗議してきた。
可愛い…。
「何を言わせるのですか、ルシアン様。つい色々と口走ってしまいましたわ。」
それにしても、ミチル嬢の言う理想像…。
聞いていたら思い出された人物の名を口にする。
「まるで、レンブラント先生のようですね。」
「!」
途端にミチル嬢の顔が真っ赤になった。
「え? もしかして、ミチル様は、レンブラント先生を…?」
赤い顔、その表情を見るだけで、彼女が恋をしていることが分かった。
あぁ、だから王子たちを見ても何の反応もしなかったのだ。
そんな彼女に、僕はうっかりと、言ってはならないことを言ってしまった。
「レンブラント先生は来月、婚約者とご結婚されますよ?」
僕の言葉にミチル嬢は卒倒した。
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