第56話 鍵

「鍵なら、僕に預けてくれる?」

「え?」

「だって、ナミ仕事に行くんでしょう? そしたら僕、出かけられなくなっちゃう」

「そうだけど……」

 きっと新しい住まいを決めに行くのだろう。昨夜、警察官に新しい居住地が決まったら連絡するように言っていた。

「ナミだって、僕にずっとここにいられるの嫌だろうし」

 思いがけぬ問いに、ナミは返答に窮した。

 確かに、ユイルに鍵を渡したくない気持ちがある。高校生の時ならば違っていたのかもしれないが、長い年月を経て再び会った彼は昔と同じか分からない。部屋の鍵を使って悪事を働くこともあるかもしれないし、鍵を持って出て行くことだってありうることだ。

 その一方で、ユイルをこの部屋との繋がりを持っていたいという気持ちもある。鍵を持たせたことで、ここに帰ってくる意味ができるから。

(昨日、あんな言い方されたのにね)

 ――ナミ、変わっちゃったね。

 そう言われて苛立ったのに、長いこと待っていた彼が再び目の前から消えることを危惧している。

 そんな自分に気が付いて、ナミは自嘲気味に笑った。

「どうしたの?」

 ナミが突然笑ったので、彼はきょとんとした顔で見つめる。

(小さいときみたい……)

 彼女は彼の表情を見てそう思った。

 時は未来に進んでいるはずなのに、ユイルだけはまるで過去に戻っているかのようだ。荒む前の純朴な反応だ。

(だったら、それを信じてみるしかない)

 ナミは心の中でそう思うと、鍵を差し出した。

「ううん、何でもない。それより、鍵はユイルに預けておくね。私がいない間に家を出入り出来た方がいいだろうから」

 あっさりとした答えだったせいか、ユイルは少し戸惑っていた。

「え、うん。ありがとう……」

「その代わり、ちゃんと私が帰るまで部屋を開けておいてね」

 彼は柔らかく微笑むと頷いた。

「分かった」


 ナミは家を出ると、仕事場近くにある公園へ向かった。

 早朝のため誰もいないかと思ったが、意外にも人がまばらにいた。ほとんどが運動のために訪れた老人で、出会うと「おはよう」とか「よっ」と声を掛けており、普段から顔を合わせていることが伺えた。

 ナミはその中で少し居心地の悪さを感じながらも、公園の隅っこにある花壇の近くに腰を下ろし、そこから見える「セレ・ドヴァイア・ミカラスカ」を眺めた。

 朝日を浴びた湖の表面はきらきらとしていたが、「夜を閉じ込めている水たまり」は相も変わらず深い青を湛えている。

「帰って来たんだなあ……」

 ナミはぽつりと呟いた。

 誰も聞いていないが、それがよかった。

 誰にも聞いて欲しくなかったが、口に出して言いたいことだった。


 ――ユイルが帰って来た。シュキラの町に、帰って来た。


「複雑……」

 彼女は、ため息を吐きつつ心の声を吐露する。

 嬉しいけれど、喜べなくて。

 話したいのに、上手く話せなくて。

 昔のように接したいのに、難しくて。

 彼女の心の中はもどかしさでいっぱいだが、ユイルのあの様子をみると彼はそうではない。ただただ、ナミに会えたことを喜んでいて、昔と何も変わっていないと思っている。

「そうじゃないのにね」

 ナミは再びため息を吐くと、暫くそこで湖を見ていた。

 小さなころから二人で遊んでいた、あの場所を。

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