第55話 家族がいる暮らし

 結局、その日の夜はそれ以上のことは話さなかった。

 ただユイルは住む部屋が決まるまで、ここに滞在させてほしいと言ったので、ナミはため息をつきつつも了承した。

 本当は突っぱねるべきなのだ。彼は寝泊りするための荷物をまるで持ってきていなかった。つまり、家出してから今までホテルなどで寝泊りしていたということだろう。そのため、ナミがユイルを受け入れて泊まらせる必要などないのだと思う。

 しかし、彼女にはそれが出来なかった。

 ユイルは変わってしまい、自分は腹が立ってしまったが、憎むことも嫌うことも出来ないのが片想いというものなのかもしれない、と彼女は思った。



 翌朝、ナミは起きるとベッドの隣に布団にくるまって寝ているユイルの姿を見て、思いがけず胸が熱くなるのを感じた。好きな人が一つ屋根の下で眠っている。昨日ユイルの態度にがっかりしたのも忘れかけて、嬉しくなってしまう。

(……いけない)

 結婚している男が、横に眠っていて「嬉しい」と思うなど愚かなことである。

 ナミは自分の頬をつねって己の正気を取り戻すと、ユイルとユイカを起こさぬようにそっとベッドから這い出た。

 それから朝食の準備に取り掛かる。一緒にいるのだから、流石に朝食も作ってやらないと可哀そうだと思い、三人分の準備を始める。

(結婚してたら、毎日こんな感じなんだろうなあ……)

 三枚の皿、三つのカップ。

 一人暮らしをしているので、柄や形の揃ったものではなかったが、テーブルに並べる数だけはある。家族がいる人は、きっと同じ形の、同じ柄のお皿を買いそろえるのだ。そして、愛している人のために作るのだから、おいしくしようと思うのだろう。

(妻じゃないし……都合のいいただの幼馴染だし)

 ナミはため息をつき、いつも食べるサンドイッチを作った。何の変哲もない、普通でいつも通りのサンドイッチである。

 ユイルが起きたのは、ナミが朝食の支度を全て終わらせて、一人で食べ始めて時だった。彼は昨日の服装のままで、少し乱れた髪にいかにも寝起きの顔をしながらナミの前に立った。

「おはよう」

「おはよう。眠れた?」

 何が嬉しかったのだろうか。ナミの何気ない問いに、ユイルは何故か嬉しそうに微笑んだ。

「うん」

 思いがけない彼の表情にナミは内心狼狽えながらも、それを隠すように素っ気なく相槌を打った。

「そう。よかったね」

「もしかして、朝食を作ってくれたの?」

 テーブルに並べられたサンドイッチを見て、ユイルが弾んだ声で尋ねる。ナミは彼の態度に戸惑いながらも、関心がないように装う。

「いらなかった?」

「まさか。とっても嬉しい」

 彼は破願する。まるで無邪気な子供のようだった。

(何でそんな風に笑うの?)

 昨夜、嫌な雰囲気になって話を切っているのに、まるで何事もなかったかのようである。

「それなら良かった。でもその前に、顔でも洗ってきたら? 洗面所はあっち。歯ブラシは洗面台の下の戸棚に真新しいのがあるから、それでも使って」

 ナミはユイルをこの部屋から出るように仕向けると、彼は素直にそれに従った。

「そうだね。そうする」

 ナミは彼の姿が視界から消えるや否や急いでサンドイッチを口にすると、コーヒーで流し込んで食べ終える。立ち上がり、開いた皿を流し台に置くと出かける準備を始めた。

 しかし時刻はまだ六時三十分。出かけるにはあまりに早すぎる。

 だがユイルがいるとどうにも心が落ち着かない。そして、何かを期待してしまう。期待してしまったせいで、ここにいることを許してしまったのだが、浅はかだと思う気持ちもあり、二つの相反する気持ちが拮抗している。

 現在は己を叱咤する気持ちの方が強いため、とにかくユイルと物理的な距離を離したくてたまらなかった。

 妻のいる男と同じ部屋にいていいのか、今更ながらにやってはいけないようなことをしていると思ったのである。

「仕事?」

 慌ただしく準備をするナミを見ながら、洗面所から戻って来たユイルはまだ寝ぼけた様子で尋ねた。

「うん」

「早くない?」

「私の仕事は早いの」

「ふーん……」

 本当は八時前までに行けば間に合う。今から出るのはあまりに早すぎだ。

 しかし、この状況について一人で考えたかった。

「あ、鍵……」

 ユイルの脇をすり抜け、リビングから玄関先に移動して外に出ようとした時である。鍵をどうしたらいいのか考えなければならなかった。ユイルに預けた方がいいのか。それとも鍵を閉めたまま、家から出ないように言った方がいいのか。と考える。

 するとその間にユイルがナミに近づいた。

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