第46話 影
「とても良かったです」
ナミは素直に答えた。演奏は素晴らしかった。学校の音楽の先生以外がピアノを弾いているのは初めて聞いたが、こんなに惹かれるとは思わなかった。
「ありがとう」
スバルが笑ったのを見て、ユイルも微笑んでいた。その時の幼馴染の笑顔が印象的で、ナミは今でもはっきりと思い出せる。
(スバルさんが嬉しそうに笑っていて、それでユイルが楽しそうにしていて。あの時のあの時間だけは本当に穏やかだった)
ナミはぼんやりと喫茶店の中を眺めていた。
(今思うとスバルさんのピアノが、ユイルをここに繋ぎとめていてくれたような気がする)
スバルとユイルとナミ。この三人でいたときの時間は、本当に至福の時だった。その時ばかりはユイルの喧嘩もほとんどなかったし、毎日とはいかなくても三日おきぐらいに、学校帰りの夕方の時間になると彼はナミを通学路で待っていてくれた。そして二人で並んで、喫茶店「シャロン」に向かう。
(スバルさんはここで羽を休めたんだ。そして、再び旅立った……)
スバルはピアニストの夢を諦めた青年だった。
ナミはピアノにコンクールがあることを知らなかったあが、彼はいくつものコンクールを受けるほどの実力の持ち主だった。しかし二次予選までは通過できるが、いつも三次予選で落選してしまう。
それでピアノと向き合うことを諦めたようだったが、偶々「シャロン」に入ったときグランドピアノを見つけ、再び演奏をはじめた。だが、その時は自分が何者かバレないように女装していたと言っていた。
彼がシャロンに来なくなった理由は直接聞かなかったが、ユイルの話によると「行くべき場所に行った」ということだった。つまり、彼は自分のピアノの演奏を披露できる舞台に立てるようになったということだと、ナミは解釈していた。
(だけど、スバルさんが来なくなってから、ユイルもここには来なくなった)
それからユイルはシャロンに来なくなったし、ナミを通学路で待つこともなくなった。そして以前にもましてナミに近づかないようになって、彼が何をしているのか知らないことの方が多くなった。そして高校の卒業とほぼ同時に、シュキラを出て行った。
(もう、あのころには戻れないんだなあ……)
ナミがそんなことをぼんやりと思った時である。
ふと、視界の隅にレモン色よりも淡い色が目に入った。
(綺麗な色)
そう思った時、その色が髪の色であることが分かる。そしてウェーブのかかったそれは、ナミの記憶に彼を思い起こさせる。
「ユイ……ル?」
その人は喫茶店の外を右方向に歩いて行く。細い体の線。それにぴったりと吸い付くようなシャツを着ている。長い髪だ。さらさらと風に靡いている。
ナミは自分から遠い位置にある喫茶店の窓を凝視し、彼の姿を追った。その瞬間、ちらりと見えた顔はユイルのように思えた。
「ユイル!」
彼女は席を立ちあがり、店内を突っ切って外に出る。他の客がざわめき、後ろでトイレから出てきたレノが「ナミちゃん!?」と言ったのが聞こえたが、構わなかった。
ナミは店のドアを開けて、彼が向かった方向へ走った。
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