第4話 夏、夢の話4

 神崎家の就寝時間は比較的早く、日付が変わる前には奈緒も創も自室に戻ってしまう事が多い。奈緒はどうか分からないが、創は自室に戻って一時間程度でベッドに入ってしまう事が多い。季節的なこともあるがジョンの散歩は早朝、暑くなり始める前に済ませてしまうのが一番良いためだ。他にも朝の弱い奈緒のために、朝食を準備して身支度を整える事に時間を使ってもらうためでもある。

 ベッドに入ってから三度目の寝返りを打ちながら、創は開け放った窓から聞こえる夜の街の音に耳を澄ます。蝉の声は鳴りを潜める、遠くから車の音が聞こえる。何度も目を瞑って眠りに落ちようとするものの、眠気が一向にやってこない。

「興奮してるのかな」

 いやらしい意味ではない。

 二十一時頃に凛が宿題一式を持って自宅に遊びに来たのだ。飲食店を営んでいる彼女の家族が、夜に自宅へ凛を残して現場に出払うことはよくあることだ。防犯の面や単純に暇を持て余す為に彼女は比較的夜を神崎家で過ごす事が多い。中学生に上がる前頃から続いている事で、頻度的には週に三日か四日程度だろうか。家も斜向かいなので帰宅の際に創が玄関先まで出て見送ってやれば危ないこともない。

 奈緒が職場から貰ってきたと言うクッキーを茶菓子に、凛は奈緒とお喋りしながらリビングで宿題を広げ、その傍にジョンを愛でながら日付が変わる前に帰宅した。創も彼女に倣って宿題を広げていたが、女子というのはいつまでも会話が途切れないものである。時折会話に混ざりながら過ごしていたので、珍しく頭が冴えてしまったのかも知れない。あと、幼馴染とは言え夏場の女子の部屋着姿は実に目に毒だ。余談だが。

 四度目の寝返りを打ち、じっとりとする部屋の暑さと思った以上の寝苦しさに吐息する。

 暗い部屋の中で枕元を探りスマホを手に取る。淡いディスプレイの光と共に時刻は二時前を示していた。

 創は充電コードからスマホを抜き取ると、そっとドアを開けて自室を後にする。聞き耳を立てるが、奈緒の部屋から物音はしない。既に寝付いているのだろう。

 足音を殺しながら階段を降りてサンダルを突っかける。眠れない時は散歩に限る。

 シューズボックスの上に置いてある鍵を手に取るとリビングからのっそりとジョンが現れた。人の動く気配で目を覚まし、何事かと様子を見にきたのだろうか。明らかに眠気が抜けきっていない顔で、しかし尻尾を振りながら創の腕に顔を擦るつける。

「大丈夫、ちょっと歩いて戻ってくるだけだよ。おやすみ」

 声をかけるとジョンは鼻を鳴らしてリビングへ戻ろうとして、階段を上がって創の部屋の前に寝転んだ。

 早く帰宅しろという無言の訴えのだろうか、と笑みを噛み殺して音を立てないように家を出る。

 施錠して、部屋の中よりはまだ風のある夜の街をぶらりと歩き出す。公園を迂回して人通りのない住宅地を抜けて堤防へと上がる。

 神緒台のすぐ隣を神緒川と言う一級河川が流れている。かなり昔は洪水でよく氾濫していたらしいが、昔から堤防を高くしたり、遊水地を整備したり越流堤を設けたりと対策を行なっているようだ。

 堤防まで上がると水辺が近いからか暑さは少しだけ和らぐ。代わりに河川独特の香りと青々と茂っている草の香りが押し寄せてくる。そよぐ生温い風を浴びながら、普段と変わらぬ足取りで堤防を歩く。神緒川と交差する様に大きな橋がかかっており、神緒台と天ノ御橋駅前へ続く国道を繋いでいる。車通りは極端に少なく丑三つ時であることを否応なく感じた。

「あっついな」

 創の言葉は夜の闇に吸い込まれる。夜の堤防は虫たちが鳴く声が控えめに聞こえたはずだが、今夜は少し静かだった。

 街灯はないが堤防の上は明るい。街の明かりが近いのもあるが、今夜は雲が少なく月が綺麗に輝いていた。

「月……か」

 青白いぼんやりとした輝きを持つ、夜空に浮かぶ人類唯一の神秘の異国。

 そして最近、創が代わる代わる見る夢に出てくるもの。

 堤防をふらふらと歩きながら視線を夜空に浮かぶ月へと向けた。夜の闇の中に控えめに、しかし堂々と、揺蕩うように浮かんでいる。

 創の脳裏に夢の内容が思い起こされる。意味はよくわからないが内容はいつも同じだった。

 街の光の様な、星の輝きの様な、煌々とした光の群れに右も左も分からない闇から落下してゆく不思議な夢。轟々と耳を切る風の音、素肌を撫でる冷たい空気、何処へ落ちてゆくか分からない奇妙な浮遊感。不安や恐怖はなく、ただ、穏やかな気持ちになる。そして光に受け止められる様な、包み込まれる不思議な感じで目が覚める。

 淡い神秘的な光がグラスから溢れる雫のように満月の縁を滑り、雲ひとつない夜空に零れ落ちる夢。そしてその夢をみて目覚めた後、いつも言いようのない焦燥感や喪失感に苛まれるのだ。胸を掻き抱く様に切ない、大切なものを取りこぼしてしまったかの様な寂しさに、何かを思い出せない焦りや苛立ち。

 思い出し、胸が軋む錯覚に囚われる。

 疲れているんだろうか、と足を止めてふと、風景が随分と変わっていることに気づく。気付けば創は水門まで歩いてきていた。随分とぼんやりと歩みを進めていた様だ。

 じっとりと背中に汗をかいていた。暑さと湿気による不快感もあるが眠さが忍び寄ってきている。

 水門を過ぎれば緑地公園の敷地内だ。

「これ以上は明日に響くな」

 創は吐息して踵を返す。少し歩いて帰るつもりだったが、随分と歩いてきてしまった。眠気を誘う散歩にしてはいささか時間を使い過ぎた。

 アラームの量を増やしておかないとな、と独り言ちたところで、後頭部に刺す様な痛みを感じた。思わず声をあげて手で触れる。虫にでも噛まれたか、と恐る恐る頭と首筋を撫でてみるが出血の滑りや蜂が針を刺してると言うことはない。じんわりと広がる微かな熱を持つことに小首を傾げ、

「ーーッ」

 我が目を疑う。

 月が泣いていた。淡い神秘的な、でも極小の輝きがグラスの縁から溢れる様に、満月の縁を滑り雲一つない夜空に零れ落ちる。

 創が夢に見た光景が、夜空に広がっていた。極小の光はそのまま青白い光の尾を残しながら真っ直ぐに夜空を落ちてくる。ぼんやりとした輝きが夜空を照らす。

 口を開けて惚けたまま、しかし創はその青白い光から目が離せないでいた。足はその場に縫い付けられたかの様に動かず、呼吸さえも忘れて光に見入る。じっとりと暑さとは別の汗を掻いてゆく。

「夢……いや、起きてるよな」

 我に返り腕を抓ってみた。鈍い痛みと汗ばんだ肌が現実であることを創に知らしめる。

 視線は以前、夜空から降ってくる光を見つめており、不意に、創の内側に「あの光に追いつかなくては」と言う情動が生まれる。呼吸が少しずつ荒くなり体の内側で荒々しく心臓が脈打っている。生唾を飲み込み、一歩踏み出して創は動きを止めた。

(ーーあの光を追っていいのか。)

 疑問が生まれる。

 暗い夜に一筋の光の尾を残しながら青白い光が近付いてくる。正確には緑地公園の敷地内に向けて落下してきていた。

 視線は依然として光から逸らすことができず、不思議な力が働いたかの様に釘付けになっている。だが理性が創を引き止めている。行くな、と。一歩踏み出そうとする足を進ませまいと創の理性が地面に縫い付ける。

 行け、と心が咆哮する。あの光を追いかけろと心の奥底が震えている。理由は分からない。だが、心が叫んでいる。追え、と猛々しい声をあげている。

 きつく目を瞑り歯を食いしばり体を震わせた。理性と心が鬩ぎ合う。脳裏に浮かぶのは困った様な淡い笑みを浮かべる幼馴染の少女の姿と、霞がかかった様な父親の記憶。

 名前を呼ばれた気がした。

 誰に、と言う疑問など考える前に吹き飛んだ。

 は、と短く息を吐くと一歩踏み出す。踏み出してしまえば、あとは勢いで足が動いた。

 早足、小走りと足は動き、サンダルにも関わらず歩幅は大きくなってゆく。

 あの光を確かめたい。

 何が起きているのか知りたい。

 何より心が追えと叫んでいる。

 理性なんていらない、ただ、引き寄せられる様に公園に落ちる青白い輝きに向かって走り出した。




 ◆




 何度か躓きそうになりながら暗い堤防の坂を転がる様に下る。日頃からジョンと歩き回っていることが幸いしてか、無様に転ぶ様なことはなかった。

 荒い呼吸を繰り返し、肩で息をしながら創は白い光を見つめる。

「まさか……追いつくとは思わなかった」

 頬を伝う汗をシャツ肩口でぬぐいながら、呼吸を整えるために深呼吸を繰り返す。

 相変わらず心臓は強く早く鼓動を打っている。少し長めの距離を走りきったからなのか、それとも光の正体を確かめられるからなのかは分からないが、ただ、早鐘の様に鼓動を打ち散らかしている。

 夜の公園は恐ろしいほど静かだ。耳の奥から脈打つ音が響いてうるさいくらいだ。

 月から溢れた青白い輝きは創の頭上十数メートルにある。ぼんやりとした輝きがゆっくりと落ちてくる。

「夢か……これは」

 頭上を見上げて創は息を飲んだ。

 青白い光の中、重さを感じさせない速度で降ってくる、ぼんやりとした輝きに包まれるのはどう見ても髪の長い女性だ。 

 不意に創は幼い頃に篠宮家で凛と共に見たアニメ映画を思いだす。飛空挺乗りの亡き父を持つ炭鉱夫見習いの少年が、青い光に包まれて空から降ってくる少女と出会い、共に空の彼方にある城へと冒険する話だ。アニメの冒頭シーンを再現したかのような現状に創は頭がクラクラしてくる。

「違うのは俺が炭鉱夫じゃないってところか」

 緊張に体が震える。空から降りてきた髪の長い女性は、危ないことに頭を下にして空から真っ逆さまに降ってきた様だ。頭に血が上るな、とか、地面にぶつかったら首が折れてるな、とか、どうして髪が逆立っていないのか、と非現実の光景を目の当たりにして随分と現実的な考えが脳裏をよぎる。

 手を伸ばせば触れられそうな距離。創は背伸びをして空から降ってきた少女に左手を伸ばすと、首元から肩に手を添えて逆の手を膝下あたりに添えた。指先が体に触れると淡い光は滲むように夜の闇に溶け込み、創の両腕に少女の重みがかかる。

 まるで重さを感じさせない、抜け落ちた羽のような軽さに面食らいながら、創は空から降ってきた女性の顔を認めて息を飲む。

 恐らく年齢は変わらないくらい。

 淡い月の光に照らされる顔は精巧な人形の様に整っており、触れたら崩れ去ってしまいそうなガラス細工の様だ。

 月光を閉じ込めた様な白い肌はまるで穢れを知らないように染み一つない。

 満月の輝きで染め上げた様な蜂蜜色の長い髪は美しく、いつまでも触っていられるシルクの様な手触りだ。

 肩や胸元、腰や脚にスリッドが入った扇情的な白いインナースーツに包まれた華奢な身体は、しかし均等の取れた、いっそ艶かしい程の女性特有の曲線を帯びた身体つき。

 そして何より目を引くのが、人形の様な少女の胸元で主張する瑠璃色の輝き。直径五センチほどの大きさの雫の様な、吸い込まれるような不思議な輝きを宿す宝石。

「これ……埋め込まれてるのか?」

 失礼だと思いながらも、創の視線は胸元にある瑠璃色の宝石に向けられる。肌に食い込むように女性特有の柔らかな隆起の間、胸骨のあたりにあるそれは、淡く揺れる炎の様に輝いてまるで鼓動していると錯覚しそうだ。

 腕の中の華奢な少女はピクリとも動くことをせずに、死んでいるのか眠っているのか見分けが付かないほど、穏やかに胸元が上下している。 

 創は片膝をつく様にして腰を下ろすと、左膝に少女の尻を膝に乗せて足を支えてた右手を抜く。

「おい、大丈夫か」

 光と共に空から降ってきて大丈夫も何もないが、他に掛けるべき言葉が見つからない。控えめに頰を叩いて眠り姫を起こしにかかる。まさかキスをしなければ目覚めないなんてことはないよな、と場違いな冗談に苦笑しながら創は恐る恐る頰を叩き、身体を軽く揺する。

 しかし一向に少女は目を覚まさず、気まずさと夏の暑さがどんどん募る。人に見られていたらどうしよう、と肩を叩きながら不意に創は暗い緑地公園ないを見回す。相変わらず夜の闇にどっぷりと沈んだ公園が広がるだけで、人の気配はない。

 と、肩を叩いていた創の右手がズレて胸元に触れてしまう。ギクリと身体を強張らせて動きを止めた右手には、特有の柔らかさと宝石の冷たさが同時に生まれていた。

 やばい、と生唾を飲み込みながら手を動かしたところで少女が身動ぎをする。血の気が引く感覚を覚える創を余所に少女は瞼を震わせてゆっくりと目を開けた。長い睫毛の奥に光るのは胸元にある宝石と同じ、美しい瑠璃色の瞳。

 美しさに目と言葉を奪われる創を見つめたまま、少女はゆっくりと口を開いた。

「ーーサ……」

 吐く息と共に紡がれる、掠れてもなお美しい声色。眉を顰めて桜色の唇に耳を寄せる。

「ヤスヒサ……」

 少女の言葉に心が急激に冷え込み、全身が一気に逆毛立つのを覚える。脳裏にフラッシュバックするのは、幼い創の頭を乱暴に撫で付ける霞がかかった父親の顔。夕方に宗一から頭を撫でられたからか、髪に触れる手の感触まで鮮明に甦る。

 身体が震えて脱力しそうになるのを堪えながら、こちらを見やる瑠璃色の瞳の少女を見つめ返す。緊張から口の中がカラカラに乾き、心臓が乱打される。

「ヤスヒサ……それは、神崎康久のことか?」

 ガサガサの掠れる様な声をどうにか喉の奥から絞り出して尋ねる。

 極度の緊張故に創には周りの音が聞こえなくなっていた。少女の桜色の唇に注視し、息を殺しどんな音も聞き漏らすまいと耳を攲てる。

 永遠とも思える少しの沈黙の後、彼女はゆっくりと瞼を下ろすと静かに寝息をたて始めた。穏やかな吐息が創の鼓膜に響く。

「なんだよ……くそ……」

 期待を裏切られた失望感と脱力感、そして言葉では言い表せない安堵感を覚える。全身から汗が吹き出し、少女を抱えたまま尻餅をつく。

 いつの間にか息を止めていた様だ。

 深呼吸を繰り返しながら、荒い呼吸を整えて早鐘を打つ心臓に落ち着けと言い聞かせる。いまだに大きな心音は絶えず体の内側から鳴り響き、手足は柄にもなく震えていた。

 腕の中、脱力して眠りに落ちている人形の様な少女を一瞥、

「なんなんだよ……なんなんだよ、クソ」

 胸の内側に湧いたやるせなさに悪態をついた。

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