第3話 夏、夢の話3

 結局、創はラヴェンナで夕食を摂る事なく早々に帰宅した。

 十七時半を過ぎる頃にはお店をあとにして帰路につく。七月の夕方はまだ蒸し暑く日も高い。強いが昼間よりは緩くなりつつある日差しにややうんざりとしながら、学生や主婦で賑わう車通りの多い駅前を歩く。すれ違う人達の寄り道の相談や井戸端会議を耳にしつつ、通りから一本外れる道を曲がる。

 大通りから外れてしまえばベットタウンとして機能する街だ。喧騒が遠のき夏の風物詩であるうるさい蝉の大合唱だけが響き、遠くから車の音と電車がレールを滑る音が聞こえる。人も疎らで夏の息遣いが色濃く、閑静な住宅地と言う言葉がぴったりだ。

「おや、おかえり創君」

 小さな公園の向かい側にある家から声を掛けられる。顔をあげると、ちょうど敷地から背の高い明るい茶色の髪をした優男が出てくるところだった。男から見ても整った甘い顔立ちに笑み浮かべているが、どことなく軽そうな雰囲気がある。

「宗春さん、お疲れ様です。今からお店ですか?」

「そうだよ。平日だし昨晩は遅くまで仕込みをしてたからね……ちょっとだけ遅め」

 目を弓なりに細め、ニッと笑みを作る。

「何時から何ですか?」

「オヤジからは十九時で良いって言われてるかな」

 宗春と呼んだ男の言葉に創はお店を出た時間を思い出し、頭の中でここまでかかる時間を逆算し、さらにスマホを取り出すと時刻を確認する。どう見ても彼の出勤時間よりも家を出る時間が早い。

「殊勝ですね、一時間も前じゃないですか」

 創の言葉に宗春は、ふと勝ち誇ったような笑みを見せた。

「ノンノン……仕事までの少しの間、可愛い花を愛でるのさ」

「あぁ……そうですか」

 言葉に創はげんなりとした表情を向けた。

 宗春はラヴェンナに勤めるバーテンダー兼料理人見習いだ。ランチタイムやディーナタイムのピーク時に厨房の仕事を手伝ったりはするが、基本的にはディナータイムのカウンターが彼の仕事場だ。甘いマスクと人懐っこい笑みで、彼を慕うお客は男女共に、いや男性客に比べて女性客が多い。

 彼が右手に握るスマホの画面にはトークアプリが表示されており、今から仕事の時間まで猫のアイコンの女性と会うようである。

「揉めるのだけは勘弁してくださいよ」

「大丈夫だよ、そう言う修羅場は既に超えた」

 口元を緩ませて笑みを作る宗春から滲む軽そうなーー遊んでいそうな雰囲気はこの性格からにじみ出ている。女性関係にだらしがない、と言うわけではないが、異性の交友関係は広く常に彼を尋ねる女性客がカウンターへ訪れる事が後を断たない。営業中に創もその光景をよく目にして入りが、明らかに彼に対して熱を帯びた視線を向ける女性客もいるのだ。二十六歳になる宗春は既に創が危惧するようなトラブルを経験している様である。

「まぁ……別に俺がとやかく言うことはありませんが」

 真偽は定かではないが、女性を泣かせたことはない、と豪語する宗春だ。女性を取っ替え引っ替えしている雰囲気を持っているが、性格は至って真面目で仕事も丁寧で真摯に取り組んでいる。

 創もアルバイトを始めた当初は、宗一よりも寧ろ宗春に扱き倒された経験がある。立ち居振る舞いから細かい所作まで、泣き言を許さないレベルで指導された。

 つまりは世話になっている宗春が、些細な事で人間関係が拗れた結果、変に言われる様な事を創はして欲しくない。

 年の離れた親しみやすい兄の様に、時にはフットワークの軽い友人として、遊び好きな先輩として接してくれるチャラい男が悪く言われるのは、どうにも納得ができないのだ。

「そうそう。創君にはウチの可愛い妹がいるんだから、寧ろ余所見はダメだ」

 そんな創の心境を察する事なく、逆にこちらを嗜める様に紡ぐ宗春の言葉に顔を歪めた。

「はいはい。いい加減、飽きませんか? 何年もそのネタでからかって」

 うんざりと言う創に向けて大真面目に宗春は告げる。

「飽きないね。可愛い妹と弟分の行先を見届けるのも、しがない兄の勤めだと思ってるんだ」

 大仰に天を仰ぎ胸の前に手を重ね、重大任務だ、とエエ声と共にえへんプイと胸を張る二十六歳児に、

「さっさと仕事に行け」

 創は吐き捨てる。

 辛辣に対応さえた宗春はケラケラ笑いながら創の肩を叩くと、そのまま颯爽と駅前へ向かって歩いて行った。軽やかな足取りと共に小さくなる背の高い後ろ姿が今朝の担任と重なり、

「一度刺されれば良いのに」

 言い様のない小さな苛立ちから物騒な言葉を吐き捨てた。いや、もしかしたら既に一度か二度、刺された経験があるかも知れない、と笑えないことを思いながら。




 ◆




 創の自宅は宗春が出てきた家、つまりは篠宮家から公園を中心にして斜向かいにある。生前の康久は少し金銭的に余裕があったのか程よい中庭がある二階建ての家だ。家に明かりは点いていない。玄関へ向かうと、家の中からドタドタと子供が走り回る様な音がする。

 思わず頰が綻び、鍵を回してドアを開けると玄関前の廊下の上で一匹のラブラドールレトリーバーが尻尾を振り回し足踏みをしながら創の帰宅を待っていた。鼻を鳴らしバタバタと創の帰宅を歓迎する。

「ただいまジョン、ちょっと待ってろよ」

 土間に上がり階段を登って自室へと向かう。フローリングを打つ爪の乾いた音と共にジョンが後を付いてくる。階段を登りきって直ぐの部屋が創の部屋だ。ドアを開けると日中に篭った熱気が溢れ出し、暑さに顔をしかめながらバックザックを床に置くと窓を開けて換気を促す。生ぬるい空気と蝉の声が部屋に流れ込み、素直にエアコンをつけた方が良かったかも知れないと後悔する。

 制服を脱ぐとラフな格好に着替えて振り返る。自室の前で、口を開けて舌を垂らした姿のままつぶらな瞳でジョンはこちらを見つめていた。

「お前、暑いのわかっててそこにいたな」

 創の言葉に彼は踵を返して一階へ降りて行った。薄情なやつだ、と創は笑みを浮かべて後を追う。

 朝と夕方に創の日課が存在する。康久の葬儀が終わった日の翌日に庭先に迷い込み、なし崩し的に家族となったジョンの世話だ。生き物を飼うのは大変だぞ、と宗一から珍しく真剣に釘を刺された事を思い出す。金もかかるし時間も取られる。何より命を預かるわけだから、自分の予定よりも優先させなければならないことも多々ある、と。

 世話と躾の勝手が掴めるまで迷惑をかけたこともあったが、今では日常の一部となっている。宗一のお店でアルバイトを始めたのも自身の小遣いを稼ぐ目的もあったが、ジョンの餌代や世話代を稼ぐことが大きい。

 ジョンの世話は苦ではない。自分で迷い込んだ小さな犬を飼うこと決めたのもあったが、彼がいたからこそ、父親の葬儀を終えた後の時間を乗り越えられたのも事実だ。顔もぼんやりと覚えておらず、思い出もほぼない。葬儀は悲しみよりも驚きが優っていたが、やはり唯一の肉親と死別したと言う事実は、否応無しに創の心にぽっかりと穴を開けた。慰め、声をかけて支えてくれた人間は多かったが、それでも小さなジョンの世話が悲しむ暇を与えてくれなかったのは大きい。

 獣医の見立てではおそらく今年で五歳になる、まだまだ遊びたい盛りの大型犬。創の家族として、友人として、相棒として彼が支えてきた事を思えば、朝と夕方の時間を彼のために使う事は苦でもない。

 自宅を出て駅前を過ぎ緑地公園まで行って戻ってくる往復三十分のいつものコース。帰宅した時に創は汗だくでジョンも庭先の水道から直接、水をガブ飲みしていた。

「お帰り、暑かったね」

 リビングのガラス戸が開いて女性が顔を出す。ウェーブがかかった明るい髪に、穏やかな笑みを浮かべている。

 母親にしては随分と若い女性だ。

「ただいま」

 女性はベランダに膝を折ると水を飲んでいたジョンに手を伸ばす。彼は尻尾を振り回しながら彼女の手を自らの頭を擦り付けている。

「ジョン君、いい子だった? ごめんねーお留守番、ありがとう」

 女性は穏やかな声で彼の首元を撫で付ける。体を傾け盛大に甘える犬に創は苦笑すると、ベランダの縁へ彼を持ち上げてそのまま水で濡らした雑巾で足を拭いてやる。

「ほら、奈緒さんに甘えてこい」

 ジョンはそのまま大きな体を華奢な奈緒に擦り付ける。くすぐったそうに笑い声をあげる奈緒に創は声をかける。

「夕食どうする? パスタか作ろうと思うけど」

「あ、今夜は私が作るよ。そうちゃんはシャワー浴びてきたら?」

 奈緒は仰向けに寝転がり野生を捨てたジョンの腹を撫で倒しながら、キッチンへ向かおうとする創を制した。昔から彼女は創のことを『そうちゃん』と愛称で呼んでいる。

「ありがとう、なら遠慮なく。ついでにお風呂も洗ってくるよ」

「お願いね」

 あと、と創は苦笑しながら奈緒を振り返った。

「そろそろ『そうちゃん』は止めにしない?」

「うーん。気に入ってるからまだまだ使いたいかなぁ」

 笑顔でやんわりと断られてしまい、創は苦笑を濃くした。




 ◆




 神崎奈緒は創の母親ではなく従姉にあたる。父の康久の妹の娘で、創が中学生に上がると同時に同居が始まった。

 どんな経緯があり従姉が同居をするに至ったか創は分からない。奈緒の両親は反対しなかったのか、周りの親戚は何も言わなかったのか、と少年であったが創も創なりに思い考えていることもあった。その事を彼女本人に堪らず口にしたが、

「ありがとう。でも、大丈夫だから」

 柔らかく、しかし明確な拒絶を持って断られたことは記憶に鮮明に残っている。頰を緩めるでもなく、目を弓なりに細めるでもなく、ただ困った様な笑みだった事を覚えている。

 蛇口を捻りシャワーの水を止める。火照って汗ばんだ体が随分とさっぱりした。

 風呂を出ると着替えてリビングへ向かう。控えめな音量でバラエティ番組がテレビから流れていた。リビングから見えるキッチンでは奈緒が夕食を作っている最中だ。足元にはおこぼれを狙いのジョンが鎮座してじっと事の成り行きを見つめている。

 鼻歌交じりに料理をするほっそりとした背中に、不意に創は声をかけた。

「そういえば奈緒さん……付き合ってる人とかいるの?」

 ダン、と包丁がまな板を叩く随分大きな乾いた音がして奈緒の動きが止まる。思わず創の体が硬直し、訝しげな視線を彼女へと向けた。

「びっくりしたぁ……突然、何を言うの?」

 困った様な笑みを浮かべて奈緒は創を振り返った。

「いや、その、ごめんなさい」

「いいのよ別に。そうちゃんがそう言う話をするの、珍しいわね」

 可笑しそうに、く、と喉の奥を鳴らして肩を竦めた。

「確かにね。お互いそう言う話もしないし」

 年齢が十も違うとなかなか色っぽい話もすることは少ない。男女であればなおさらだ。

「私は、そうちゃんの相手は凛ちゃんだとずっと思ってるよ?」

「奈緒さんも宗春さんと同じこと言うんだね」

 悪気のない彼女の言葉に創は苦笑を漏らした。夕方に出会ったチャラい男と同じ会話をした事がリフレインされる。揃いも揃って神崎と篠宮の年上二人は、弟分と妹分をからかうのに精を出している様だ。

「そう言う話だと、俺は奈緒さんと宗春さんこそどうなのかって思うよ」

「ふふふっ。宗春君はいい人だと思うけど、私のタイプではないかな」

 創の言葉を彼女は被せ気味に否定する。まるで居合の様に言葉の太刀で宗春を一刀両断した。創の頭の中では抵抗なく胴を真っ二つにさて崩れ落ちる宗春がいる。篠宮家の長男である優男は、そもそも歯牙にかけられていなかった様だ。

「でも突然、どうしたの?」

 料理の手を休めぬまま奈緒は言葉を続ける。

「二人に聞かれた事、気になったから聞いただけだよ」

 ダイニングの椅子に不可腰掛けると、キッチンへと視線を投げた。奈緒が困った様な顔をしながら創を見つめている。

 言葉の奥底に潜む真意を探る様に彼女は薄いブラウンの瞳をわずかに細める。

「奈緒さんと住み始めて結構経ったよなって思ってさ」

 従姉の視線に創は言葉を続けた。

 康久が死亡してから約六年。創と奈緒が篠宮家に支えられながら歪な家族関係を過ごしてきた時間だ。言葉にしないが創も必死で生活していたし、恐らく奈緒自身も面に出さないだけで必死になって生きていただろう。当時はまだまだ若者扱いの小娘が、弟と言っても差し支えない年齢の中学生の保護者をしながら仕事をしていたのだ。重圧や奇異の視線など生半可じゃなかっただろう。

「六年くらいになるかしらね、何かあった?」

 何かあったか、と聞かれると特に何もないが、思うところはある。

 宗春の事ともそうだが奈緒にも随分と世話になっている。幼少期に父親を亡くし、途中から創の姉と母親を兼業する様な形で、創を中心に今までずっと生活してきた彼女だ。やりたいことや取りこぼしてきたこともあっただろう。

 今までの生活に後悔はないか、と口を開こうとして喉まで出掛かった言葉を飲み込む。彼女はきっと、いつも通りの困った様な笑顔でやんわりと否定するのだろう。

 奇妙な沈黙が支配する。リビングから聞こえるバラエティ番組の笑い声が小さく響く。

 創も奈緒もお互いに思うところがあった様で、少し沈黙した後、ふと顔をあげた。

 出会った頃と変わらない、整った柔らかい雰囲気の穏やかな顔が創を見つめている。

「ご飯にしましょうか」

「そうだね」

 言葉にするのが少し躊躇われる。

 だが、彼女の言葉や笑顔を見ると、恐らく後悔はないのだろう、と創は配膳を手伝うために立ち上がった。

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