第2話 夏、夢の話2

 停車を告げるアナウンスの後、電車がゆっくりと速度を落とし駅のホームへと滑り込む。わずかな揺れの後に停車するとドアが開き、待ちわびたかの様に生徒達が電車を足早に降りてゆく。足音に混じって、暑い暑い、と夏を恨む声も聞こえる。

 結局、学院前から乗り換え目的の駅である天ノ御橋あまのみはし駅まで生徒が減ることはなく、終始、はじめと凛はくっついたままで車内での時間を過ごすことになった。周りにスペースができ始めると彼女はゆっくりと体を離す。気のせいか触れていた場所が妙に熱を持っている気がする。

「悪かった」

 バツが悪そうに謝罪する創に凛は無言で小さく首を振るだけだ。彼女は自分が額を押し当てていた箇所を軽く叩くと電車を出る様に促す。

「気にしてないし、悪いのは私。後、本当に無理はしないで」

 ぶっきらぼうな物言いだが創を気遣う言葉だ。先に歩き始めた凛だが、歩幅は創の方が大きいので数歩で彼女の横に並ぶ。特に言葉はないが、気まずいということはない。その証拠に創と彼女の距離は肩が触れるか触れないかのところにある、友人としては少し近すぎる距離。

 神崎創かんざきはじめ篠宮凛しのみやりんは幼馴染だ。幼い頃から顔を突き合わせて生活をしていれば必然的に気のおけない間柄になるというもの。当人同士の年齢が同じと言うこともあってか、兄妹もしくは姉弟の様に育ってきたと言っても良い。そのせいで度々、周りの友人達や知人達から冷やかされたりもしたが慣れてしまったものだ。

 創は父親の康久やすひさと凛の両親が学生時代からの付き合いがあると言うことを、中学生の頃に凛の父親である宗一そういちから聞いたことがあった。目を細めて懐かしそうに語る宗一の顔は長年の友人を自慢する誇らしいものだった気がする。また気恥ずかしそうに凛の母親である小春との馴れ初めを語り、恋愛事情に興味を持ち始めた凛が黄色い声をあげて騒いでいたのを覚えている。

 創が父親の若い頃の面白く可笑しい失敗談や、仲間内での男子特有の武勇伝を聞くのは専ら宗一と小春からだった。

 自身の父親である康久が思い出話をしなかったのでは無い。康久は思い出話を創にする事ができなかったのだ。

 彼は幼い創を篠宮家に預けて姿を消し、創が小学生を卒業する年に空っぽの棺桶として家に戻ってきた。

 突然のことで当時はよくわからなかったが、大きくなってその時のことを思い出してみると、悲しみよりも呆気なさの方が幼いながらに勝っていたようにも思える。

『父親との思い出よりも、オヤジさんや凛との思い出の方が多いんだよな、やっぱり』

 黒髪を揺らして隣を歩く涼しげに澄ました横顔を見やる。

 父親である康久は創が四歳の時に失踪しており、それ以降、今に至るまで篠宮家が創の面倒の大半を見てきたと言ってもいい。中学校に上がる頃にまた自身を取り巻く環境が少し変わったりもしたが、縁が切れるという事はなかった。

 わずか四歳の幼子の記憶に、触れ合いがあったかも定かではない父との思い出が残るかというと、それは少し厳しいものがある。ただ、僅かながらにも記憶はあり、随分乱暴に頭を撫でられた事は覚えていた。

『もっとも、下手したらそれはオヤジさんの可能性も十分にあるんだけれど』

 自分のゆるいくせ毛の頭髪に触れる。指で毛先を弄んでいると、隣の凛がそれに気づいて表情を緩めた。

「どうしたの? 髪で遊んで」

「凛と長い付き合いだよなって思ってたら、父親のことを思い出した」

 言葉に、そう、と彼女は少しだけ顔をうつむける。凛は基本的に康久の話をしたがらないし、その理由を創は直接聞いた事はない。ただ口から父親の名前が出る度に彼女は少しだけ悲しそうに顔をうつむける。創自身も彼女のそんな顔は見たくないので、必然的に親の話は避ける様になっていた。

「悪い」

「謝ってばかりだね」

 電車を降りるときのやりとりの繰り返しに凛は苦笑を浮かべた。

「やっぱり、今でも気にしてる?」

「……凛が父親の話を引っ張るの、珍しいな」

 創が目を丸くして驚くと、凛は困ったように眉尻を下げた。力の無い笑みだ。

「久し振りに、創から康久さんの話が出たから」

「そう……だったか?」

「うん。三年ぶりくらいだったと思う」

「そっか……」

 意図的に康久の話を避けていたのは事実だ。そして幼い息子を友人の家に預けて失踪して気が付いたら死んでたことに対して文句の一つも言ってやりたいし、何より失踪した理由が知りたいとも思っているのも事実。だが失踪理由も死亡理由も康久以外は知り得ないのだ。友人であった凛の父親の宗一でさえも、康久から何も聞いていないらしい。

「別に……何かネガティブな意味があって話題を出さなかっただけじゃ無いから」

 本当にどうしようもないのだ。康久は友人に息子を預けて突然消えて、気付いたら本当にいなくなっていた。問い詰めたいことや聞きたい事は山程あったが、死人に口無し。語る事はない。幸いにも創自身は康久との思い出が恐ろしく少ないので、実の息子でありながらいっそ薄情な位に割り切れている。一部だけ切り取るなら碌でもない父親で、残った息子も息子で薄情なので、実のところはとても似ているのかも知れない。笑える話ではないが。

「うん」

 そんな創の内心を知らずに凛は深刻そうに一言だけ頷いた。彼女は控えめに創のブレザーの裾を握る。

「なんでお前が落ち込むんだよ。父親のことは仕方ないことなんだ」

「あ、ちょっと!」

 どんよりとした空気を背負った凛の頭を、薄らぼんやりと記憶の底に残るいつかの康久の様にやや乱暴に撫で付ける。

 指の間をすり抜ける絹の様なキメ細かい手触りに、同じ人間の髪なのかと創は心の片隅で驚く。 

 文句を言いながらもなすがままの凛に笑みを向けると、

「オヤジさんもそう言ってたし。俺も凛に落ち込まれたら悲しい」

「うん……」

 仕方のないことなのだ。知りたい気持ちもあるが、知ることの出来ないことをいつまでも引き摺っていても良いことはない。

 凛は小さく頷いた後、創のブレザーから手を離してはにかんだ様な困った様な笑みを見せた。

 



 ◆




 創と凛が最寄り駅として利用する神緒台かみおだい駅は、天ノ御橋あまのみはし駅から電車に揺られて数駅、神緒川かみおがわと言う一級河川を超えた地区にある。ビルの群れが程よく姿を消して一戸建ての住宅やマンション、商店などが目立つ穏やかな街並み。オフィスビルがある市街地よりも慌ただしくなく、畑や工場が多い郊外よりも田舎ではなく、程よい活気と穏やかさに包まれており自然な居心地の良さを覚える。

 神緒台の街は路線一本で天ノ御橋駅周辺までアクセス可能な利便性から、駅周辺でオフィスを構えたりその周辺の会社に務める人間達のベットタウンとして機能している。実際に街では開発が進んでおり、真新しい住宅地やマンション、商業施設が数年前と比べてかなり増えてきていた。

 夕方の神緒台駅は利用者が多い。特に学生の姿が目立つ。創と凛は帰宅の人波と共に改札を潜り開けたロータリーの前へと抜ける。

「ちょうど良い時間かな」

 ロータリーに設置されている背の高い時計を見やりながら創は呟く。時刻は十六時半過ぎ。ロータリーには帰宅する多くの学生と少しの社会人の姿。

「オープン前だし時間的な余裕もあるね」

 凛がスマホの画面を見ながら相槌を打つ。示し合わせたわけではないが二人は揃って歩き出してロータリーを抜けると、神緒台駅から歩いて直ぐのところにある、テラス席を備えた落ち着く色合いの小洒落た雰囲気のカフェ・バーに赴く。『Cafe&Bar La Vennaカフェ・バーラヴェンナ』と英語表記の年季を感じさせる木の無骨な看板が置かれている。

 クローズの札がかかっているが凛は遠慮なくドアを開けた。心地よいドアベルの音が明かりが半分ほど消えた薄暗い店内に響く。

「ただいま」

「凛か?」

 厨房から黒いコックコートを来たガタイの良い男がのっそりと出てくる。短い黒髪に顎髭、強面な男前な顔立ちと体格のせいもあり、ヒグマのような印象を受ける。 

 篠原宗一、凛の父親でこのカフェ・バーのオーナーを務める男。そして創の育ての親の代わりの男でもある。

「二人ともおかえり。暑かっただろ、コーヒーでも茶でもジュースでも好きに飲めよ」

 ヒグマの様な彼は凛と創の顔を見ると、厨房を指差しながら強面に人懐っこい笑みを浮かべる。

「ありがとう。でも先に着替えてくるね」

 凛は素っ気なく宗一告げるとそのままスタッフルームへと消えてゆく。彼は少し考えた後、サロンを外してカウンターの上に放り投げると椅子に腰掛ける。

「ちょっと機嫌悪そうだな、アイツになんかしたのか?」

 眉根を寄せて創へ尋ねる。

 どうしたものかと逡巡した後、同じくカウンターにバックパックを置き宗一の席に腰を下ろしながら、

「帰り際に、俺の父親のことをちょっと思い出したことを話した」

 創の言葉に納得した様で宗一は小さく呻く様な声をあげた。

「昔から、アイツは康久の話に敏感だからなぁ」

 苦笑しながら宗一はタバコに火を点ける。オイルライターの香りと葉が燃える独特の香りがオープン前の店内に広がる。

 年齢故に創はタバコを吸うことはないが、煙や香りは別段嫌っているわけではない。アルバイトの関係で慣れているということもある。

「会った事もない他の家の父親の話なのに?」

「うーん。康久の話って言うか、お前の話って言うか」

 そもそもな、と前置きをして宗一はタバコを灰皿に押し付けながら言葉を続ける。椅子に座り直し、新たなタバコを取り出す。怒られるぞ、と言う創の言葉に笑みを浮かべて誤魔化すだけだ。

「お前が康久から預けれてちょっと経った頃か。覚えてないかも知れないが、やっぱり子供ながらに感じ入るところがあったりしたんだろうな」 

 篠宮の家に世話になって半年。創は随分と塞ぎ込んでロクに食事も摂らなかったそうだ。部屋に塞ぎ込んだまま出てこなかったと言う。

「五日目位に部屋に行ったら返事がない。流石に不味いと思って部屋へ押し入ったら、床に倒れてピクリとも動かなくてな」

 宗一は苦虫を噛み潰した様な顔をしながら話を聞く創に苦笑しながら続ける。

 空腹と疲労や心労が相まって気を失っていたらしい。わんわん泣き喚く凛を妻に預けて病院へ駆け込んだのを宗一は今でも鮮明に思い出すことができる、と笑った。

「康久の事も俺達夫婦も、幼い凛に随分と罵られたよ」

 笑みを浮かべたまま宗一は二本目のタバコの火を消す。

「その後からだな。凛が俺達から康久の話を聞かない様にしたり、お前の前で話をしなくなったのは」

 幼い頃は特に酷かったらしく、露骨に不機嫌になり取りつく島もなかったらしい。

「なんか……ごめん。俺のせいで」

「別に謝る事じゃねぇよ。子供が大人に迷惑かけるのは当たり前のことだ」

 思えば、と宗一は椅子から立ち上がりながら続ける。

「当時の俺達も配慮が足りなかったんだ。幼い子供が実の親に会えなくて塞ぎ込むなんて、当たり前のことを見落としてたんだからよ」

 宗一は少し背の高い創の頭に手を伸ばして乱暴に髪を撫で付ける。ゴツゴツとした堅い男の手にくせ毛を押し付けられる様に撫でられながら、創は宗一に尋ねる。

「オヤジさん、俺の父親もこうやって乱暴に頭を撫でてた?」

 言葉に宗一は驚き動きを止めると、しかし人懐っこい笑みとは違う一人の父親としての笑みを浮かべた。

「あぁ。あいつが喜ぶからって、康久はいつもお前の頭を撫でくりまわしてたぞ」

 よく似た髪だ、と宗一は笑う。

「そっか」

 納得いった、と呟く創の背中を宗一は叩いた。

 時計を確認してカウンターの上のサロンを巻きながら彼は口を開く。

「十分もすれば開店時間だ、随分と話し込んじまったな。飯、食ってくか?」

「連絡次第かな……忙しくなるまで、時間潰しててもいい?」

 宗一は片手をあげてそのまま厨房に入っていく。入れ替わる様にスタッフルームから凛が出てきた。

 お店のロゴが入った黒いカッターシャツにタイピンをつけた明るい色のネクタイ。宗一と同じく黒いサロンを締めている。

 暑い、と彼女は片手で顔を仰ぎながら非難する様な視線を創に向けた。

「女子高生をあんな場所に閉じ込めておくのって、ちょっと無神経だと思う」

「だったら早く出てこいよ」

 小さく頰を膨らます彼女は、しかし打って変わって神妙な雰囲気になりながら髪先を指で弄る。

 俯き、創を伺う様に見ながら、だって、と前置きする。

「創とお父さん……康久さんの事を話してたでしょ? 私がいたら話しにくいかなって」

「……そっか、ありがとうな」

 苦笑する凛の気遣いに創はお礼を述べる。予想していた事ではあったが、気を遣わせていた様だ。

「もしかしたら店で飯、食べてくかも」

「分かった。もしそうならお父さんに伝えて」

 仕事の邪魔にならない様にヘアゴムで長い髪を一つに纏めながら、凛はそのまま入口へと向かう。創が店内の時計を確認すると、いつの間にかオープン時間が差し迫っていた。気の早い常連さんならドアを開けてしまう時間だ。

 ドアベルの音と凛のオープン時間を厨房に知らせる声を耳にしながら、創は自身の髪をやや乱暴に撫で付ける。

 少し硬い、濃い茶色のくせ毛。

 康久とよく似た質感の髪。

「そっか……似てるのか」

 誰に宛てるわけでもない創の言葉は、磨かれた少し燻んだ色のカウンターに吸い込まれた。

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