S.A.R.A.S/サラ

鹿嶋臣治

第1話 夏、夢の話1

 落ちている。頭を下に空か地面に向かって真っ逆さまに落ちている。

 いや、落ちている、と感じているのだからきっと地面に向かって落ちているのだろう。ただ自分自身がどこにいて、どこに向かって落ちているのかが分からない。真っ暗な世界の中を無抵抗に落下してゆく。耳元で轟々と五月蠅いくらいに風が鳴り、恐ろしいほどの冷たさが剥き出しの素肌を無遠慮に撫でてゆく。鼓膜を叩く風の音に恐怖も不安も、そして素肌にまとわりつく様な冷気に不快感もない。

 目を開けると光が飛び込んできた。煌々と輝く光の群れだ。その光の群れが何かは分からない。人々の生活の証である夜の街の光なのか、それとも宇宙の遥先にある星々の輝きなのか。ただ分かるのは、その光がとても鮮烈に目に飛び込んできて脳裏に焼き付いていく。なぜ鮮烈に脳裏に焼きつくかは到底理解ができず説明もできない。だが光から目が離せない。だから光から目が離せないのかも知れない。

 轟々と耳元で風が鳴り、素肌を冷たさが撫でてゆく。一度短く息を吸って目を閉じる。瞼を閉じた暗い闇の中に先ほど見た光の群れ広がり、代わりと言う様にだんだんと意識が深い闇の中に沈んでいった。







 軽い衝撃と乾いた音に創はぼんやりとした表情のまま周りを見回した。

 クスクスと耳をくすぐるような控えめな笑い声と左隣の席の女子生徒の深い溜め息を聞いて、創は昼食後の甘美な午睡に耽っていたことを理解する。口元に僅かな冷たさを感じて垂れそうになっていた涎を慌てて手の甲で拭う。慌てふためきながら背筋を伸ばし寝ていたことを誤魔化そうとする創に教師は苦笑いを浮かべた。

 昼寝に勤しんでいた男の頭を叩くのに使われたと思われる教科書を再度開き、

「神崎……寝るなとは言いませんが、せめてもうちょっとお行儀よく寝て下さいね」

 呆れた声色で苦言を零す。

「すいません笠原先生。気を付けます」

「頼みますね」

 笠原と呼ばれた教師は肩を竦めると教科書に視線を落とす。適当に机の間を巡回しながら教科書を読み上げるのは、寝ている生徒を発見して起こすためだろうか。

 創は欠伸を噛み殺してぼんやりとした表情のまま、無造作に開かれた机の上の教科書ではなく警備さながら教室を歩き回る教師を視界に捉える。緩やかな歩調のやや猫背気味の中年教師の後ろ姿は否応無く授業への集中力を削いでゆく。

 何より健康な男子高校生としてはどうしても昼食後の授業は睡魔が甘く囁いてくる。胃袋が活発に動き消化を促進するからなんだろうな、と二度目の欠伸を噛み殺した。

「最近、眠そうだけど大丈夫?」

 左隣の女子生徒から控えめに声がかかる。張りのある涼しげな声だ。

 創は彼女に顔を向けると落とした声で顔に苦笑を貼り付ける。

「ん? あぁ、大丈夫……だと思う。ここ数日、なんだか寝つきが悪いんだ」

「ちょと……それ大丈夫じゃないよ」

 言葉に顔をしかめるのは篠宮凛と言う。

 少しあどけなさが残っているが綺麗に整ったシャープな小顔。深い鳶色の瞳が訝しげにこちらへと向けられていた。

 暑いからか背中の中ほどまである烏の濡れ羽色の髪を頭の高い位置で一つ結びにしている。薄っすらと汗をかいた首筋に一筋の髪が張りつているのが妙に艶かしいな、と創はぼんやりと思う。

 眠さ故に不意によぎった邪な思いに咳払いを一つ。

「最近暑いし、寝苦しいだけだよ」

「……本当に?」

 心配しすぎだ、と創は鷹揚に手を振って凛から視線を外し会話を終わらせる。

 ちょっと、と投げつけるような言葉を零す彼女から顔を反らすと、注意されることを気にして教師の姿を探す。会話をしている間に笠原は黒板に向き直り板書をはじめていた。

 慌ててノートを開くと対応するページまで教科書を捲りシャープペンを握る。

 七月の日差しに暖められたぬるい空気の教室にチョークの削れる音だけが響き、規則正しくリズムを刻むように几帳面な文字が綴られてゆく。

 天ノ御橋市。人工二百三十万人。十六区から構成され、最もたる特徴は日本国内で唯一の“月国との連絡港”が存在し、定期的に月との連絡船が行き来している政令指定都市。また「月人居住区」と言う月国の人間が住まう地区も存在している。

 創は眠気を噛み殺しながら自身が住む都市の情報をノートに書き込んでゆく。ある程度書き込んだところで笠原が板書を終えて講義を始める。

「月のウィスタリア王国と世界は約三百年前の『天蓋戦争』以降、国交が断絶状態でしたが、七十年前の一九六〇年に行われた『世界黎明会議』で国交の回復と交流の促進を図っていくことが互いに承諾されました」

 人類にとって唯一の異国である、神秘のヴェールに包まれた月のウィスタリア王国。『世界黎明会議』以降に月王国との交流は活発に行われている、と言う教科書の内容を笠原が穏やかで深みのある渋い声でなぞる。

 教科書の隅には天ノ御橋市を上空から撮影した写真、月との連絡港の外観、大使館等の施設も並んでいる。資料として教科書に載せられている写真を眺める傍、笠原の講義は続いてゆく。小難しい政治と月の歴史をつらつらと話し続けている。渋い深みのある穏やかな声は否応無しに生徒達を深い眠りに引き摺り込んでゆく。

「もっとも国交の回復と交流の促進が承諾されたと言えども、七十年前とほぼ変わりなく鎖国状態であり、今後の交流は予断を許さない状況でもあります」

 ただ、と笠原は言葉を続ける。

「まだ経験の浅い私が言うのもなんですが、それでも世界は変わっています。私があなた達と同じく勉学に励んでいた頃とは随分と違います。街並みも、技術も、そして共に歩く人々も……」

 教師は感慨深げに教科書を閉じた。

「時代の夜明けから“まだ”七十年。今後とも月王国の方々とは良き友でありたいですね」

 同時に授業の終わりを告げるチャイムが教室に響く。

 終業を告げるチャイムを聞いて大きく伸びをする生徒、途端に口を開いて話に興じる生徒、突っ伏していた体を起こす生徒と動きが生まれて教室が活気付いてくる。

「では本日の月学概論はここまで。眠くなるのは分かりますが、もう少しだけ頑張って講義を聞いてくださいね」

 返事だけは良い生徒達に笠原が優しい眼差しを向ける。だが彼は直ぐに苦笑をしながら生徒達の喧騒を背に教壇を立ち去っていった。

「創、このまま帰る?」

 不意に名前を呼ばれ、視線を声の方に向けると端整な小顔が息のかかる位置にあった。フワリと甘い香りが鼻孔をくすぐり、その距離にギョッとして肩が跳ねる。

 驚いた反応に彼女は拗ねたような表情になるがそれもすぐになりを潜め、次に不安そうにこちらの顔を覗き込む。長い睫毛の奥に揺れる鳶色の瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚え慌てて返事をする。

「ん? いや、寄ってくよ」

 そう、と何か言いたげな凛を傍に慌てて机の教科書やノートの類をバックパックへ放り込む。片側のハーネスを肩に引っ掛けて席を立ちながら、

「今朝、担任が連絡事項なしって言ってたよな」

「うん。そのまま各々帰って良いって」

 今朝方、担任の男が去り際に言っていたことを思い出す。放課後は用事があるから、と言葉も足取りも体に羽が生えたかのように軽やかに教室を後にしたのを鑑みるに、恐らく結婚を考えていると言う噂の彼女とデートでもあるのだろう。

 履きすぎたパンツのゴムの様に緩み切った担任の顔を思い出しながら創は鼻を鳴らしす。

 すれ違う友人達の挨拶や冷やかしに適当な返事をしながら教室を出るとエントランスへと向かう。

 授業が終わった後のエントランスはとにかく生徒の往来が多い。帰宅する者、待ち合わせをしている者、部活や課外活動へ向かう者が一堂に会す為だ。室内履きからスニーカーへ履き替えると凛と共にエントランスを後にして駅へ歩き出した。

 創と凛が通う学校は天ノ御橋大学付属アトリア学院と言う。先ほどの月学概論で言う所の“交流の促進”の一環として、日本と月王国が共同出資でたてた教育施設だ。

 建学されてから五十年程しか経っておらず、また月学概論を始めとした月王国関連の講義カリキュラムを組み込んでいると言う特徴がある。開校した当時は物珍しさや真新しさからかなりの倍率を誇っていたらしいが、時間の経過と共に話題は下火となったようだ。だがそれでも偏差値としてはなかなか高めの高等学校となっている。

 ほぼ新設校といっても差し違いのないアトリア学院は、かなり利便性の良い作りになっており敷地内に駅が設けられている。創と凛の帰宅経路はまず、敷地内に設置されたアトリア学院駅から天橋臨海高速鉄道を使い天ノ御橋駅まで向かう。

「それで」

 凛は駅の入口が近付いたところでジロリと創を横目に睨む。顔の作りが整っている為か妙な迫力がある。

「どうしたの?」

「いや、本当に寝つきが悪いだけだよ」

 短い言葉だが、こちらを気遣う言葉に創は苦笑した。唇を尖らせる凛を隣に、帰宅の人混みに流されるように歩きながら自動改札を抜ける。軽快な電子音を耳にしながら創は、彼女の頑なな姿勢に諦めたかの様に小さく吐息すると口を開く。柄にもないけれど、と前置きをして“寝つきが悪い理由”を話し始める。

「夢を見るんだ」

「夢を見るの?」

 ホームへ向かうエスカレーターの上でおうむ返しのように凛が尋ねる。そうだよ、と返しながら創はぶつかってずれてしまったバックパックを肩に引っ掛け直す。思いがけず迷惑をかけてしまった女子生徒に軽い謝罪をして、人の溢れるプラットホームでザックの位置を胸の前に変えて抱き抱えるように持ち直した。

「不思議な夢だよ。二つの夢を交互に見るんだ」

 創は窓越しに抜けるような青空を見上げる。時刻は夕方。七月の夕方はまだ日の位置が高く太陽の光が眩しい。人に溢れるプラットホームはそれだけで熱が篭る。思わず顔をしかめてしまったのは夢のせいか、それとも眩しさと篭る熱のせいなのか検討もつかない。

「暗い場所をずっと落ちる夢。耳元で風が鳴って肌寒い。頭の上と足元に沢山の光がある」

 隣の凛に自分が見た夢の内容を喋っている筈なのに酷く他人事のように聞こえる。

「もう一つは月が出てくる夢だな。満月から白い光が雫みたいに零れ落ちる夢なんだ」

 創の記憶によみがえるのは満月。まるでグラスの縁から雫がこぼれ落ちるかの様に、月から白い光がまっすぐに零れ落ちていく夢の記憶。満月の夢の記憶を鮮烈に思い出したのは先ほどまで月学概論の講義を受けていたからだろうか。

 彼女は創の夢の意図を把握しかねているのか難しい顔のまま黙っている。勿論、創もただの夢の話なので内容について詳しい解釈が欲しいとか、暗示の意味合いを知りたいと言う気持ちもないので、彼女からの答えが無いことに特に咎めることも無いと思っている。

 二人の間に少しの沈黙が生まれ、駅の構内に電車が到着するアナウンスが流れ終わった頃に凛は口を開く。

「よく分からないけど、空が好きな創らしい夢だね」

 お手上げだ、と溜め息する凛に創は笑みを向けた。

「夢にまで見るほど空が好きなのかと呆れてくれればいい」

 エアが抜ける音と共にドアが開き、人混みに押される様に凜と共に電車に乗り込む。過密とまでは言わないがそれなりに多い乗車数に凛と顔を見合わせて苦笑する。もう少しだけ学院内で時間を潰して帰宅の時刻をずらしても良かったかも知れないと、創は周りの生徒達に無遠慮に押されながら心の中で溜め息を吐く。

「ん……創、苦しい。カバン足元に置けないの?」

「すまない」

 苦言を発する凛に謝罪をして胸に抱いていたものを足元へ。バックパック一つ分の隙間にほっとしたのも束の間、カバン一つ分の小さなスペースは周りに押されてあっという間になくなってしまう。

「……ごめん」

 凛が寄りかかる様にして倒れ込んできた。突然背中を押されてビックリしたのだろう、胸元にしがみつく様にして立っている。お互いに気恥ずかしさがあるものの、取り立てて騒ぐ様な間柄でも無い。ちょうど顎下辺りに凛の顔があり見上げられる視線から顔を逸らしつつ、創はわざとらしい咳払いを一つ。

「大丈夫、スペースできるまでこのままでいい」

「ん……ありがとう」

 電車が動き出す。揺れと同時にさらに創と凛の距離が近くなる。

 鼻孔をくすぐる不思議な甘い香り、女子特有の柔らかさや暖かさに創は知れず深く息を吐く。周りの生徒の目が痛い、と無遠慮に突き刺さる視線に小さく苦笑を貼り付ける。同じ高校生なので興味がある歳だから仕方ないと言えば仕方ないが、不可抗力なのでやっかみ等は勘弁して頂きたいと心の中で独り言ちる。

「創」

 体に軽い衝撃と凛の声が響く。動かした視線の先の彼女は、創の内心など知らぬ存ぜぬと言う素振りで鎖骨辺りに額を押し付けていた。どうしたものか、と困った様に視線を動かした先にいたひょろりと背の男子生徒と目が合う。数秒の間息もせずに見つめ合い、ふと視線の先の彼は心の底から嫉しそうな表情を向け創へ唾を吐き捨てる動作をして背を向けた。

「やっぱりよく分からないけど、無理はダメ」

 不意に湧き上がった創の苛立ちは、顎の下から発せられた心配の声色に鎮められる。

「前もそうだったけど……こんな時は創、本当に崩れるから」

「……ちっちゃい時の話だろ」

 自分自身では覚えていないことも別の誰かがよく覚えていることはよくある事で、それが幼少期の記憶ならばなおさらだ。創もほとんど記憶に無い事なのだが、凛が言うのならそう言う事があったのだろう。無言で訴えをする彼女に折れて創は観念したかの様に返事をする。

「……わかったよ。ダメな時は相談に乗ってくれ」

「うん」

創の言葉に凛は小さく頷く。そう言えば小さい頃も似た様なやり取りをしたな、と創は彼女のつむじに視線を落としながら朧げな幼い記憶を手繰り寄せていた。

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