第3話
青年はあちこちの酒場を巡り歩いた。有り金を使い果たしたい欲求が、彼を満たしていた。いや、それ以上に破滅的な自傷欲求だったかもしれない。
酒を飲む彼の目は、何もないという点で虚ろだった。何かを憂いている目とは、似て非なるものだったのである。しかし酒場に集う男たちは、そうは解釈しなかった。
女に振られ悲しみを引きずる男
馬券で失敗した男
友人に全財産を持ち逃げされた男
青年の与り知らぬところでさまざまな仮説が独り歩きした。
そんななか、世話好きの理容師の男が、青年に語りかけた。
「精がでますね」
「……」
「もうすぐ戦後20年になりますか、早いもんですねぇ」
「……!」
生きている自覚すらなかった青年の精神に、何かが触れた。
「早い、ですって」
ぼそりと呟いただけだったが、理容師の男はひどく恐れ入った。
「あなたはあちらの方ですか、失礼した、許してください」
「……?」
あちら、というのはかつての敵国のことらしいことを、青年はその後の雰囲気で知った。
青年は否定しなかった。そして再び哀しい無我の境地へと意識を沈めていった。
罪の意識なのか、理容師の男はその後も何度か青年の横に座った。しかし何も言わず、ただ泡の消えた生暖かいビールをすするだけだった。
そんなある日、理容師の男と親しい下町の劇場で役者の卵をやっている小娘が、男と大きな喧嘩をした。
周りの者は皆親子だと思っていただけに動揺を隠せない。
それは、恋人同士の痴話喧嘩だった。
若い父親と娘ほどの年の差がありながら娘が男を呼び捨てにする理由が、それだったとは。
バーがどよめく間も、青年は相変わらず無表情だった。
しかし、娘が男に放って言った言葉が青年の正体を説明した。
「……テルマ爆弾は正義なんかじゃないわ。あのけだもので、自国にすら健康被害がでたのよ?」
男は自国が戦勝国であることを誇っていた。だから、小娘が政府の宣伝映画の出演を拒んだことに苦言を呈したのである。
政府はあらゆるメディアを駆使して新型兵器テルマ爆弾ゴールド号を美化し、それを敵国に投下したことを正当化した。
戦時中すらそこまでではなかっただろう論調で、新聞もポスターもかつての敵を罵倒し、貶める。
そんな偏向報道に違和感を持ち、啓発活動を始めたのは、意外なことに、被害にあった村人を気持ち悪がっていた都市部の一般大衆だった。
今やその勢いはすさまじい。
青年の村にはたくさんの専門家がピンクの防護服を着て視察し、誰もが政府の非道を結論づけるに達した。
あれから20年たったというのに、その地には草1本すら生えていないという事実に、大衆は驚愕した。
当時自国の戦闘機によく使われていた金属の成分が、土壌から検出される。
土に染み込んだ戦闘機のものと思われる機械油に、有害元素の反応がある。
政府派の新聞の講読者は減る一方で、政府を弾劾する論調の新聞が爆発的な売り上げをしめした。
皆同じ新聞を手にこう言うのだ。
「知らなかった……俺たちは騙されていたんだ!」
青年は無学だった。
世間というものを知らず、村の山々と黄金色の小麦に囲まれて暮らしていた少年は、農業のことにしか興味がなかったからだ。
代数など自分の子に教えてもらっていたほどである。
青年は世間の動向を知らぬまま、今でも自分の出生を明かしたら差別される、という前提の延長線上にあった。
明かして破滅するか、明かさず破滅するか、選択肢だけを頭のなかで転がしていた。
青年の持ち金が遂に尽きた日、公園の寂れたベンチで寝そべっていた青年に近づく人影が多数。
囁くような優しい声で、人影のうちの1人が青年に声を掛ける。
「……はじめまして。我々は地元のテレビ局のサンデーと申しますが、あなたがあの廃村の生き残り、ということでよろしいでしょうか……?」
生き残りの証言がない、ということが政府を批判する人々の悩みだった。村人のうちの働き盛りの男どもは政府に隔離されたのち毒ガスで処刑されたらしく、女子供は皆自害した、と伝えられていたからだ。
巷に流れる噂は、青年が握っていた新聞から火がついた。
テルマ爆弾の華々しい戦果を述べる新聞に、怒りを表す何者かの殴り書きがあったのを、バーのオーナーが見かけていたのである。
それに理容師の男の、青年が戦後という言葉に「苛立ち」を表したという証言が加わり、青年の与り知らぬところで反政府派にとって青年は垂涎の的になっていた。
もはや世間は青年にただの廃人であることを許さなかった。
優しくいたわるような口調で、青年からその一言を引き出そうとするリポーター。
固唾を呑んで見守る政府役人と青年の身柄を保護せんと早くも行動を始めた反政府派。
青年はリポーターの目に、隠しきれない好奇心を見た。
例えるなら有名人の不倫に散々罵っておいて、役柄上プレイボーイな人間が実際上堅実ならがっかりするような、いわゆる一般人の目であった。
青年は、重要な証人として祭り上げられることで、感覚的にはやり玉にあげられたのである。
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