60、心配も遠慮も

 あぁ、寝すぎたんだなとすぐにわかる気怠さを抱えたまま目を覚ました。

 喉はカラカラで体も重たくて、頭はスッキリしているはずなのにどこかフワフワとして。

 視線だけを動かしてカーテンの隙間を見ればまだ陽が差している。


「おはよっ」

「うん、おはよう。……おはよう?」


 心が安らぐ声に反射的に返してから脳がその違和感に気付くまで一瞬かかった。

 慌てて声がした方を見ると、ベッドの隣で揚羽がニコニコしながら椅子に座っていた。


「あ、揚羽!? なんで、鍵は、ていうか今何時!?」


 慌ててベッドから飛び跳ねる。

 部屋の時計を見れば、そろそろ14時になろうかという時間だった。


「インターフォン鳴らしても反応がなかったから帰ろうと思ったんだけど、鍵が開いてたから……入っちゃった」

「入っちゃった――じゃない! 不法侵入!」

「えへへ」

「褒めてない」


 母さんが開けっぱなしで出て行ったんだな。

 不用心極まりない。


 なぜか嬉しそうにしている揚羽を横目にボクは小さくため息を零しながら話を続ける。


「学校はどうしたの?」

「午前中の授業だけ受けて早退してきちゃった」

「サボったの? 試験前だっていうのに」

「ハルくんに言われたくないなぁ」

「うぐっ」


 何も言い返せない。


「それに、今日休んだ分ハルくんに勉強教えてもらうから大丈夫!」

「別にいいけれど……それで、学校を早退してまでどうしたの?」

「学校を休んだ彼氏の様子を見に来ただけだよ。大丈夫かなーって」

「だけって……」


 困ったことに、少しだけ嬉しいと思ってしまう自分もいる。

 そのことを表情には出さないでいると、きゅぅと小さく揚羽のお腹が鳴った。


「……揚羽?」

「もう、そこは聞こえてないフリをしてよ!」


 顔を真っ赤にして抗議してくる揚羽を見ていると、ボクも僅かに空腹感を覚え始めた。

 そう言えば今日はまだ何も食べていないんだった。


「ご飯まだなの?」

「うん。ハルくんと一緒に食べようと思って」


 そう言って、揚羽は鞄からお弁当箱を取り出した。


「とりあえず、下に降りようか。着替えるから先に行ってて」

「うんっ」


 たぶん、母さんが弁当を置いて行ってくれているはずだ。

 ベッドを降りてクローゼットを開ける。

 服を適当に選びながら、ボクは背後に向けて声をかける。


「着替えるから、先に、行ってて」

「……はーい」


 揚羽が廊下へ出ていくのを見届けてから、ボクは着替え始めた。


     ◆ ◆


「……それで、どうだった?」


 お昼ご飯を食べ終えてリビングのソファに横並びに座りながらコーヒーを飲んでいると、突然揚羽が訊ねてきた。

 なんのこと、と問い返す必要もなかった。


 すぐには何も言わずに、ボクは揚羽の顔を見る。

 彼女は静かに柔らかな笑みを浮かべてボクをジッと見ていた。


「……西条先輩は、別の人と付き合ってた」

「…………」

「…………」

「…………それだけ?」

「うん、それだけだよ」

「嘘」


 一言で、揚羽はボクの言葉を一蹴した。

 真剣な眼差しでボクをジッと見つめて来る。


「ハルくんがそれだけで学校を休むわけがないもん」

「それだけって、ボクにとっては結構衝撃的だったんだけれど」

「あたしもそうだよ。でも、それを確かめるためにハルくんは先輩に訊いたんでしょ? だったらハルくんがその結果で悩むことはあっても体調を崩すことなんてないよ」

「ボクは揚羽と同じでただサボったんだよ。体調を崩したわけじゃない」

「……ね、ハルくん。今日まだ一度も鏡見てないでしょ」

「え、うん。――っ、ちょっ、揚羽!?」


 ボクが頷くと、揚羽は何かを決意した様子でボクへの距離を詰めて座り直すと、突然肩に手を回してきた。

 そしてビックリするほど強引に上体を引き寄せられた。

 直後、ボクの頭を柔らかな感触が包み込む。

 それが揚羽の太ももだということはすぐにわかった。


 慌てて揚羽の顔を見上げようとすると、細くしなやかな両手で押さえ付けられた。


「み、見ないでっ」


 頭上から上擦った声が聞こえる。

 一瞬だけ見えた耳が真っ赤に染まっていることだけはわかった。


「その、なんで?」

「……前に、膝枕をしてあげるって言ったじゃん」

「そういえば、そんな話もしたけれどさ」


 ピクニックの時に、揚羽が冗談めかして膝枕をしてあげようかと訊いてきたとき、ボクはまたの機会にお願いすると言ってその場を濁した。


「ボク、お願いしてないけれど」

「膝枕して欲しそうな顔をしてたからいいのっ」

「どんな顔してたの……」


 鏡を見たい。

 でも、ボクの顔は揚羽の太ももの上から動かなかった。


 柔らかくて温かい。

 ……どうしてか、凄く胸はドキドキするのにどこか落ち着く感じがする。

 揚羽の指がボクの髪に伸びて、優しく梳かしてくる。


 頭上から小さくえへへとはにかむ声が聞こえた。


「……あのね、ハルくん」


 あまりの気持ちよさに、先ほどまでのやり取りをすべて置き去りにしてこの温もりに意識を委ねていると、揚羽が小さな、でもさっきまでよりもずっと近くで聞こえる優しい声で話しかけてくる。


「あたし、別に隠し事をやめて欲しいとか、嘘は吐かないで欲しいとか、そう言うことは思ってないの」


 穏やかな声で、優しく、優しく、自分に言い聞かせるような声。


「……ただ、もしあたしのために隠し事をしたり、嘘を吐いてるんだったらやめて欲しいの。あたしはハルくんを傷つけたくてあの日、あたしの中の好きを伝えたんじゃないから」

「…………うん」


 揚羽の言っていることが胸に突き刺さる。

 ボクだってそうだ。

 自分のせいで、自分のために、……そんなことで揚羽に傷ついて欲しくはない。


 ……揚羽に可憐のことを話さなかったのは、彼女がボクの初恋の相手が可憐だってことを知っているからだ。

 そんな彼女に可憐がもしかしたらボクのことを好きなのかもしれないと伝えるのが、嫌だった。


 だけど、たぶんボクたちにはそういう心配も遠慮もいらないのかもしれない。


 揚羽に優しく包み込まれながら、ボクは確かにそう思った。

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