58、初めての衝動
「……え?」
一瞬頭が真っ白になった。
西条先輩が何を言っているのかが理解できない。
言葉の単語単語の意味はわかるのに、それが文になったときに脳内で整理ができなかった。
辛うじて零した「どうして」という呟きを起点にしてなんとか疑問を引っ張り出す。
「西条先輩は……つまり、可憐とは別の女性ともお付き合いされているんですよね」
「そうだね」
「そうだねって、何を言っているかわかってるんですか!? 浮気をしているのに可憐との仲を取り持って欲しいなんて……ッ」
頭が熱くなる。
ただただ、何故そうなるのかが理解できなかった。
ボクが思わず睨みつけると、西条先輩は静かに見つめ返してきた。
数秒間、ボクたちは睨み合っていた。
その時間でボクもいくらか平静を取り戻した。
そんなボクの変化を目敏く見透かしたように、西条先輩が口を開く。
「本当なら今回のことは君たちには悟られないつもりだったんだ。相沢さん以外に知られたのは想定外だった」
「まるで、可憐になら知られることを想定していたという風に聞こえますけれど」
「その通りだよ。俺はそれを目的にしていたからね。相沢さんとは別の女性――七瀬と付き合っているのは」
西条先輩の浮気相手の名前なんてどうでもいい。
それ以上に衝撃的な事実がもたらされている。
「つまり、西条先輩は初めから可憐に浮気のことを知ってもらうために浮気をしていたと?」
「ああ」
「なんのために?」
ボクが訊くと、西条先輩は一瞬眉を吊り上げた。
しかしすぐにいつもの表情に戻ると、絞り出すように語り始める。
「……俺の気持ちをわかって欲しかったんだよ。俺を見て欲しかったと言い換えてもいい」
まるで今回の行動についての理由を説明するような声音で、西条先輩は言い切った。
けれど、ここまでの話を聞いてもピンと来ない。
西条先輩と可憐は付き合っているんだ。
そんなことをする必要はないはずだ。
ボクが困惑していると、西条先輩が今度は露骨に顔を顰めた。
それから全身を戦慄かせて詰問するような目を向けてきた。
「わからないのか。理解できないというのか、君が。俺がどうしてこんなことをしたのか、わからないと」
「……西条先輩も可憐もお互いを好き合って付き合っているんじゃないですか。なら、西条先輩が浮気なんて真似をしてまで俺を見て欲しいと思う理由がありません」
「――ッ、……るなッ、ふざけるなッ!」
「……っ」
険しい形相でボクとの間を詰め寄ると、突然襟元を掴んできた。
ふざけるなと、そう叫びながら。
「君が……彼女の好意を受けている君が、何もわからないなんて、そんな理不尽なことが……ッ」
「彼女の、好意……」
「ああそうだ! 相沢さんは君のことを好きなんだ! だから俺は、彼女の気を惹くためにこんなことを……ッ」
「可憐が、ボクのことを……?」
襟元を掴まれたまま衝撃の事実を突き付けられて困惑する。
そんなはずがないと口にしようとして、西条先輩の怒気を前に口を噤む。
黙り込んだボクに、西条先輩はどこか縋るような、それでいて自分に言い聞かせるような声音で言葉を続ける。
「彼女と付き合い始めてから、口を開けば彼女は君の話をしたよッ。最初は幼馴染だからだろうと、そう思っていたが……ある日気付いた。彼女が君のことを好きなんだって」
「……でも、もしそうだとしたら、可憐は西条先輩と付き合うわけが……」
あの日、河川敷で西条先輩と付き合うことを告げる彼女の表情が嘘だったとは思えない。
そうだ。だからボクは――。
不意に西条先輩が手の力を緩め、ボクは解放された。
西条先輩は握るものを失った手を強く握りながら、苦し気に吐き出す。
「……それは、彼女も自覚していなかったんだろう。だけど俺は君が相沢さんと付き合おうとするんじゃないかと疑った。……だから、初詣のあの日に俺は君と連絡先を交換したんだ。君のことを知るために」
「…………」
「そして君にその気がないことはすぐにわかった。だから相沢さんが俺のことを見てくれるまで待とうとした。……けど、いつまで経っても相沢さんの中には君がいる」
苦悩に満ちたその声に、ボクは言葉を詰まらせる。
どんな言葉を発せばいいのか。何を言い返せばいいのか。そもそも言い返せるのか。
可憐がボクのことを好きなはずがないと、そう言い返せないほどに西条先輩の言葉には鬼気迫る説得力があった。
だから、辛うじて西条先輩の行動についての言葉を絞り出した。
「……それで、可憐に自分を見てもらうために浮気を?」
「ああ。……仕方がないだろう? 誰だってそうするだろう?」
ボクに同意を求めるように訊いてくる。
西条先輩が語った話がすべて事実だったとして、西条先輩の今回の行動の理由をボクはようやく理解できた。
けれど、納得はできなかった。
「それでも、浮気はするべきじゃないです。可憐と話し合えばよかったはずです。なのに――」
「君に、君に何がわかる!」
「っ」
「好きな相手が別の男のことを楽し気に嬉しそうに愛おし気に話す、その話を聞かされた俺の気持ちが君にわかるものか!」
「――――――――ッ」
脳裏で何かが切れた音がした。
今まで生きてきて聞いたことのない音だった。
気が付くと、今度はボクの手が西条先輩の胸倉を掴んでいた。
西条先輩が驚愕の表情を浮かべる。
その顔を正面から睨み上げてボクは胸に湧き上がるこの衝動をそのままぶつけた。
「わかる、ボクだってわかるッ! それでもボクは、応援したんだ! 好きな人が好きな人と結ばれて、笑顔でいてくれてるならそれでいいって……! なのにッ、こんなのって……!!」
叫んでいるうちに怒りが悲しみに塗り潰されていく。
何かを間違えた。何かをすれ違った。何かを伝えられなかった。
心が急速に萎んでいく。
ボクは、呆気にとられたままの西条先輩の胸倉を話すと、彼に背を向けた。
ふらふらと立ち去ろうとする体をなんとか縛り付け、彼に背を向けたまま言い残す。
「……可憐には、せめて自分の口から伝えてください」
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