46、変化

 そよそよと山の風が全身を撫でていく。

 少し冷たいけれど、暖かな陽光が中和してくれる。


 自然の音と、遠くで子どもたちがはしゃぎ回る声。

 昼食を摂ってから、ボクと揚羽はレジャーシートに横になっていた。

 目を瞑っていると、耳に入る音全てが、全身を刺激するあらゆる刺激が、眠気へと誘う。


 この感覚は……あれに似ている。

 水泳の授業が終わった後に、落ち着いた声で淡々と教科書を読み進める先生の授業を受けている時のような。

 教室内に立ちこめる弛緩した空気。

 睡魔に抗うよりも目の前の幸福に身を委ねてしまう、そんな感覚。


 つまり何が言いたいかといえば、ボクはそのまま自然の中に溶けていった。

 意識が沈む直前に、すぐ隣から甘い香りが鼻腔をくすぐった。


     ◆


「ふんふふ~ん、ふふふ~ん~」


 優しい鼻歌が聞こえる。落ち着く音色だ。


 薄らと目を開けて横を見ると、木の葉の合間から注ぐ柔らかな陽光に照らされる揚羽の姿があった。

 横になっているボクと違って、揚羽はぺたんと座っている。


 下から見上げるのがなんだか新鮮で、ボクは思わず眺めていた。

 鼻歌のリズムに合わせて背で纏められたポニーテールが左右にゆらゆらと揺れている。

 いつも元気いっぱいの笑顔を浮かべている揚羽だけれど、今は穏やかな表情で遠くを見つめているみたいだ。


 その姿にドキッとさせられる。

 もう少し眺めていたかったけれど、それは唐突に打ち切られた。


「……クシュッ」


 突然鼻がむず痒くなって、反射的にくしゃみが出てしまった。

 当然揚羽もボクが起きていることに気付いたようで、嬉しそうな笑顔と共に「起きてたんだ」と声を掛けてきた。


 なんだか気恥ずかしい気持ちになりながら上体を起こす。


「うん、揚羽は起きてたんだ」

「二人とも寝るわけにはいかないじゃん。それに、あたしはハルくんの寝顔を見るので忙しかったから」

「……それ、ちょっと恥ずかしいんだけれど」

「あ、あたしも言ってて恥ずかしいからおあいこ!」


 真っ赤になった顔を背けながら上擦った声を上げる。

 微妙に残っていた眠気が熱と共に吹き飛んでしまう。

 火照った首元を押さえていると、元の調子を取り戻した揚羽が何かを企んでいる悪戯っぽい表情で話しかけてくる。


「ぐっすり眠れた?」

「普段よりはずっとね。どれぐらい寝てたかな」

「三十分ぐらいかな。気持ちよさそうだったよ」

「そんなに!? 道理で体が痛いわけだ……」


 気持ち良く眠れた分、レジャーシートを敷いているとはいえ草地の上で寝ていたからか微妙に体が痛い。

 首を回したりしてほぐしていると、微妙にこちらに体を寄せながら揚羽がポンポンと太ももを叩いた。


「枕になってあげよっか?」

「――――」


 膝枕をしてあげるという揚羽の提案に、一瞬固まってしまった。

 ボクも男だ。可愛い彼女の膝枕なら是非お願いしたい。


 とはいえ、問題が二つあった。

 一つはボクの睡魔が完全に飛んでしまったこと。

 そしてもう一つは、周りに人がたくさんいるということだ。


 ボクが答えを返さずに黙っていると、揚羽の表情がさらにからかうように緩んでいった。


 ……このままからかわれっぱなしというのは少し悔しい。

 どうせ揚羽のことだから、ボクが断るとわかっての提案だろう。

 そうしていつも戸惑うボクを見て楽しんでいるけれど、時折ボクがそうした提案を受け入れると真っ赤になって戸惑うのだからいい加減に学んで欲しい。


「……生憎と、もう眠たくないから遠慮しておくよ。膝枕はまたの機会にお願いしようかな」

「えっ、そ、それって……」


 膝枕の約束。そう、これはもう約束だ。

 いずれ必ず果たす約束。


 揚羽は口をパクパクさせてさっきまでのボクみたいに固まる。

 もちろん、ボクも同じだ。揚羽に仕返しをするためとはいえ、実は物凄く恥ずかしい。


 気まずい沈黙が訪れた後、ボクは言った。


「……あのさ、恥ずかしいなら揚羽も自重しなよ。ボクも恥ずかしいんだから」

「~~っ、しょ、性分なのっ」


 誰も得をしない性分だ。

 ……いや、まあお陰で膝枕の約束を取り付けることができたから、少なくともボクは得をしているのかも知れない。


 そう考えると揚羽の性分も悪いものではないと思った。


     ◆


 レジャーシートを片付けた後、ボクたちは広場の更に奥へと進んだ。


 広場の最奥には子どもの遊びスペースとなっている小さな小屋がある。

 その中には少し古いけれど色々なおもちゃが備え付けられている。

「遊んでいく?」と揚羽に言われたけれど、流石に丁重にお断りしておいた。


 木々が並び立つ細い参道を進むと、遠くから水音が耳朶を振るわせる。


 音のする方へ進むと、小さな池があった。

 池の中央には端から端までを繋ぐ橋がかかっている。


 周囲に人影はない。

 山を散策しているうちにたまたま辿り着くような場所で、普段から賑わってはいないのだ。


「あ、ハルくん。やっぱりまだあったよ!」


 揚羽の示す方を見ると、池の畔に小さな箱がある。

 一つ三百円で売られているのは、鯉の餌だ。


 昔相沢家と一緒に来たとき、ここで鯉に餌をあげたことがある。

 揚羽はその時のことを覚えていたのだろう。


「折角だしやってみる?」

「やる!」


 三百円を投じると、小さな茶色の餌がたくさん入った容器が出てきた。

 揚羽に手渡すと、彼女ははしゃぎながら橋の中央へと向かう。


「あ、見て見て! もう寄ってきてる!」


 人の気配を感じ取ったのか、まだ餌を投げ入れていないのに橋の真下には池の鯉が集まり始めていた。


「えいっ!」というかけ声と共に揚羽が餌を投げ入れると、途端に水面に鯉の口がいくつも現れる。

 色とりどりの鯉たちが水面に浮かぶ餌を我先にと奪い合っている。


「ハルくんもやろうよ!」

「うん」


 揚羽が差し出した容器に手を伸ばし、餌をいくつか手にとって投げ入れる。

 バシャバシャと水面を暴れ回る音共に、鯉の大きな口の中に投げ入れた餌が吸い込まれていく。


 子どもの頃はただ単に水面で暴れ回る鯉を見てはしゃいだものだけれど、今は揚羽と同じ景色を見て楽しめていることが何よりも楽しかった。

 そんなことを考えながら揚羽を見ると、目が合ってしまう。


「っ!」


 反射的にお互い顔を背け、そして再び水面に視線を落とす。

 訪れた沈黙を鯉たちがかき消してくれた。


     ◆


 鯉の餌やり体験をし終え、辺りを軽く散策してから元来た道を引き返していた。


 この池には先ほどまでいた広場を奥へと進み、木々が生い茂る細道を抜けなければ来ることができない。

 山道にも似たこの細道を進むぐらいなら、すぐ目の前にある山を登る人が多い。


 だから自然と人の気配は少ないわけだけれど、こうした場所を好む人も多くいる。

 自然が好きだけれど険しい山道を進むのは難しい老夫婦や、隠れんぼをしている子どもたちなんかとすれ違う。


「元気だねっ」


 真剣な表情で隠れ場所を求め走り回っている子どもの姿を見て、揚羽がそう笑いかけてきた。

 ボクは無言で頷き返した。


 子どもの頃、今よりも背は低くて、歩幅は小さかった。

 けれども無尽蔵に溢れ出る体力で広い世界を無邪気に走り回ることができた。


 あの頃よりも少し大人になって、背は伸びて、歩幅も大きくなった。

 少しだけ小さくなった世界を、ゆっくりと見て回っている。


 場所は同じでも、見える景色は違う。

 誰かと一緒なら、なおのことだ。


 広場に戻ってから花畑なんかを見て回っているうちに、いい時間になってきた。

 元々今回の目的はピクニックだったので、夕食までには帰ろうという話になっていた。


 自然、バス停に戻る流れになる。

 その前にボクは道から直接見えない位置に設置された公衆トイレに立ち寄っていた。


(今度山登りをしてもいいかもしれないなぁ)


 そんなことを考えながら外に出ると、視界の端、丁度公衆トイレの影に隠れる位置に立つ一組のカップルが目に留まった。


 スラッとしたモデル体型の茶髪の男性の体に隠れているけれど、向かい合う女性を抱き寄せて顔を近付けている様子から何をしているのか容易に想像できた。


 慌てて顔を背けて早々に揚羽が待っている場所に向かう。

 視線の先でボクに気付いた揚羽が手を振ってくれているのに返しながら、漠然と思った。


 いつか、ボクも揚羽とキスをするんだろうか――と。

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