43、雨
なんなんだろ。……好きって、なんなんだろ。
ハルの話を聞いていると、段々と自分の中で明確にあったはずの概念が崩れ去っていく気がする。
揚羽の――妹のどういうところを好きになったのか。
突然私がそれを訊ねると、ハルは少し考えてから、朗々と話してくれた。
ハルの中では、揚羽のどういうところを好きになったのかは自明のもので、結論が出ている。
私だってそうだ。そうだった。
西条くんのことが好きで、だから彼の告白を受け入れて、そして付き合うことになった。
――可憐は、西条先輩のどういうところを好きになったの。
……だというのに、私はハルの質問に答えられなかった。
ハルの話を聞けば聞くほどに、自分の中にある好きを疑ってしまう。
ふいと横目で隣を見ると、ハルが怪訝げに私を見ていた。
私はそれに気が付かない振りをして、そっと足を止めた。
ハルも、静かに立ち止まった。
ザーッザーッと、昔のテレビが壊れたときみたいな音が鼓膜に絶えず流れ込んでくる。
曇天を見上げて、そうして私は、まだ自分の中の好きが確固としてそこにあった頃を思い返す。
中学校に上がって少しして、私の周りでは次々と恋愛話が持ち上がった。
誰々がかっこいいとか、誰々が優しいとか、初めはそういう噂話。
それが更に時間が経つと、誰々と付き合い始めたとか、誰々が付き合ってるとか、そういう話が話題に上がってくる。
そうして決まって話はこう続いた。
『ね、可憐は好きな人とかいないの?』
私はそれに、「いないよ」と答えていた。
嘘ではなくて、本当に好きな人がいなかった。
一年生が終わって、二年生になっても。二年生が終わって、三年生になっても。
私の中ではそういう感情が湧き上がらなかった。
好きというのがどういう感情なのか、想像も出来なかった。
そんな私を嘲笑うかのように、周りは「好きな人ができた」「付き合い始めた」「別れた」と、恋愛話を繰り返している。
そうこうしているうちに卒業を迎えて、私は高校生になった。
入学して少しして、クラスの女の子たちが西条くんのことを噂しているのが耳に入った。
「カッコいい」「付き合いたい」
カッコいいってどういうことなんだろう。付き合いたいってどういうことなんだろう。
それは、「好き」ってことなんだろうか。
それが気になった私は、放課後にグラウンドに向かって、西条くんを見てみることにした。
これまで全く見たことも触れたこともないサッカーというスポーツ。
だけど、ボールを蹴ってグラウンドを駆け回る西条くんに、私と同じようにフェンス沿いに並んでいた女の子たちが「カッコいい」と声を上げて、私も「カッコいいなぁ」って思うようになった。
これが『好き』ってことなのかなと、今までに一度も抱いたことのなかった気持ちを抱けたことにドキドキもした。
そうして私は暫くの間、放課後になるとグラウンドを走る西条くんを時折フェンス越しに眺めていた。
そんな私に気付いていたのか、ある日いつものようにグラウンドのフェンス沿いに立っていた私に西条くんが話しかけてきて、そして何度か言葉を交わすようになって、告白されて、付き合うようになった。
嬉しかった。嘘偽りなく嬉しくて、この気持ちを誰かと共有したいと思って、だから私はハルに伝えたんだ。
……そう。あの時私の中にあったその感情は、確かに本物だったはずだ。
それが揺らぎ始めたのはいつだっただろう。
この半年間、見ないようにしてきたものと向き合う。
それに気付いたらダメだという予感だけがあった。
「……ごめん、変なことを訊いた。取りあえず帰ろうか」
沈黙に耐えかねたのか、ハルがいつも以上に優しい声音で気遣うように声を掛けてきた。
無言で頷き返すと、私を窺うようにして歩き出す。
一歩遅れて私も踏み出すと、視界にハルの背中が映る。
……ハルと初めて言葉を交わしたのは、いつだっただろう。どんな会話から始まっただろう。
あまりよく思い出せない。思い出せないほどに幼い頃から私たちは一緒にいた。
家が近所というわけではないのに、家族ぐるみの付き合いをするようになって、クリスマスなんかはハルがうちに来て一緒にクリスマスパーティを開いて過ごしていた。
私と揚羽とハル。学校の友達以上にずっと近くにいて、何をするにも三人で一緒にいた。
私にとっては家族のようなもので、弟のようで、兄のようで。
高校生になるまでの長い間私の中にあったその価値観が揺らぎ始めたのは、たぶん、西条くんと付き合い始めてからのように思える。
去年のクリスマス、思えばあれが私が初めて過ごしたデートだった。
一緒に映画を見て、買い物をして、ご飯を食べた。
楽しくなかったわけじゃない。
だけど、家に帰ってきてクリスマスパーティをしていたハルと揚羽を見て、楽しそうだなと思ってしまった。
ハルと揚羽が二人の時間を過ごしていることに、言葉に出来ない不安を覚えもした。
その不安がハッキリと現れたのは、初詣の時。
好きな人がいると、そう断言してみせた揚羽の言葉に私はドキッとした。
揚羽に好きな人がいることに動揺したわけではなかった。
妹の好きな人を想像して、ハルが思い浮かんだことに動揺したんだ。
「……さっきのことなんだけれど」
少し前を歩くハルが、躊躇いがちに話しかけてくる。
それは、とても気まずそうな声だった。
「これはボクの杞憂に過ぎないのかも知れないけれど、もし西条先輩とのことで何か悩んでいることがあったら……その、ボクなんかでよければ相談して欲しい」
雨音に乗って、ハルの声が入り込んでくる。
私に選択の余地を残してくれる、優しい声音。
もし私がなんでもない顔で「大丈夫」と言えば、ハルはもうそれ以上は何も訊かないでくれるという安心がある。
……ハルは、控えめに言ってもとても優しいと思う。
長い付き合いになるけれど、彼が本気で怒ったところをあまり見たことがない。
姉である自分でさえ時折苛々してしまう妹の――揚羽の我が儘にも、彼は渋い顔をしながらもなんだかんだでいつも受け入れていた。
きっと、たぶん、揚羽はハルのそういう所を好きになったんだろうと思った。
そう思うと同時に、自分の中で何かが腑に落ちた感覚を抱いた。
その正体が一体何であるかを理解するよりも先に、私は殆ど無意識に口を開いていた。
「……ねぇ、ハル」
足を止める。
私の口が零した小さな声は、ハルの耳に届いた。
私が立ち止まった気配を感じて、ハルが振り向いてくる。
その眼差しは柔らかく、でも少しだけ顔が強張っていた。
「あのね、これは聞き流してくれていいんだけどっ、もしね、私がハルに告白していたら――」
言いかけて、私が最後まで言うよりも先に口を噤んだのは、自分が言おうとしたことの卑劣さに気付いたからではなかった。
ハルが今まで見たことがないほどに怒った顔をしてキッと睨んできたからだ。
「可憐、悪いけれど今日はもう一人で帰るよ」
「まっ、ハル……!」
言うや否や背を向けて足早に立ち去ろうとするハルに慌てて手を伸ばすけれど、空を切る。
遠ざかるハルの背中を呆然と見届けながら、胸中では後悔が湧き上がる。
……どうして私、あんなことを。
自分でも理解できない。
だって私が好きなのは西条くんで、ハルはただの幼馴染みで、……そんなもしもに意味はないし意味を求めてもいけない。
なのに、今の私はハルに明確に拒絶されたことへの悲しみと、彼を怒らせてしまった自分の発言の浅慮さにいっそ怒りさえ抱いてしまう。
「わからない……、もう、わかんないよ……」
色々な感情がぐちゃぐちゃになって、何も考えられなくなってくる。
喉元に何かがこみ上げてきて、それが溢れ出そうになったとき、突風が吹いた。
「きゃっ……!」
傘が風に攫われて、傘地が骨組みごとひっくり返る。
最早、傘としての使命を放棄して、私の体に滂沱となった雨が降りしきる。
冷たい。けれど、どうでもよかった。
家に急いで帰ろうとも、傘をどうにかして直そうとも、鞄で雨を遮ろうとも、何もする気が起きない。
ただ、打ち付けてくる雨に比例して、私の思考はいやにクリアになってきて、それまでグチャグチャになっていた感情が纏まっていく。
――それが、自分の不可解な行動に対する答えだとわかっても、認めるわけにはいかない。
それを認めたところで、もうどうしようもないのだから。
……どれぐらい、そうしていただろう。
ザーッという雨音に紛れて、水溜まりを踏みながら歩み寄ってくる気配がした。
直後、私に降りしきっていた雨が突然途絶えた。
顔を上げると、眼前にハルがいた。
「……何してるの。そのままだと風邪引くよ」
少し罰が悪そうに僅かに顔を背けながら、ハルは傘を差しだしてきた。
「…………っ、っぁ」
やめて。優しくしないで。さっき怒らせたばかりなのに、どうしてそんなことができるの。
「可憐?」
ぼやける視界の中で、ハルが首を傾げて、それから慌てて顔を背けたのがわかる。
雨とは違う何かが、つーっと頬を伝った。
一度溢れた涙は、やがて堰を打ったように溢れ出す。
喉元までこみ上げていた嗚咽も漏れ出して、慌てて手で拭っても手遅れで。
その間無言で傘を差し続けてくれたハルに、私は嫌というほどに思い知らされる。
……あぁ、私、ハルが好きだったんだ。
今なら、理解できる。
ハルが言っていたことも、あの時友達が口にしていた言葉の意味も、この数ヶ月間抱き続けていたもやもやも。
だけど、今更それを理解したところで全てが手遅れだった。
そのことを自覚すると同時、更に雨は激しくなった。
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