第三章
38、幼馴染として
いつの間にか、教室の黒板の横にある掲示スペースに張られたカレンダーは一枚めくられ、五月の到来を突きつけてくる。
先月までは暖かな中にも僅かな寒気があったけれど、最近は時折暑く感じることが増えてきた。
来月には衣替えだなぁなどと考えていると、四時間目の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
起立、礼、という号令と共に、教室内にざわめきが戻ってくる。
ボクはといえば、教科書とノートを机の中に仕舞うと、脇にかけてある学生カバンから弁当箱の入った袋を取り出した。
周りで友達同士机を寄せたり、「どこで食べよー」「急げ、パンが売り切れる」などと会話するのを尻目に、ボクは立ち上がって教室を出た。
午前の授業から解放され、弛緩した空気が漂う廊下を進み、階段に差し掛かった。
屋上へと続く階段を上りながら、揚羽はもう来ているだろうかと考える。
答えは、すぐに示された。
扉を開けると、ポカポカとした陽気が全身を包み込む。
屋上の奥に設置されているベンチには、すでに揚羽の姿があった。
「お待たせ、揚羽。早いね、授業が終わってすぐに来たんだけど」
ボクが声を掛けると、膝の上に置いた弁当箱の包みをいじいじと触っていた揚羽がパッと顔を上げた。
「先生が休んだから自習だったんだよ。それで早めに終わったから」
答えながら、揚羽は隣を空ける。
ボクは何も言わずにいつものようにそこへ座った。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきますっ」
お互いに準備が整ったのを確認してから、手を合わせる。
包みをほどき、弁当箱を開けると慣れ親しんだ母お手製のご飯が現れた。
時折空をぼんやりと眺めながら食べていると、不意に揚羽がポツリと呟いた。
「ね、ハルくん。明日から毎日お弁当作ってこようか? ……ほら、あたし、ハルくんの彼女なんだし、さ」
やや照れながら、揚羽はそんなことを提案してきた。
揚羽お手製のお弁当。……中々に魅力的ではある。
とはいえ、ボクはその有り難い提案を丁重に断ることにした。
「気持ちは嬉しいけど、遠慮しておくよ」
「えー、どうして? ……あ、あたしが料理下手だと思ってるんでしょ! 名誉のために言っておくけど、ちゃんと食べれるものを作るぐらいのことはできるもんっ」
「その言い方は微妙に心配になるけれど、違うよ。朝早くから起きてお弁当を作るのは大変だろうからね。そのせいで揚羽が寝不足になるのが心配だよ。というか、彼氏彼女だからってお昼ご飯を作ってもってくるっていうのはなんだかやり過ぎな気がするかな」
ボクが言うと、揚羽は不満そうに頬を膨らませる。
「だって、あたしたちあれからカップルらしいことできてないじゃん!」
「……それを言われると返す言葉はないな」
ゴールデンウィーク中に晴れて付き合うことになったボクたちに、付き合う前と明確な変化があったかと言えば特に何もない。
一週間経ったというのに、恋人繋ぎさえあれ以来していない。
……なんというか、あの日はたぶん変なテンションでおかしかったんだろう。ボクも、そして揚羽も。
とはいえ、そこを責められると、男としては意気地なしで申し訳なくなってしまう。
不機嫌になる揚羽を宥めようと、矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「それに、さ。彼女の作ってくれたお弁当っていうのは、たまにだからいいんだよ」
「たまにって、例えばどういうとき?」
「……んー、そりゃあ、デート、とか? 今は丁度良い季節だし、ピクニックなんてのもいいと思うけれど」
ピクニックといえば、持参の弁当が定番のような気がする。
暖かい日差しの下、自然の中で食べるご飯はさぞかし美味しいだろう。
そんなことを考えていると、突然揚羽が意味ありげに「ピクニック……」と呟くと、手にしていた箸を置いて何やら考え出した。
流石のボクでも揚羽が何を考えているかぐらいはわかった。
……うん、少しぐらいは男気を見せておかないと愛想を尽かされてしまうな。
「揚羽、もしよかったらだけど週末ピクニックに行く? できれば揚羽の手作り弁当と一緒に」
「行く!!」
パッと笑顔を咲かせながら、即座に頷く揚羽。
その反動で弁当箱の上に置いていた箸が落ちそうになり、慌てて押さえている。
ボクは極めて平静を装いながら「気を付けなよ」と言ったけれど、内心では自然にデートに誘えたことに安堵して心臓がバクバクしていた。
「ハルくんって苦手なものなかったよね?」
ご飯を小さく掴み、口に含んで飲み込んだ揚羽が訊いてくる。
「うん、特にこれといった好き嫌いはないかな。強いて言えばゲテもの?」
「ハルくんはあたしをなんだと思ってるんだ」
ジト目で睨んでくるので「冗談冗談」と大仰に肩を竦めておく。
「じゃあ、とびっきりのお弁当作るね。……場所はどうしよう? 折角なら普段行かないところがいいよね」
「ボクが調べておくよ。誘ったのはボクだしね。決まったらニャインで連絡する」
「うんっ」
嬉しそうに頷く揚羽を見ながら、ボクも箸を進めた。
お互いに食事を終え、水筒に入っているお茶を飲みながらチャイムが鳴るまでの間ボーッとする。
屋上は、最近になってまた人が減った気がする。
わざわざ階段を上がってくるのが面倒くさいのだろうか。
ともあれ、ボクたちにとっては嬉しいことでもある。
時折カップルらしき男女が現れてはベンチに座って抱き合ったりしているのを見ると、付き合う前と後であまり変化がないボクたちはこのままでいいのだろうかと思ってしまう。
……けど、まあ、こうして一緒にいるだけで楽しいし、何よりボクたちは付き合っているという共通理解がこの時間を以前よりも一層特別なものにしているような気がする。
そんなことを考えていたら、不意にこの一週間放置していた問題が脳裏に湧き上がってきた。
「そういえばさ、ボクたちのこと、可憐にはもう言ったの?」
「お姉ちゃん? ううん、言ってないよ。あたしたちのことは誰にも言ってないかな」
「そっか……」
「あ! 別に隠したいとか、そういうのじゃないよ? ただ、なんていえばいいんだろ……、なんとなく、話しづらいんだよね」
「大丈夫、わかるよ。ボクも誰にも言ってないし」
「んー、まあ、それもあるんだけど……」
ボクが同意してみせると、揚羽は複雑な面持ちで顔を逸らしながら小さく呟いた。
その呟きの意味はよくわからないけれど、ともかくこのままというのもどうにも罰が悪い。
いずれボクたちの関係は必ずバレてしまうだろう。
その時になってボクたちが付き合い始めたことを言うのは少し申し訳ない気がする。
とりわけ、ボクなんかは可憐から直接西条先輩と付き合うことを伝えられたのだ。
だというのにボクがずっと何も言わないでいるのは不義理だろう。
「……うん、やっぱりこのまま何も言わないのも変だよね。あたし、今日帰ったらお姉ちゃんに言うよ」
逡巡する素振りを見せてから、揚羽は意を決したように顔を上げた。
その申し出は有り難いけれど、ボクは小さく首を横に振った。
「いや、ボクが伝えるよ。幼馴染みとしてね」
「っ、無理してない?」
揚羽が気遣わしげにボクを覗き込んでくる。
彼女には、ボクの初恋が可憐であることはとっくの昔に見抜かれている。
だからこそ、そんな初恋相手に彼女ができたことを伝えることが辛くないか、と案じてくれているんだろう。
その優しさに感謝しながらも、ボクは気付けばベンチの上に置かれた揚羽の手に自分の手を重ねていた。
「してないよ。それに、ボクの彼女は揚羽だろ? 今のボクが好きなのは揚羽だ。だから、大丈夫だよ」
「……っ、ぅ、うん」
揚羽の目を見て、ボクは真っ直ぐに伝える。
彼女に女性関係で気を遣わせるのは、彼氏失格だ。
だから、もう二度とそんな気遣いを抱かせないようにハッキリと告げる。
互いに視線を交わして見つめ合う。
やがて、揚羽が不意に顔を逸らすと、空いている手で口元を押さえた。
「そ、その、ハルくん……、周りに人がいるんだけど」
「っ、あ、ご、ごめん!」
揚羽に指摘されて周りを見ると、ちらほらと屋上にいた人たちがボクたちの方を窺うようにチラチラと見ていた。
慌てて飛び跳ねるようにして揚羽から手を離す。
一気に顔が熱くなるのを覚えながら揚羽と逆方向を向いていると、隣から小さな空咳と共に揚羽が声を出した。
「それじゃあ、あたしたちのことをお姉ちゃんに伝えるの、ハルくんにお願いするね?」
「うん、任せて」
丁度、授業開始五分前を告げるチャイムが鳴る。
ボクたちはそのままベンチを立つと、階段の方へと向かう。
すると、前を歩いていた揚羽が不意に振り返ってきた。
「あ、ハルくん」
「ん?」
「ピクニックのこと、忘れないでねっ」
悪戯っぽく笑う揚羽に表情が緩んでいることを自覚しながら、ボクは「もちろん」と頷き返した。
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