20、高校受験の不安と重圧
検査も無事問題なかったということで、翌日の夜には揚羽は自宅に戻っていた。
丁度月も変わり、三月に入った。
いよいよ受験の日も近く、揚羽の勉強もラストスパートを迎えていた。
幸い、怪我をしたのは右足だったので日常生活に多少の支障はあっても、勉強自体は何不自由なくできているようだ。
これで怪我をしたのが右手とかだったら洒落にならなかった。
その点は揚羽自身も痛感しているのか、退院してからしばらくの間、平素の元気はすっかり鳴りを潜めていた。
だが、それも一週間経つとすっかり風化したようで。
三月七日。試験を五日後に控えたこの日、ボクは揚羽に呼び出されて――正確には可憐のニャインでメッセージが送られて――相沢家に足を運んでいた。
チャイムを押す。
家の中でチャイムの音が鳴り響き、二階から「はーい」という揚羽の元気な声が聞こえてきた。
ゆっくりと階段を降りる音がしてから、玄関のドアが開かれた。
「お待たせ、ハルくん!」
右足を庇うようにして現れた揚羽に、ボクは不満の声を上げる。
「別にそのことはいいんだけど、休日にいきなり呼び出されたことについては納得してない。しかも用件も聞いてないし」
可憐のメッセージには、『揚羽が家に来てって言ってるんだけど、来れる?』としか書かれてなかった。
用件を訊いても、可憐も知らない様子だったのだ。
まあ、それでほいほい行くボクもボクでどうしようもないけれど。
揚羽はおどけた笑みを零すと、「まあまあ、細かいことはいいじゃん」とあくまでとぼけてみせた。
ボクはといえば、やっぱりそれ以上揚羽を問い詰めることはせず、嘆息を漏らしながら相沢家の中へ足を踏み入れた。
◆
相沢家はしんと静まりかえっていた。
ボクは揚羽に案内されるままに階段を昇りながら、手すりを掴んでひょこりひょこりと上がっていく揚羽に訊いた。
「可憐やおばさんは?」
「お姉ちゃんはデート。お母さんはPTAの集まり」
「なるほどね」
ボクが頷くと、揚羽は階段を昇りきったところで立ち止まった。
ボクは階段の途中から、揚羽を見上げて首を傾げる。
「揚羽?」
「どうしてハルくんを呼んだか、だったよね」
「う、うん」
「お姉ちゃんの代わりに勉強を見てもらおうと思ったんだよ」
ボクの方を見ることなく言った揚羽の声音は、僅かに震えていた。
そのことを指摘するよりも先に、揚羽はまた歩き出した。
慌てて追いかける。
長い付き合いになるので、ボクも揚羽も互いの家のことは知りつくしている。
揚羽は彼女の部屋の前で止まると、そのままゆっくりと扉を開いた。
揚羽に続いてボクも部屋の中に入る。
甘い香りが鼻腔をくすぐる。
室内は女の子らしいぬいぐるみやら装飾品で埋め尽くされていた。
奥の窓際には小さな本棚が置かれて、そこに少女漫画やらが収められている。
その左側にベッドがあって、ぬいぐるみや何かモコモコしたものに混じるようにして、松葉杖が立てかけられていた。
部屋の中央にはピンク色のカーペットが敷かれて、その上に丸テーブルが置かれている。
そしてベッドと丁度反対側には、よくある勉強机がある。
机の上をチラと見ると、ノートと教科書が開かれて置かれていた。
「ちょっと待っててね。飲み物とってくるから」
「いいよ、足怪我してるんだし」
「大丈夫大丈夫!」
そう言って、揚羽はボクを置いて部屋を出て行った。
……仮にも、というか好きな男を自分の部屋に一人で残らせないで欲しい。
不用心にもほどがある。
いや、まあ何もしないけれど。
手持ち無沙汰になったボクはその場で立ち尽くすのもあれだったので、部屋の中央に腰を下ろした。
可愛いキャラクターのクッションが置いてあるけれど、なんだか押し潰してしまうのが申し訳なかったので直に座る。
勉強机の上の壁にかけられているカレンダーを見ると、三月十二日が赤丸で囲まれていた。
淀岸高校の試験日だ。
ボクもこれぐらいの時期は、可憐と同じ高校に行こうと頑張ってたっけ。
もちろん、家から通える高校だったのも選んだ理由の一つではあったけれど。
「お待たせー」
お盆にマグカップを二つとルマ○ドの袋を載せた揚羽が戻ってきた。
揚羽は丸テーブルの上にお盆を置くと、躊躇なくキャラクッションの上に座った。
差し出されたマグカップを受け取って、一口含む。
はちみつレモンだった。
体の奥がじんわりと暖かくなる。
もうすぐ春とはいえ、まだまだ寒い。
「それで、ボクは何をしたらいいの? ボクなんかに教わる段階ではもうないと思うんだけど」
ボクが言うと、揚羽は微笑した。
「んー、まあそれは建前だから。本音はハルくんにいて欲しかっただけ」
「どうしてボクが」
「目標が間近にあった方がやる気がでるでしょ?」
「……?」
揚羽の言っていることの意味がいまいちわからなかった。
ボクが顔を顰めていると、揚羽は「もー」と不満そうに唇を尖らせる。
「あたし、こう見えて結構不安なんだよ? 落ちたら終わりだもん」
「大袈裟に考えすぎだよ。別に高校に落ちたから死ぬってわけじゃないんだし」
珍しく本当に不安そうにしている揚羽を元気づけるためにそう言った。
確かにボクも中学生の頃は受験が全て、志望校に受かることが全てだと思っていたけれど、あの頃よりも少し年をとってみてわかったことがある。
別に高校はどこに行っても大して変わらない。
大学受験でやり直せるし、大学に落ちても人生がそこで途切れるわけじゃない。
少し広い世界を見えるようになって、狭い世界で必死に生きていた昔の自分が少し滑稽に見えることもある。
一年しか変わらないけれど人生の先輩としてアドバイスをしたら、しかし揚羽は首を横に振った。
「今のあたしにとってはハルくんと一緒の高校に通うのが全てだもん。落ちちゃったら終わりだよっ」
「…………」
その言葉に、大袈裟なと言おうとした口が上手く開かなかった。
確かに。ボクもあの頃可憐と同じ高校に通うために必死に勉強した。
今にして思うと本当に滑稽だけれど、当時は必死だったんだ。
それを知っているからこそ、揚羽の言葉を否定できなかった。
ボクが黙っていると、揚羽はえへへと照れ笑いを浮かべた。
「ま、だからハルくんが後ろにいれば不安も少しは紛れて勉強に集中できるかなって。……迷惑だった?」
「……まあ、今日は特に予定なかったから」
そう言って、揚羽の許可を得て本棚から適当な小説を掴んで丸テーブルの前に座り直した。
ボクが本を開いたのを見て揚羽は立ち上がると、勉強机に座った。
文章から視線をあげて、勉強をする揚羽の後ろ姿を見やる。
僅かに見える真剣な横顔に、ボクはたぶん、夢中になっていた。
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