19、突然の連絡

 この半月間、慣れ親しんだチョコの甘ったるい味が口内に広がる。

 最後の一欠片。ラスボスを倒す瞬間のようにじっくりと味わってから、マグカップに注がれているコーヒーで流し込む。


「はー、なんとか食べきったぁ」


 二月二十九日。なんとか月が変わる前に、バレンタインデーの日に揚羽から貰った巨大チョコを食べきることに成功した。

 なんともいえない達成感のようなものが湧き上がる。


 特にこの一週間は、試験勉強のお供として常時チョコを食べていた気がする。

 よく食べきったと自分でも思う。


 もうしばらくチョコはいいや。


 その場で軽く伸びをしながら立ち上がって、後ろにあるベッドに倒れ込む。

 試験勉強からも解放されたし、今日は少しダラダラしよう。


 そう思いながら目を瞑った瞬間に、勉強机に置いてあったスマホがピコンと音を立てた。

 緩慢な動きで起き上がって、スマホの画面をつける。


 可憐からのニャインだ。


「――!」


 メッセージには、『揚羽が怪我をして入院することになった』と書かれていた。

 その文言を確認した瞬間、ボクはコートを羽織って部屋を飛び出していた。


     ◆


 自転車を全速力で走らせて、可憐から揚羽が入院していると送られてきた国道沿いにあるこの辺りでは最大の病院に駆け込む。

 受付で部屋を訊いて、早足でその病室に向かい、ドアをノックした。


「はーい」


 部屋中から、呑気な声が返ってきた。

 と同時に、ドアを開く。


「揚羽ッ」


 焦燥と共に、ここが病院であることを忘れて室内に向けて叫ぶ。

 そんなボクとは対照的に、部屋のベッドに座っていた揚羽が明るく不思議そうに返してきた。


「あれ? ハルくん。そんなに慌ててどうしたの?」

「……へ?」


 ベッドに座る揚羽はケロッとした様子で元気そうだったから、思わず力抜けした。

 切れた息を整えながら、病室内に入る。


「揚羽、え? だって、可憐が、怪我をしたって」


 息も絶え絶えに、途切れ途切れになりながら声をあげる。

 すると揚羽は気まずそうに苦笑した。


「うん、怪我したよ。ほら」


 そう言って、揚羽は自分の右足を僅かにあげて見せた。

 足首辺りが包帯でグルグルに巻かれて、固定されている。


 事情が掴めずにいるボクに、揚羽は続ける。


「いやぁ、今朝階段を踏み外しちゃったんだよ。その時頭も軽く打っちゃったから、念のため一日検査入院することになっちゃった」


 えへへーと照れ隠しのように笑う揚羽に、ボクは力なく笑いを零す。

 ここに来るまでの激しい運動のせいか、膝が笑った。


「じゃあ、別に大きな怪我とかじゃないんだね」

「うん。今のところ、全治三週間の捻挫だけ」

「なんだ、よかった……」


 噛みしめるように呟きながら、ボクはベッドの脇にある丸椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。

 額ににじみ出た汗を拭い、息を整えるボクをしばらく見ていた揚羽は、きょとんとした表情で訊いてきた。


「もしかして、心配してくれたの?」

「なに言ってるんだよ、心配するに決まってるだろ? 可憐からメッセージが来たときは本当に焦ったんだから」


 可憐も可憐でもう少しこう、上手く伝えてくれたら良かったのに。

 怪我をして入院するなんて言われたら、誰だって勘違いする。


「なんにしても、大事がなかったようで安心したよ」


 全力で自転車をこいできたからか、体が熱い。

 思い出したようにコートを脱ぐ。


 揚羽に背を向けて、背後に置いてあったハンガーラックにコートをかけた。


「っ、揚羽……?」


 そうしていると、裾をくいと摘ままれた。

 肩越しに揚羽を見る。


 揚羽は唇をキュッと引き結ぶと、ボクの呼びかけに応じることなくただ黙っていた。

 少しして、揚羽は掴んだボクの裾から手を離すと小さく呟いた。


「……ありがと」


 何に対する感謝の言葉なのか判然としなかったボクは、曖昧に頷き返した。


     ◆


「じゃあ、本当にただの捻挫だけなんですね」


 あの後、家から入院用の荷物を取りに行っていた可憐とおばさんが戻ってきた。


 おばさんの話を聞いて、ボクは今一度安堵する。


「春人くんからも言ってあげてちょうだいよ。この子ったら、階段を降りながら単語帳を見てたのよ? いくら来月受験だからって、それで怪我をしてちゃ本末転倒よ」

「本当、心配したんだからね」


 おばさんの叱責に、可憐も眉をしかめて乗っかかる。

 ベッドの上で、揚羽はしゅんと肩を落として「ごめんなさい」と弱々しく言った。


 ……流石にこれ以上の追撃は可哀想だよなぁ。


「でも、全治三週間の捻挫ってことは、受験の日は松葉杖ですか?」

「ええ。幸い高校までは近いから、可憐に付き添って送ってもらうわ。本当はお父さんに車で送ってもらえたらよかったんだけど、その日泊まり込みなのよね」


 相沢家から淀岸高校までは、歩いて二十分ほどのところにある。

 近所に位置するボクの家からもちょうどそのぐらいだ。

 松葉杖で歩くとなるともう少しかかると思うけれど、仕方がない。


 窓の外を見ると、すっかり暗くなり始めていた。


「じゃあ、ボクはそろそろ帰ります」

「本当、ありがとうね」


 おばさんに会釈しながらコートを羽織る。

 ドアの前に向かったボクは、一度立ち止まるといまだベッドの上でしゅんとしている揚羽に笑いかけた。


「お大事にね、揚羽。受験勉強もいいけど、ほどほどに」

「……うん」


 揚羽は一度ボクを見ると、ぷいと顔を背けて小さく頷いた。


 おばさんに怒られて凹んでいるのだろう。

 あれで揚羽は結構気にするからなぁ。


 病室を後にして、リノリウムの廊下をゆっくりと歩く。


 駐輪場に停めてある自転車に乗ると、どっと疲れが押し寄せてきた。

 明日は筋肉痛だなぁ、間違いなく。


 早くもじんわりと痛み出した両足に、自分の体力のなさを突きつけられたようで苦笑しながら、ボクは家路を急いだ。

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