17、一つ目のチョコ

 バレンタインデー当日。

 朝からクラス内はどこか浮ついた空気があった。


 周囲を窺いながら、「俺、全然期待してねーし」的な雰囲気を漂わせながらも席に着くと同時に密かに机の中に手を入れる者もいれば、「今年もチョコなしかー!」と、机の中に何も入っていないことを笑いのネタにしている者もいる。

 女子が入ってくるたびに微妙に空気が引き締まっているような気がするのは、たぶん気のせいじゃない。


「おはよー」


 そんな中、遅めに教室に入ってきた可憐がクラス内に挨拶をする。

 例年ならば可憐からのチョコに期待する男子たちも、今年はそんな素振りはみせない。


 可憐がサッカー部のエース、西条徹と付き合い始めたことはすでに万人の知るところだ。

 彼氏がいる女子にまでチョコを欲しがる男子はいないだろう。


 ボクはそれ以上考えるのをやめて、机に突っ伏した。


     ◆


 午前中の授業も終わり、昼休みとなった。

 生徒たちは思い思いに食堂や購買へ向かったり、持参した弁当を手に中庭に向かったりしている。

 かく言うボクもカバンの中から弁当箱を取り出して教室を後にした。


 ボクは友達が多いというわけでもないけれど、特別いないというわけでもない。

 休み時間に話す友達はもちろんいる。

 けれど、これまで昼休みは可憐と一緒に食事をとっていたので、いまさらどこかのコミュニティに入るのも躊躇われた。


 学年があがったら、誰かに声を掛けてみよう。

 この学年も、残すところあと二週間と少しだ。


 一年生の教室がある四階から、屋上へ通じる階段を上る。

 最近では安全上の問題で屋上に入る扉が施錠されている学校も多いらしく、我らが淀岸高校もその例に漏れず、普段鍵がかかっている。

 とはいえ、現在生徒会が屋上を開放するように訴えかけているようなので、そのうち変わるかもしれない。


 屋上に通じる扉の手前の踊り場に腰を下ろして、一息ついてから弁当箱を開いた。

 パンパンに詰められたご飯を一口食べてから、ミニハンバーグに箸を伸ばす。


 ……なんというか、一人で食べるのも悪くない気がする。

 周りには自分以外誰もおらず、先ほどまでいた教室や校庭の喧噪が、別世界のように遠く聞こえてくる。


 人間、こういう時間も大事なのかもしれないなぁ。

 最近揚羽とばかり一緒に居たからか、余計にそう思ってしまう。


「あ、いたっ」


 そんな風にしみじみと思っていたボクの鼓膜を、階段の反響と共に可憐の声が静かに揺らした。

 左手を手すりにかけながら、ゆっくりとボクの方へ一段ずつ昇ってくる。


 ボクは口に含んだ卵焼きを咀嚼し終えてから口を開いた。


「どうしたの、こんなところに。西条先輩は?」

「西条くんは、女の子に囲まれて大変そうだったから……」

「女の子?」

「ほら、今日バレンタインデーでしょ? だから、チョコを渡す子がたくさんいて」

「へぇ……」


 確かに西条先輩ほどにもなれば、それこそ数え切れないほどのチョコを貰ってそうだ。

 けれど、それは去年までの話だと思っていた。


 可憐に彼氏ができたことが学校中に広まっているということは、同時に西条先輩に彼女ができたことが広まっていると言うことでもある。


 ……普通、彼女ができた男子にチョコを渡すだろうか。

 まあ、義理とかそういうのもあるんだろうけれど。


「それで、行く当てがなくなったからボクを探していたってところ?」

「うん、それもあるんだけど。ほら、まだ渡してなかったでしょ?」


 そう言って、可憐は右手に携えていた小さな保冷バッグの中から手のひらサイズの透明な袋を取り出した。

 口は赤色のリボンで結ばれて、中にはチョコクッキーや生チョコが入っている。


「はい、あげる。義理だからねっ」

「わかってるよ。ありがとう」


 苦笑しながら受け取る。

 可憐は「うん」と頷くと、ボクの隣に腰を下ろした。


「一人なんだ」


 保冷バッグの中から小さな弁当箱を取り出しながら、可憐が言ってきた。


「いまさら他の人とお昼を食べるなんてハードルが高いよ」

「……ごめんね」

「どうして謝るの。可憐は悪くないって。これはボクの問題だよ」


 ボクがもっと強引にでも他の人の中に入っていこうとすればいいだけの話なんだから。

 それでも申し訳なさそうにしている可憐に、ボクは訊く。


「そういう可憐こそ、他の子と食べないの? あんまりボクと一緒に居ても、勘違いされるでしょ?」

「それはそうなんだけど、ね」


 曖昧に応じると、可憐は僅かに顔を顰めた。

 その表情の意味がわからなくて見つめていると、途端に「そ、そうだっ」と可憐が顔を上げた。


「揚羽のこと、聞いてる?」

「ん、特に聞いてないけど」


 もしかしてとびっきりのチョコをくれるという話だろうかとも思ったけれど、可憐がそれを知るはずもないのでやっぱり聞いていないようだ。

 ボクが言うと、可憐は面白そうに笑った。


「今日の朝ね、キッチンで凄いチョコを――」

「あー、やっぱりいいや。それ以上は聞かないでおく」


 嬉々として話そうとした可憐を遮る。

 やっぱりチョコの話だった。


 揚羽のことだ、ボクを驚かそうと頑張っているに違いない。

 事前に情報を入手しておくとその驚きが薄れてしまうかもしれないので、それは避けたかった。


 ボクが遮ると、可憐は少し驚いたように目を見開いて、それからふっと顔を伏せた。


 視線はたった今開かれた弁当箱の中に注がれているけれど、そこを見ているわけではないと雰囲気からわかった。

 けれど、黙ったまま何も話そうとしないので、ボクはご飯を口に運ぶ。


 遠くから、吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。

 校舎裏で、三年生が下級生たちに教えているんだろう。

 卒業を間近にして、何かを後輩に託そうとしている。


 やがて。

 可憐は恐る恐るといった様子で俯いたまま口を開いた。


「ねぇ、ハルって――」


 その時、昼休みが残り十五分であることを告げるチャイムが鳴り響き、可憐の言葉が遮られる。

 パッと顔を上げた可憐と顔を見合わせる。


 またしても俯いた可憐は、慌てた様子で箸をとると「も、もうこんな時間っ、急いで食べないと!」と昼食をとり始めた。

 黙々と食べる可憐を横目に、ボクもまた残りを食すことにした。


 久しぶりに可憐と二人きりになった気がする。

 けれど、なぜかボクの中に浮ついた気持ちはなくて、ただ心のどこかで寂しさのようなものを感じていた。

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