16、義理と本命

 年も明けて、あっという間に冬休みも終わった。

 当然、ボクと可憐は高校に行かなければならないわけだけれど、揚羽は違う。


 今年受験生の彼女は、三学期からは自由登校になっている。

 この間にどれだけ勉強できるかが、高校に合格できるかの大きな分かれ道になる。

 そんなわけで、可憐に聞くところによるともの凄く頑張っているそうだ。


「ただいまー」


 特に部活に所属していないボクは、一日の授業が終わって早々に家へ帰っていた。

 玄関の扉を開けながら家中に帰宅の挨拶をする。


「ん……?」


 両親の靴がないことを確認していると、家族以外の、それも見慣れた靴があることに気付いた。


 この靴って確か、揚羽のだったよな。


 記憶を探りながら靴を脱いで玄関を上がる。

 リビングに入ってすぐに、ボクは嘆息した。


「おかえりー、ハルくん」

「どうして揚羽がここにいるんだ」


 リビングの床に座ってローテーブルに教科書やノートを広げていた揚羽が、顔だけをこちらに向けてきた。


 ボクはカバンをソファの脇に置くと、キッチンへと向かう。

 そんなボクの背中に揚羽の返答が飛んでくる。


「いやー、ここ暫くずっと勉強してて煮詰まってきたんだよね。それで気分転換にハルくんの所に来たの」

「気分転換って、ボクはアミューズメントパークか。あと、その煮詰まるっての誤用だから」


 ボクが指摘すると、揚羽は「えっ、嘘!?」と何やらノートをめくり返している。

 国語の勉強でもしていたのだろうか。


 手を洗いながら訊ねる。


「母さんは?」

「んー? 揚羽ちゃんがいるなら安心ねって、買い物に行ったよ」

「大丈夫か、うちの母さん……」


 長い付き合いとはいえ、他人に家の留守番を任せるなんて。

 思わずため息を零しながら揚羽の方へと歩み寄る。


「それで、どんな感じなの? 可憐からは頑張ってるって聞いてたけど」

「ハルくん、あたしから一つありがたいお言葉を授けてしんぜよう」

「きゅ、急になに!?」


 ふっふっふと怪しげな笑みを零しながら、揚羽が言い放つ。


「受験はね、受かるか受からないかじゃないの。受かるんだよ!」

「んん? ……うん」


 たぶん、できるかできないかじゃない、やるかやらないかだ――という昔からの名言をもじったんだろうけれど、微妙に意味が可笑しいような気がする。


 ……まあいいや。

 揚羽は満足そうにしていることだし。


 ネクタイを緩め、首元の第一ボタンを外しながら揚羽の対面に腰を下ろす。


「出願っていつだった?」

「来月の下旬。……バレンタインデーの翌週あたり」

「あー」


 そういえばそうだったなと、自分が受験生だった頃のことを思い返す。

 あれから一年しか経っていないのに、随分と記憶が薄れている気がする。


「ん、なに」


 なぜか揚羽はむっとした表情でボクのことを睨んでいる。

 今のやり取りに怒らせるようなことがあっただろうか。


 ……うん、ないと思う。


 ボクが当惑していると、揚羽は「そーだよね。ハルくんに期待したあたしがバカだったよね」などと呟いてから、ローテーブル上のカレンダーを掴んで一枚捲ると、ずいとボクに向けて突き出してきた。


「この日、なんの日」


 フレーズ的に、大手のCMで流れた木をモチーフにした曲が流れた。

 それはさておき。


 揚羽が指差しているのは、二月十四日。


「バレンタインデー」

「そっ、バレンタインデー! ハルくん予定空いてる? 空いてるよね!」

「普通に学校だよ、学校。その一週間後には学年末考査もあるんだし」

「そんなぁ……」


 その場に昼ドラさながらに崩れ去る揚羽。

 バレンタインかぁ。


 毎年ボクにチョコをくれるのは母さんと揚羽と可憐の三人だけだったなぁ。

 そのどれも義理だったんだけれど。


 ……いや、揚羽の場合は違ったのかな。


 そんなことを考えていると、カレンダーを置き直した揚羽が神妙な面持ちで訊いてきた。


「ね、ハルくんさ。今まで本命チョコって貰ったことある?」

「……ない、かな」


 曖昧に答えたのは、揚羽の真意がわからなかったから。


 ボクの返答に、揚羽はにっと少年のような笑みを浮かべると、ふんっと立ち上がった。

 そのままボクのことを見下ろしながら告げる。


「じゃあ、楽しみにしててね! ハルくんが学校から帰ってきたら、とびっきりの本命チョコをプレゼントしてあげるから!」

「……いや、そんなことより勉強した方がいいんじゃ」

「そんなことじゃないの! 六年分の本命チョコを渡してやるんだからね、覚悟しててよ!」


 ビシッと指差しながら気合いの入った声を上げる揚羽を、ボクは呆然と見上げる。

 ああ、今までのは義理チョコなんだとか、勉強はいいのかなとか、色々なことが脳裏を過ぎった。


 けれどその前に、ボクは揚羽に言わなければならないことがあった。


「ハルくん……?」


 揚羽と同じように立ち上がったボクを、彼女は訝しみながら見上げてくる。

 そんな揚羽の瞳を、真っ直ぐに見つめる。


「念のために言っておくけど、揚羽から本命チョコを貰ってもボクの気持ちは変わらないよ。今のボクには、まだ誰かを好きになるつもりはないし、付き合いたいとも思っていないから。だから、揚羽の望む返事をボクは与えることができない」


 それならば、今までどおり義理チョコで十分だと、伝えたのだけれど。

 なぜだか揚羽は嬉しそうに微笑んだ。


「まだ、でしょ? 今はそれで十分だよっ。ハルくんが他に好きな人ができるまで、あたし、諦めないから! それに、感情は理解できるものじゃないもん。いつあたしの魅力に気付くかもわからないでしょ?」


 そう言って、揚羽は不格好にグラビアっぽいポーズをとってみせる。


 ……揚羽の魅力に、たぶんボクはとっくに気付いている。

 いつでも明るくて、ポジティブで、自分を持っていて。


 そんな彼女が自分なんかのことをここまで思ってくれていることも嬉しい。

 けれど、だからこそボクには理解できなかった。


 優柔不断で、自分から何も行動できなくて、そんなボクの一体どこを好きでいてくれているのか。


「……ねえ、揚羽。揚羽はさ、どうしてボクのことを好きになったの」


 思わず、訊いてしまった。訊くつもりがなかったのに。

 するりと口からこぼれ落ちた疑問に、揚羽は一瞬目を丸くしてから、彼女には珍しい慈愛に満ちた笑みを湛えた。


「それはね――」


 言いかけて、今度は悪戯っぽい笑みを浮かべる。見慣れた、彼女らしい笑顔だ。

 揚羽はその場で半回転すると、ボクに背を向けたまま音符を奏でるような声音で言った。


「ハルくんが、あたしのことを好きになったら教えてあげるっ」

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