暗い影の落ちる家。人が住んでいるのかさえ疑いたくなるようなほど瞑がりにそびえ立つそれは、いつ整えたとしれぬような好き放題に草の伸びた庭の中にあった。

「ただーいま」

ニッコリと笑って。この戸をくぐれば、笑顔を絶やしてはいけない。それが香の掟。返しをくれる人は誰もいない。お帰り、なんて言ってもらえたのはいつのことだったか。

リビングのテーブルには、落ち窪んだ眼窩でひたすらにもやしの根を引きちぎる、母の姿。既にもやしは半分も残っていない。

「ただいま、お母さん」

反応はない。常のこと。視線をそらせば、珍しく部屋から出てきている妹がいた。

「ただいま、静香」

一音一音はっきりと、大きく音にする。

「お帰り、お姉ちゃん」

静香は自分の手で無理やり口角を持ち上げた。三年前、事故で耳と目を悪くしてしまった静香は表情が欠落してしまった。表情筋で表情を作ることはできず、笑顔はこうやって持ち上げることで表現する。目は光の有無くらいしかとらえておらず、香が笑おうが泣こうが声を上げない限り全く伝わらないだろう。だが、香は笑顔を絶やすわけにいかなかった。母がいかに鬱でおかしくなろうと、妹までも病んでしまっても。せめて、せめて、自分が笑っていれば、この家は最悪の一歩手前くらいでいられると思ったから。

「今夜は、お母さんがもやしの根、抜いてくれたから、青椒肉絲にしようか」

「うん、おねがい」

香はまた笑った。

ただ、香は思う。


自分は本当に笑えているのか。

笑うってなんだっただろうか。

本当にってなんだ。


――笑顔ってなんだっただろうか。

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