第15話 函館山/夜景②

 ふたりの間に、強い風が吹き抜けている。あたりはいっそう暗く、冷えてきた。


「直属の上司のくせに、ずいぶん意地悪なのね、壮馬くんってば。その子をいじめたら楽しいって、あなたも気がついちゃったの?」


 さくらと壮馬が声の主のほうに視線を送ると、叶恵が立っていた。

『HAKODATE』トレーナーの上に、もともと身につけていたジャケットを着ている。もう、そのトレーナーは脱いでくれていいんだけど。


「壮馬くんの恋人は、オトコなの。前途多難だから、男女のらぶらぶしあわせカップルがよけいに妬ましいのよね」

「え、ほんとうですか!」


「……嘘に決まっているでしょ、そんなの。あなたって、ほんとバカ正直よね」


 うわあ、だまされた。


「叶恵。笑えない冗談はよせ」

「でも、夫がいるんでしょ。堂々と彼女を奪うために、地位がほしいのよね」

「もうだまされませんよ! 壮馬さんが不倫なんて」


「それは、事実ですよさくらさん。私の、恋人と呼べない恋の相手は、年上の人妻です」


 ええ? なんてこと? まじめで明るい壮馬が?


「今日、連れてくればよかったのに」

「あの人は忙しい身の上です」

「うわあ。あの人、だって。おかしい。おばさんなのに」


 叶恵も酔っていた。右手にはハコダテワインのハーフボトル。左手にはチョコレート。すごい組み合わせだ。


「壮馬くんはね、『別れさせ屋』に恋人を取られちゃったの」

「やめてくれ、そんな話」

「あら、いいじゃない。聞きたいわよね」


 壮馬には悪いけれど、さくらはうんうんと強く頷いた。


「じゃあ、これ飲んだら教えてあげる。全部よ」

「え」


 見れば、ボトルの半分以上、ワインが入っている。しかも、赤。

 アルコール初心者のさくらにとってワインの赤は、タンニンが強くて口の中が渋くなってしまうのだ。


「私が飲みますから、叶恵は黙って」

「待ってください、壮馬さん。その話って、『別れさせ屋』の根幹にも関わってきそうな感じがするんですけれど」

「大いに関係アリよ、大アリ」


「じゃあ飲みます。叶恵さん、ワインをください」

「さくらさん、やめてください。あなたはお酒に弱いのでしょう?」


「だいじょうぶです。壮馬さん、申し訳ありませんが、お水を用意してきてください。私が叶恵さん……『別れさせ屋』のことで悩んでいるのを知っていて、ご自身の話は黙っていた壮馬さん、それぐらいはお願いできますよね」


 ワインを飲んで、すぐに水を飲んで薄めてしまえばいい。決意した。

 叶恵は笑っている。


「ばかねえ、ほんとに。ルイさんって、こんな単細胞が好きなの? きっと、従順なのね。ベッドの上でも、断ったこととか、ほぼないんでしょ。ベッドのペット。あのルイさんのことだから、激しい体位を求めてきそうだけど、ぜーんぶしちゃうのね」

「そ、そのへんは、ノーコメントです!」


 さくらは高らかに宣言したけれど、先輩社員のとらえ方は違った。


「否定しないってことは……くっくっくっ」

「毎晩、深く交わっているだけありますね」


 まずい流れだ、ふたりとも失笑?


「ちょっと待ってください! 『私たちが毎晩どころか昼間も激しい』なんて、誰にも言っていませんよ? それに、類くんと私は次の子どもがほしいから励んでいるのであって、肉体的な快楽を求めるとかそういうのは、二の次なんですよ?」

「……この子……、おもしろいわね!」


 とうとう、叶恵が吹き出して大笑いした。そんなに笑われてしまうところなのかと、さくらは苦笑い。

 その場の雰囲気に耐えられず、壮馬は『お水を買ってきます』と逃走した。


「あなた、負けず嫌いっていうか、勝負ごと……賭けごと、ギャンブルに向いていそうなタイプ」

「私は、ギャンブルなんてしませんよ?」


「素養があるって話。今度、競馬場へ連れて行ってあげる。おもしろいわよ。私、競馬予想家の知り合いがいるから、最初は教えてもらいなさいよ。ルイさんを射止める強運な女の子だもの、大儲けできるかも」


「ええ? ですから、ギャンブルは全然ですってば」


 しません。興味もありません……と、すぐに否定しようと思ったけれど、叶恵と親しくなることは、さくらの使命だった。


「娘が一緒でもいいですか? 週末ですよね。預ける先がないので」

「もちろんよ。小さい子が行っても、おもしろいと思う。遊具もたくさんあるし」


 動物、といっても馬だけだが……半日ぐらいなら、いいかもしれない。


「じゃあ私、お弁当を作ります」

「よし決まった。で、話が脱線したけれど、飲むの? 飲まないの?」


 目の前に、ずずずいっと差し出されたワインボトル(ハーフ)(飲みかけ)。中身は、グラス二杯分ぐらいだろうか。


 壮馬が買い物から戻ってきた。その手に三本、持っている。お水が二本と、ん? もう一本は??


「よかった。まだ、はじまっていませんね」


「ねえ、壮馬くん! 今度、この子と競馬場へ行くことになったの。壮馬くんも来るわよね、なんたって『馬』だもん」

「私がそのネタでずっとからかわれてきたこと、知っていてまだ言うのか」

「はいはい。お父さまが競馬好きだったのよね。競馬場の近くに家を建てるぐらい。ついでに、壮馬くんの実家にも突撃しましょうよ!」


「とにかく。私もワインを買ってきました」


 どん、と出されたのは、ふつうの大きさのボトル。七百五十ミリリットル。白である。


「正直言って、私の話はさくらさんに聞かせたくありません。あの話は、終わったことですが、今後の会社での立ち位置に影響するかもしれないことを考えると、伝えるべきではないと思います。ですので、私がこれを先に飲み干したら、叶恵の暴露話は無効ということに。さくらさんはお酒が弱いと聞いていますが、ハンデで私は一本。それに缶ビールも二本、すでに飲んでいます」


「だめです、そんな早飲み大会みたいなことは! 健康に悪いです」

「そんなに知られたくないの? 保身? 壮馬くん、必死すぎ。不倫だけど純愛でしょ」

「叶恵、やめてください。そろそろ終わらせるべき恋なんです」

「とか言って、守ろうとしちゃって。はー、いいなあ。玲さんも、守ってくれるかしら」


 そう言いつつ、叶恵はさくらの顔色を窺ってきた。挑発されている。


「……れ、玲は。まじめで誠実で、やさしいし、仕事熱心で、私がこんなことを言うのはおかしいですが、結婚相手としては超優良物件だと思います」

「ルイさんを選んでおきながら、まさかの高評価」


 かつて三角関係だった、きょうだいの事情も、叶恵は知っているようだった。


 壮馬はさくらにペットボトルを一本、無言で手渡してくれた。もう一本は自分用らしい。さくらも、黙って頭を下げて受け取った。


 アルコールを分解するには、水と時間が必要。さくらは勝負がはじまる前に、まずはお水を半分ぐらい、意識的に多めに飲んだ。


 こんなことをしているって類にバレたら、きっと怒られる。


 でも、ここで引けない。


 壮馬の話を聞いて、叶恵ともっと親しくなって、玲の誘惑も断って、無事に帰宅する!

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