第14話 函館山/夜景①

 午後六時、函館山展望台。

 楽しみにしていた薄暮の時間なのに、さくらの心はいっそう沈んでいる。


 あおいにおみやげを買いたいのに。類と三人で、お揃いのなにかを買いたいのに。両親にも。


 なにも、できそうにない。


 類の声が聞きたいけれど、今この心情のまま話したら、とんでもないことを口走りそうだった。

 それにきっと、夜ごはんのしたくで忙しい。父が早く帰って来ることになったらしいけれど、家事に慣れていない男ふたりに、幼児と乳児、柴崎家は大変なことになっているだろう。


「ああもう、人の心配をしている場合じゃないのに」


 しかも、これから景色がうつくしくなるという時間に、急にガス(霧)がかかってきて視界が悪くなってきた。低い雲状のガスにさえぎられ、下界がよく見えない。

 まるで、さくらの心のもやもやを映しているようだった。


 飛行機の時間があるので、それほど長くはいられないのに。

 ガスが切れますように、ガス切れろ……!


 展望台からの眺めがよくない上、風が強いので、多くの人が屋内の売店やレストランで時間をつぶしている。玲も、叶恵の姿もない。


 けれど、さくらが話したい人物が、ひとりだけいた。


 その人は、缶ビールを飲んでいる。


「壮馬さん……っ」


 前髪が、風にあおられて揺れている。

 イップクには、『壮馬も協力者』と宣告されたものの、本人に確かめたわけではない。さくらは直接聞いてみようと決心した。


「さくらさん、おつかれさまでした。あとは、空港に戻るだけですね」

「はい。長い一日でした」

「はじめての屋外活動でしたが、さくらさんには、とてもよくがんばっていただきました。ありがとうございます」


「でも、まだ終わっていません。最後まで気を引き締めていきます。ツアーの第二弾第三弾もできるといいですね」

「明日、お休み……はあげられませませんが、午後出勤なら構いませんよ」


「えっ、ほんとうですか!」


 午後出勤、とても心惹かれる提案だった。

 今夜、類にがんばったごほうびをたくさんもらいたいし、さくらもしてあげたい。朝は、少しだけゆっくりして類を送り出し、たまってしまった家事をして……そこまで考えたあと、壮馬は予想外のセリフを放った。


「最初で最後の一夜、なのでしょう。兄の玲さんと」


 壮馬は缶ビールをあおった。ごくごくと喉を鳴らしながら。


「ち、違います! そんなことにはなりません。どうしてみんな、そっちに仕向けてくるのかなあ。壮馬さん、ほんとうに玲の味方なんですか? 私、壮馬さんだけは違うと、頼ってきたのに」


「つまらない嫉妬ゆえです」


 ……嫉妬?


 新しい缶ビールを、壮馬はぷしゅっと開けた。


「さくらさんもどうぞおひとつ」

「い、いえ。私はお酒に弱いので、外では飲まないようにしているんです。お気持ちだけいただきます」


「……そうですか」


 周囲が暗いのですぐに気がつかなかったけれど、壮馬はだいぶ酔っているらしかった。


「あなたとルイさんは、仲がよすぎます。ヒマさえあれば、いちゃいちゃしているのでしょう? 子の親だというのに、どうやって合体するかばかり考えているんだそうですね」

「がった……、そんなことありません! 少なくとも、私は」


 類は、否定できないか。


「私は、かれこれ半年ご無沙汰です」


 うわあ、壮馬の赤裸々告白! さくらは目を丸くした。

 酔っている酔っている、壮馬は酔っている!


「私の恋人は仕事が忙しくて。仕事が恋人みたいなものですね」

「で、でも、週に一回とか、週末とか、お互いがんばって時間を作って」


「遠距離なんです。無理して逢って疲労を感じるよりは、お互いにいい仕事をしよう、っていう協定なんですよ」

「そ、それでも、いつかは結婚するんですよね」


「……さあ。どうでしょうか」


 いつになく、壮馬はドライだった。


「こ。子ども、かわいいですよ! 家族っていいですよ! 誰かと一緒に暮らすって、ひとりじゃないって、とても安らぎますよ? 明日もがんばるぞっていう気持ちになりますし」


「そう言い切れる若いあなたが、ほんとうにうらやましい。そして、妬ましい。私に、でき婚なんてありえません。だから、じゃましたくなりました。さくらさんがかつての恋人と浮気したら、どうなるでしょうね、あなたたちの関係は。いったんは隠しても、おそらく隠し切れない。新しい、なにかが生まれるでしょう」


「壮馬さんも、見返り要求ですか? イップクさんみたいに、私の身体が目的ですか? たいしたものじゃないですよ。胸だってないし、痩せているし、抱き心地はよくないですよ」

「イップクさん……なるほど、さくらさんが目的ですか。素直な人だ。ルイさんに影響されていますね」


 あ、しまった。イップクの目的までは知らなかったらしい。

 壮馬は、こみ上げてくる笑いをおさえている。


「私は違います。同じ部署でそんな深い関係になったら、仕事になりません。さくらさんのことはかわいいなと思いますが、そういう対象では見ていません。私は、シバサキで出世したい。社長の息子夫婦のスキャンダルはおさえておきたい、それだけです。兄の玲さんは、一途にあなたを思ってきたのでしょう? たったひと夜ぐらい、いいじゃないですか。ルイさんにはそうですね、『今日じゅうに処理すべき案件が生まれたので、泊まることになった』とか、私が伝えましょう」


「類くんは勘がいいので、多少の嘘は見破られてしまいます。それに、何度も言っていますが、私にはそのつもりがありません」

「でも、揺れているでしょう? あなたが断れば、スイートルームへ招待されるのは叶恵ですよ」


「う」


 痛いところを突いてくる、さすが。


「玲さんに、ほんの一ミリでも心を残しているなら、今夜は受けたほうがいいですよ。おとなの恋、いいじゃないですか」


「いいえ、揺れていません! 私には類くんだけです」


 壮馬に、玲との割り切った関係をすすめられるなんて、思いもしなかった。入社以来ずっと、さくらの味方でいてくれたのに。

 自分が、聡子の娘で類の妻だったから、おのれの出世のために助けてくれていただけだったなんて。


「……これから、私と類くんは、聡子社長体制に反旗をひるがえします。お母さんを、引退させたいんです。社長の専横をなくしたい。『別れさせ屋』撲滅も、その一環です。壮馬さんには、私たちの味方になってほしかったのに……なのに……こんなこと言われるなんて」


「おや、社内クーデターですか。けれど、まだ入社半年ですよ。ほかの社員が納得するかどうか。それこそ専制統治になりかねません」

「ですから、壮馬さんには、類くんトップの新シバサキ体制に、全面協力してほしかったんです。社長の息子でも、早すぎるって私も思うので」


「おもしろい提案ですが、聡子社長はまだお若い。私が社長のお気に入りなことを知っていて、話しているんですか。もし、この話を、私が社長やその側近に密告したらどうしますか。潰されるのはあなたたちですよ。根回しは大切ですが、気配りもお忘れなく」


 なにも、言い返せなかった。

 さくらの見通しは甘かった。

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