第7話 晴天なのに嵐①
空港から十五分後。ベイエリアの駐車場に到着。
このあとは、各自でランチタイムとなっている。
しかし、玲と叶恵のふたりはバスから降りてこなかった。さくらと壮馬は顔を見合わせたあと、参加者たちの誘導を他の総務部社員にまかせ、車内に戻った。
「……叶恵。玲さん?」
壮馬がやさしく問いかける。バスの、後方座席。玲の身体に寄りかかった叶恵がいた。さくらは思わず、ぎょっとした。
「叶恵さんが、途中で気分を悪くしてしまってみたいで。俺、バスに残ります」
申し訳なさそうに、玲が答えた。
「ですが、せっかくの函館です。時間もかなり限られていますし」
「私が、付き添います! 総務部社員の柴崎さくらが! 女性どうしのほうがなにかといいでしょう、ねえ壮馬さん?」
少々、わざとらしい気もしたが、さくらは手を挙げて立候補した。
叶恵をシバサキに復帰させるのは、さくらの仕事。壮馬やほかの社員には、手伝ってもらっているといった部分が大きい。
「そうですね。では、この場は、さくらさんにお願いしましょうか。玲さん、先に食事に行きましょう」
「急いで戻る。交代で休憩を取ろう」
玲も頷いた。
空港から、ずっと叶恵にしがみつかれて、落ち着かなかったはずだ。
「それとも、なにか買ってくるか?」
「……いや。本場の海鮮丼を食べたいし、あとでひとりでも行く!」
ガイドブックで何度も見た、憧れの海鮮丼に対面したい。きらっきらの、ふわふわの海鮮丼! ああ、おなかが空いてきた……うぅ。
気分がよくなったら、叶恵と食事できるかもしれない。ふたりきりになるのは、ちょっと心配だけれど、がんばるしかない。がんばるぞ!
壮馬と玲は、バスを降りて行った。さくらは元気に手を振って笑顔で見送った。
静かな車内に残された、さくらと叶恵。
ツアーの参加者たちがガイドブック片手に、明るい顔で散ってゆく様子が窓の外に確認できた。
ああ、いいなぁ……私もおなかすいてきた……。朝は緊張して、あんまり食べられなかったんだよね、ごはん。
時刻は、ちょうどお昼の十二時。
イカ、サーモン、いくら、まぐろ、たらこ、うに……考えただけでも、うらやましくなる。おなか、ぐるぐると鳴ってしまいそう。
だいじょうぶ、玲ならきっとすぐに戻ってきてくれる。壮馬もいる。
叶恵だって、わりとすぐに回復するかもしれない。
そうだ、今は自分がランチを食べることよりも、叶恵のお世話をしなければ。
このツアー、全行程がうまくいっても、会社および総務部と叶恵の距離が縮まらなければ、収穫が少ない。
叶恵は、先ほどからずっと目を閉じたまま、だるそうにして座席に深く腰かけているけれど、目立って不審なところはない。顔色も悪くはないし、汗をかいているわけでもない。失礼して手を握ったけれど、あたたかかった。
寝ているなら、そっとしておこう。起きているなら……あ。まぶたが動いている。目は覚めているらしい。
「叶恵さん、お水を飲まれますか」
さくらは自分の娘に接するような声で、語りかけた。
「……持ってきて」
なんとも、不機嫌そうだった。
「分かりました」
でも、気分が悪いなら、誰だってそうなる。自分だって同じ。
さくらは、自分の席の下に入れておいたクーラーボックスからミネラルウォーターのペットボトルを一本、取り出した。そして、フタを開けてやる。
「どうぞ」
こぼしたり、落としたりしないよう慎重に、両手で差し出した……のに。
「あら、やっちゃった。ごめんなさいね」
手が滑ったのだろうか、叶恵の手の中にあるペットボトルの水が、半分以上減っている。
さくらは、まともに水をかぶってしまった。
上半身を中心に、じわっと濡れている。座席や下の床にも、こぼれてしまっている。
「叶恵さん、だいじょうぶですか?」
見れば、スカートに水撥ねの跡があった。急いでタオルを用意し、丁寧に拭いてやった。続いて、座面を。その間にも、さくらの衣類はじっとりと濡れて重みを増し、さらに不快度があがってゆく。
どうしよう、弾丸ツアーなので着替えがない!
「そんなところまで濡らしちゃって、いやらしいわね。ルイさんとこの、万年発情期ちゃん」
じ……、事故だ。これは単なる事故。けっして、いやがらせではない。断じて。そう思いたい。思うことにした。しかし、なんでそんなにみんな、自分のことを淫乱扱いするのだろうか、不思議だった。類に、溺愛されているせいだろうか?
「私のこと、覚えていてくださったんですか」
「すぐに分かったわよ。うちに、来たでしょ」
「でも、羽田では『あなた、誰でしたっけ』って」
「そんなことより、早く服を拭きなさいよ。見苦しい」
「あ、すみません」
胸からおなかにかけて、すっかり濡れてしまった。カーディガンは無事だけど、中に着ているシャツがひどい。
チェックの長袖シャツ含め、今日の服はぜんぶ、弾丸ツアーのために、自分で選んで買った、思い入れのあるものだった。
ふだんの服は、なにも言わなくても類が勝手に用意してくれる。趣味がよく、色もサイズもさくらにぴったりなので、文句のつけようがない。モデルだったせいもあり、『レディースの服を選ぶのもすきなんだよねー』と類は軽く言う。
それはそれでありがたいけれど、たまには自分で! と、宣言した服なのに。
反射神経がもっとよかったら、避けられたかもしれない。タオルで軽くたたいて拭き取ろうとするけれど、すでに時遅し。
濡れ→冷え→カゼ→類とあおいにうつったらどうしよう?
とりあえず、脱ごう。だけど、着替えがない。
叶恵は楽しそうに笑っている。こうなったら、こっちも厭味で返してやる。
「そのぶんだと、気分は持ち直してきたようですね」
「気分がむかついたのは、ほんとうよ。あなたと玲さんを引き離そうと思ってね。うまくいった。ルイさんの女にしては、頭が弱くない? お勉強ばかりしてきたんじゃないの」
「『類くんの女』じゃありません、妻です。柴崎さくらです」
「あなたが、玲さんに私の実家の話をしたのね。余計なことを」
鋭い視線で、ぎりぎりとにらんでくる。
そ、そうだった。叶恵は実家にいやな思い出があるんだった。帰るわけ、ないか。よく、函館まで来てくれたものだ。
「今日は、聡子社長へ『玲さんと結婚前提のお付き合いをしている』って報告するために、我慢して来たのに。思わず、玲さんに逢えたのはうれしいけれど、なんで実家に。今夜はね、彼がうちに泊まりに来る予定。新幹線の終電に間に合わないんですって」
「親の家じゃなくて、叶恵さんのところへ?」
ふたりの結婚話は進んでいる? 言えた身分じゃないけれど、やだなあ……意地悪な叶恵が玲となんて。
え、もしかしたら『義姉』になるの? うわあ、きっつい!
真実、ふたりが思い合っているなら仕方ないけれど、玲は消極的だったし……結婚と決めつけるには、まだ早いかもしれない(さくらの希望的観測込み)。
横目で見やると、叶恵は勝ち誇ったようにほほ笑んでいる。美人なだけに、悔しいほどきれい。さくらは咳ばらいをした。
「叶恵さんは私のお姉さんになるかもしれない、ってことですね! この旅を機に、ぜひ仲よくしましょう!」
はじめて、叶恵が顔に困惑を浮かべて言葉を失った。やったぞさくら! この調子だ! 自分を自分で励ました。
「あなた、ほんとうに箱入りっていうか、めでたいわね。さすが、シバサキの生贄ちゃん。なのに、いまだに玲さんにも気がある素振りは、やめてほしいんだけど」
「そんなこと、していません!」
「あら。どうかしら」
負けじと叶恵も言い返してきた。睨み合う。動かない。動けない。
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