#35:駆使する


 ―お昼までなら空いているそうです。そしてぜひ柏木さんにじっくりと話を聞いてみたいです、とシンヤ先生、おっしゃってましたよ。


 さくらさんが嬉しそうにそう告げてくるけど、ちょっと待って。話が僕の意向を置き去りに進んでいやしない? あの正体不明の男に、何の心の準備も無く会うのは避けた方がいいと思う。あらよと向こうのペースに乗せられた挙句、要らぬことを口走ってしまいそうだ。「じっくりと話を聞きたい」? どうせ僕から引き出せるだけ情報を引き出したいだけに決まっている。


 とは言え、さくらさんを交えた場ではどうなんだろう? 前に一度、スピーカー越しにさくらさんがいる状態で、三人で会話をしたことはある。


 その時にシンヤは「さくらさんとの接触を避けろ」と僕には警告していたわけだけど、待ち伏せ不意打ちされた、あの大森の映画館では、何故かさくらさんから逃げるようにして自ら姿を隠した。あれは何だったんだろう?


 普段のことを鑑みると、シンヤはさくらさんに対しては、頼れる先輩風の接し方をしていたし、さくらさんも実際、シンヤの事を信頼・尊敬しているようだ。悔しいことにだけれど。


 でも三人でってなるとどうなる?


 うーん、一度、この三人が一堂に会した場を……経験しておくのも、今後の為を思うと、意義があることなのかも知れない。


「……じゃあ、」


 と、僕は今からシンヤと面談することに承諾の意を見せる。僕からは切り出さなかったけど、さくらさんも同席してくれるようだ。よし、気合い入れろ。どの道、シンヤとは一度ガチで向き合わなければならないと思っていた相手だ。やってやる。そして絶対に、向こうから情報を引きずり出してやる。


 ―では、ご足労ですが、二階のエレベーターホールまでお願いします。私も今から向かいますので。


 さくらさんがそう言って、「対話」は終了した。僕はベッドの上で左手と右ひじを使って、半身を起こす。今はもう、自力でここまでやれるようになったわけだけど、やはり、自分の身体を、自分でどうにかできるということは非常に心強い。何となく、僕はシンヤと対峙する勇気が湧いてきたように感じている。


「……」


 ベッドから、その傍らに横付けされた車椅子へ、腕の力だけを駆使して移動を試みる。マットレスと車椅子のシートとの段差はほぼ無いように調整されているけど、いつも飛び移るかのように慌ただしくなってしまうのが、如何ともしがたいところだ。まあ、自力でやる、それが大事だと思うようにしている。


 僕は、車椅子を左手だけで軽やかに操縦すると(これだけは物凄く自信がある)、穏やかな陽の差す廊下へと進み出していく。


「柏木さんっ」


 約束通り、さくらさんは二階のエレベーターの前で待っていてくれていた。今日はクリーム色のセーターに黒い細身のパンツ、その上から白衣を羽織った、またしても可憐ないでたちであるわけで。さくらさんは、そのまま僕の背後に回ると、優しい動作で車椅子を押し始めてくれる。こんな心穏やかになる時間が、いつまでも続けばいいのに。いや、これからが勝負だ。気合いを、入れないと。


「……シンヤ先生? 佐倉ですけど、入りますよ?」


 廊下を少し進んだところにあった一室。その扉の前で、さくらさんが室内にそう呼びかける。どうぞどうぞ、という、またあの妙に落ち着きのある低音が扉越しに響いてきた。いよいよだ。今度は、押し負けるものか。扉が開き、中でデスクに向かっていた男が、座り心地の良さそうな肘掛け椅子を回しながら、こちらに向き合う。そして、


「……改めましてどうも、柏木恵一さん。『新谷シンヤ 恭一郎』と申します。佐倉クンから、よくお話は伺っていますよ」


 自信を秘めた笑みは前と同じだったけど、あれ? 何か感じが違うな。ぼさぼさだった髪はきちんと後ろへとなでつけられて清潔感がある。口のぐるりを巡る髭は相変わらずだったけど、しっかりと整えられていて、却って精悍な感じを醸し出している。薄い茶の色付きレンズのスカした眼鏡を掛けているところはどうかと思ったけど、まあ、あまり違和感なく収まっている。


 何か肩透かしを食らった感じ……これもシンヤの作戦のうちなのだろうか。「シンヤ」と言えば、胸に付けられたネームプレートから鑑みて、名前じゃなくて苗字だったのか、と少し驚きを覚える。


 さくらさんもそうだったけど、紛らわしいな、いや、今はそんな事を考えている場合じゃない。ここからは緻密な駆け引きが物を言う、頭脳戦だ。

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