#10:談笑する


「すみません、もう少し気を配るべきところを……におい、これからは気を付けます」


 紙コップに注がれた水を僕に手渡しながら、さくらさんがそう申し訳なさそうに言うけど、いやいや。


「僕が注意するべきだったことです。鼻に限界までティッシュでも詰めてくれば良かったわけで」


 ありがたくその冷たい水を一気に飲み干し、人心地ついた僕は、さくらさんに責任が及ばないよう、そう言っておく。僕らは中庭の中ほど辺り、植え込み前のベンチの所に、僕は車椅子を横付けし、さくらさんはベンチに腰かけて、隣同士で座っている。向かい合うよりも何だか緊張しなくていい感じだ。


「ふふ、それは見たかったかもですけど、今後は本当に、においに関して留意しないとですね。鼻栓……医療用のだと綿の、主に止血用のものしかないので、それでにおいを完全にシャット出来るかは微妙なんですよ……それこそシンクロで使う鼻クリップとか? ……ふふ、でもそれ目立ちますよね。さらにマスクをつけるとかする、かしら」


 微笑みを絶やさないさくらさんは、本当、間近で見るとさらに美しく、魅力的なわけで。やれと言われれば鼻をダブルクリップでつまむことも辞さない僕ですよ?


「……ひとつ、分かったことがあるんです」


 とは言え、僕もなす術もなく、あの昏倒体験を二発も食らっていたわけじゃない。当事者として発見した事実がある。何かしら? と僕の目をのぞき込むようにじっとさくらさんは聞きの態勢に入るけど、ちょっとそれ、どぎまぎするんですけど。


「……一度食らったにおいには、二度は反応しないってことです。昨日中庭に来た時に漂っていたキンモクセイの香り、あれで僕は一回昏倒しました。そして今日、改めて中庭を訪れた僕は、確かにまたその香りを認識していた。にも関わらず全然平気だった。ということは……」


 一種類のにおいにより、想起される記憶もまたひとつ、記憶が呼び覚まされる時だけ、一時、僕の意識がブラックアウトするというのなら、その記憶が蘇ったら、それに紐づけされたにおいに関してはもう打ち止め? みたいになると考えられるのでは。……ということを僕は述べる。なるほど、みたいな顔をしてから、さくらさんはふと真顔になり、質問をしてくる。


「では……今回柏木さんが『食らった』においと言うのは……?」


 うーん、ちょっとそれは言いにくいけど。いや、でもここは正直に話すことにした。今後にもつながるだろうという、打算も込めて。


「……さくらさんの……その、バラのような香りのフレグランス? ですか、どうやらそれのようです……」


 僕がそう告げた瞬間、さくらさんは、ぱっと顔を赤らめた。そして、


「ごごごごめんなさいっ。さ、さすがに香水とかは勤務中につけるわけにはいかないんで、でも私バラとかそれ系の香りって大好きで、か、体洗う時にローズフレグランスのボディーソープ使っているんで、そ、それでしたか……」


 さくらさんは慌ててそう言うけど、それを使用しているところを想像しようとしてしまった僕も慌ててそれを頭から追いやる。


「で、でも、もう大丈夫ですので、遠慮なく」


「え……ええ、じゃ遠慮なく、バラの香りを振りまきますね」


 お互い顔を合わせ、くすりと笑う。一気に緊張がほぐれてきたぞ。僕とさくらさんは、その後も人影がまばらな中庭で、いろいろな事を話し合ったわけで。もちろん、好きな小説は、みたいな話に持っていって、さくらさんも村上春樹好きということを聞き出した。


 けど、これって僕が意図的に「予言」のことをなぞったことになるよなあ、つまり、予言が真実のものなのか否かは、今回でははっきり判別は出来なかったことになる。まあそれはおいおいでいいとしよう。


 とにもかくにも「9がつ22にち」のノルマを果たしたかのような清々しい気分になった僕は、その日はすんなりと眠りに引きずり込まれることが出来た。さくらさんとの「はつデート」を、思い返してにやにやしながら。


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