3.
そもそも私が透子さんの元を訪れたのは、傷だらけの現実に耐えられなかったからだ。だから十三怪談を逆手に取る形で、透子さんと自分を入れ替えてもらおうと思った。
確かに透子さんの不思議な力で全身の傷が消え去り、それだけで大分生きづらさは払拭された。だが、根本的な問題が解決したわけではない――現実の世界に戻ればクラスメイトがいるし、家に帰れば親がいる。傷が消えても、その原因までは、消えない。
「ふん。この私が、十三怪談の透子さんが、どうしてそこまでしてやらなくちゃいけない? さっきのは、貴様の無謀に敬意を評しただけだ」
「け……敬意?」
「そうだ。あそこまで露骨に警告をしてやったのに、その
警告とは、
「あ、あなたは入れ替わりの怪談なんでしょう……? どうして、私と入れ替わってくれないのよ……?」
「そりゃ簡単な話だ。わたしが、この世界から出ようと思ってないからさ」
「は?」
「そんな不思議な話でもあるまい。――お嬢さん。我々怪談ってのは、人間を恐怖と絶望に陥れる存在だ。で、貴様が今もっとも恐怖しているのは他ならない、現実そのものなんだよな」
「…………」
そのとおりだ。私がいま最も望んでないことが、このまま現実に強制送還されることだ。なまじ傷のないコンディションを知ってしまったのも良くなかった――こんな最高の状態を味わっておきながら、また元の傷だらけの現実に戻るなんて、考えるだけで身をよじりたくなる。……案外、そのために私の傷を治したのかもしれないと考えれば、この怪談は――いやらしいにもほどがある。だから私は、面と向かってそう言った。
「嫌な人ね。あなたは」
「怪談にとっちゃ最高の褒め言葉だぜ」
透子さんはニヤニヤと私を見下した。
「しかし、そんなに嫌なもんかね。現実ってのは」
「当たり前でしょ。知った風なことを言わないで。何でもかんでも思い通りになるあなたと一緒にしてほしくない」
「なんでもかんでも思い通りに、ねぇ」
クックック、と透子さんは笑った。そのドスの利いた嘲笑は怪談の名に相応しく、ゾッとするような声色だった。
「ここは透明人間の世界だぜ。なんでもかんでも思い通りになったところで、誰もいねぇんじゃ何の意味もねぇよ。そりゃ最初の数年はいいかもしれんがな……よし、貴様ちょっと来い」
言うなり、透子さんは私の腕を掴んで屋上の
目を開けると、透子さんのニヤニヤした顔がそこにあった。
「ふはははは! いい顔だ! ドキドキしただろ、なぁ!?」
「な……なにを……!?」
「人生ってのは、ドキドキしてなくちゃいけねぇからよ。さぁ来い。もっとドキドキさせてやる」
透子さんの白くて細い指が、くいっと上を刺した。すると私の身体も上へ、上へと上昇していく。気がつけば雲を突き抜け、街全体を見下ろせる高さにまで飛翔していた。
「ひ、ひぃっ――」
「ビビんな、落ちやしねぇよ」
透子さんが私の手を取り、バランスを取ってくれた。あたふたするだけの私と違って、慣れた様子で空気に乗っている。
「見てみろ。ちっぽけな街だと思わねぇか?」
促されるままに、灰色の街を見下ろす。透子さんの言う通り、とても小さくてちっぽけな街だと思った。学校も、私の家も、等しくミジンコ程度の大きさしかない。そこに住む一人一人の存在など、さらに矮小で取るに足らないものだろう。
「こんなちっぽけな場所で、お前は一人でずっと悩んでたんだぜ」
そう言われて、少し心が軽くなったような気がした。普段住んでいる街を上空から
視点が広くなるにつれ、自分の思考が狭かったのだと思うようになる。クラスメイトは勿論、親だって、いつまでも一緒にいるわけじゃない。世界は広いのだ。同じ場所にいつまでも居続ける必要なんてない。
「その通りだ。辛いことも、苦しいことも、ずっと続くわけじゃねぇ。止まない雨は無い、なんて綺麗ごとを言うつもりは無いがな――透明人間でいることに比べたら、ずっと短い悪夢だよ」
透子さんは相変わらずニヤニヤしていた。それは仮面だった。感情を決して見せない仮面。そもそも怪談に、感情があればの話だけど。
上空を飛びながら、透子さんはこんな話もした。
「親に虐待を受けている。クラスメイトに苛めを受けている。それってお前が一人で悩んで解決することじゃないぜ。人を頼れ。といっても学校の教師じゃ役に立たん。平日にしれっと学校を休んで、市役所の教育委員会ってとこに行け。そこで貴様が味わってきた物語の数々を、相談員に話すんだ。ウソ泣きの一つでもかましてやれりゃあ文句はねぇ。貴様は身柄を保護される。するとどうだ? 教職員、クラスメイト、家族一同は、揃って真っ青な顔をする――考えてみただけで傑作じゃねぇか?」
目からウロコだった。それまでは、学校の担任に相談するものだと思っていたし、そうしたところでどうにもならないと思っていた。だけど、透子さんが教えてくれた方法なら、確かに傑作だと思うことができた。
「で、でも――そんなことしたら将来的に」
「阿呆。将来もクソもないくらい、粉々にブッ壊してやるからいいんだろうが。貴様なんて最初から失うものが無いんだ。だったらもうどうなったっていいじゃねぇか。どうせ貴様は何をやっても上手くいかなかった、それはこれまでの人生が証明してるだろ?」
そこまではっきり言わなくても――と思ったけど、その通りだった。そもそも怪談に
私は――自分に期待しすぎていたのかもしれなかった。もっとよい人生を、最善の選択を。理想ばかり高く掲げてしまって、自分で自分を動けない状態にしていたのかもしれない。
傷つくことを恐れていたら何も始まらない――そう思えたのは、生まれて初めてのことだった。
「将来を心配するだけ無駄だ。どうせ貴様は社会になんて適合できねぇ。諦めて自分にあった仕事を見つけろよ。そうだ、小説家ってのはどうだ? わたしという怪談を後世にまで語り継ぐ。どうだ、ワクワクしてくるだろう?」
「ふっ――ははは――」
気が付けば、私は笑っていた。大声で笑うなんて久しぶりのことだった。怪談に夢を語られている、この状況はなんだろう。おかしい。おかしすぎて、涙が出る。
だけど……悪くない。
無謀な未来を語るのは、ワクワクする。
「けっ。良い顔しやがって。肩透かしな奴だ」
それはどっちのことだ、と言いたくなった。最初は自暴自棄的な気持ちで訪れたのに、気が付けば怪談に励まされているのだから。最初は嫌な人だと思ったけど、蓋を開ければ世にも珍しい、優しい怪談。それが赤い扉の透子さんだった。
ゆっくりと高度を下げつつ、私たちは旧校舎の屋上に降り立った。
「どうだ、ワクワクしただろう?」
「うん……ありがとう、透子さん」
透子さんと入れ替わってもらう、という当初の目的こそ適わなかったものの、どうにか現実の世界に戻っても、負けずに頑張れるかもしれないという希望が、確かに私の中に芽生えていた。
この先、私はどんな人生を歩むか分からない。
だけど、この優しい怪談と出会ったことを、忘れることはないだろう。
「そうか、それはよかったな」
ニコリ、と透子さんは笑った。
「いい顔だぜ。そういう奴こそ、透明人間にさせ甲斐があるってもんだ――」
その笑顔に潜む愉悦が、いつしか狂気を伴っていることにも気が付かず。
透子さんの後ろには、いつの間にか真っ赤な扉が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます