2.

 透明人間の世界というくらいだから、きっととんでもない光景が広がっているのだろうと、私は覚悟を決めていた。だが、現実としてそこにあったのは、なんのことはない、想像どおりの屋上だった。ただ、致命的に常識と異なっているのは、あらゆる色彩が欠けている、ということだった。深い藍色を湛えているはずの夜空は灰色に染まり、月の光は白んでいる。

 いや――欠けているのは色彩だけじゃない。虫のさざめきも、夜風の運んでくる心地よさも、背筋を伝う嫌な脂汗の感触も、どこか現実感がない。なにか、どこかが欠けている。それを、上手く言葉にはできないけれど。とにかく、この空間は異状であることを、私は本能的に感じ取った。


「ようこそ、わたしの世界へ」


「……!?」


 振り向くと、そこにはセーラー服の少女が立っていた。赤い扉と、私の間にちょうど挟まる恰好で。それだけで、彼女もまた異常な存在であると証明するには、十分すぎるほど十分だった。


 彼女こそが、「赤い扉の透子さん」に間違いない。


「ふーん……ほうほう」


 彼女は後ろ手で扉を閉めると、私の全身をくまなく見定める。その表情は、ニヤニヤとした笑みに覆われている。


「傷か、なるほどな。貴様、それが嫌でここに来たってわけだ」


「え、え?」


「――背中に三つの刺し傷、腹部に五つの打撲痕、前髪に隠れた額に四つの火傷、鎖骨の下に切り傷が六つ、かかとに無数の画鋲痕――これでようやく折り返しというところだが、続きを聴くかね?」


 彼女は、私が負った傷を正確に当てていた。あの僅かな時間で、しかも服の上からだ。


「ど――どうして、それを」


「愚問だな。この世界は――透明人間の世界は、私のテリトリーなんだよ。即ち、。証拠の一つでも見せてやろうか?」


 透子さんが指をパチン、と鳴らした瞬間、体が軽くなった――それまで全身を苛んでいた苦痛が、嘘のように消えてしまったのだ。背中の鋭い痛みも、腹部の鈍い痛みも、鎖骨のじんじんする痛みも、踵のずきずきする痛みも、すべて無くなってしまった。もはや体の一部となっていた「痛み」が消えてしまったことに困惑し、私は言葉を失った。


(でも……ああ、「どこも痛くない」って、こういう感じなんだ……)


 唐突に訪れた解放感を、どう受け止めていいのか分からなかった。ただただ楽になったのが嬉しくて、涙が勝手に零れてきた。


「泣くな泣くな、みっともない。女が泣いていいのはな、男を私利私欲に使うときだけだぞ」 


「ど、どうして……」


 嬉しさと同時に懐疑心も湧き上がってくるのが、私という女だ。どうして怪談が私の傷を治してくれるのか。その行為に一体どんなメリットがあるというのだろう。


 透子さんは質問に答えない。代わりに、尊大な口調で言う。


「さ、気は済んだかね? 


「……え?」


 予想もしなかった一言に、私はますます混乱してしまうのだった。

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