エピローグ

 雪が溶け、花々が咲き乱れ、木々が青々と茂り、そして雪が地上を白く染め上げる。

 いくつかの季節が過ぎ去り、アッシェンにまた春がやってきた。


「……まだか。まだなのか?」


 懐中時計を手に、オスカーはそわそわと室内を行ったり来たりする。

 明け方に、ジュリエットが産気づいた。産み月を迎え、そろそろ生まれるだろうと医者に告げられた、まさに翌日のことだった。


 こんな時、男というのは本当に無力だ。

 陣痛の訪れに酷く苦しむ妻を前に、オスカーはただおろおろと彼女の背中を摩り、励まし、侍女たちに医者を呼んでくるよう指示することしかできなかった。

 またたく間に医者から部屋を追い出されて以降は、食事も休憩も取ることなく、ずっと居間で落ち着きなく過ごしている。出産はいつだって命がけで、男は祈ることしかできない。

 エミリアがそんな父を呆れ顔で見つめながら、ロージーの淹れてくれた茶をゆっくりと一口啜る。


「お父さま、おろおろしたところでお産は早く進まないわよ」


 エミリアもジュリエットを心配する気持ちはあるだろうが、こういう時は、女性のほうが案外肝が据わっているものなのだろうか。

 冷静に指摘され、オスカーは狼狽えてしまう。


「それはわかっているが……しかし」

「しかし、じゃないの。今、ジュリエットは一生懸命頑張ってるのよ。お父さまが取り乱してどうするの?」


 ぐうの音も出ない正論に、オスカーは途端に黙り込んだ。

 近頃、エミリアはますます大人びてきた。十五歳という年のせいもあるのだろうが、一番の原因は恋人にあると思う。

 そう、娘の恋人――世の大半の父親にとっては、恐らくあまり面白くない相手である。


 ジョエル王子とエミリアは、少し前から結婚を前提に前向きに付き合っている。といっても、婚約を結んでいるわけではない。


『エミリーには、最後まで選択肢を残しておきたいですから。もちろん私は彼女を妃にしたいですが……王族と婚約してしまえば、彼女の未来を狭めることになるかもしれない。そんな風に、エミリーを縛り付けたくはないのです』


 先だって挨拶に来た折、王子はそのようなことを言っていた。

 娘の恋人という一点においてなんとなく気にくわない気持ちはあるが、まだ年若いというのに、中々見どころのある青年だとは思う。

 政略結婚が主流であるこの時代において、ジョエル王子の考え方はまだまだ希有なものだ。

 しかし恐らく彼の考えはこの先、エフィランテにおける貴族や王族の結婚の形を大きく変えていくことだろう。


「エミリアさまは立派にご成長なさいましたね。この分だと、すぐにお嫁にいってしまうかも」

「勘弁してくれ、ロージー……」


 ただでさえこのところエミリアの成長ぶりがめざましく、少しさみしい思いをしていたのだ。娘を嫁にやるのはできればもう少し先がいい。

 密かにそう願った、その時だった。


 アッシェン城に、耳をつんざくような大きな泣き声が響き渡る。

 ほどなくして、バタバタと駆けてくる足音が聞こえた。ノックもせずに外側から扉が開かれ、出産の手伝いをしていたメイドたちが顔を出す。


「ご主人さま、無事お生まれになりました! 元気な女の子です!」

「ジュリエットは――」

「大層お疲れではいらっしゃいますが、お元気です」


 その言葉に、オスカーは情けなくもその場に崩れ落ちそうになった。

 無事でよかった。

 真っ先に、安堵が胸に溢れる。次いで、新たなる命が生まれた喜びも。


「奥さまがご主人さまとエミリアさまをお呼びです。どうぞ、いらしてください」


 メイドに促され、オスカーとエミリアはすぐさま産室として使われている部屋へ向かった。

 清潔に保たれた室内に、赤子の泣き声が満ちている。

 広い寝台の側にはメイドたちが控え、口々にジュリエットを労い、彼女の額に浮かんだ汗を拭いてやっていた。医者が赤子の身体を拭いているのも見えたが、ここからではその姿をはっきりと確認することはできない。


 まずは、何はともあれジュリエットだ。

 横たわる彼女の顔色は白く、髪は汗で額に張り付き、ぐったりした様子だ。

 これで本当に元気なのだろうか――と心配になるほどだったが、彼女はオスカーとエミリアの姿を認めるなり微笑んだ。

 世界一、美しい姿だと思った。


「旦那さま、エミリアさま……」

「ジュリエット! 本当にお疲れさま……! 喉、乾いていない? 何か食べたいものはない? あっ、果物を用意させましょうか!?」


 どう考えてもジュリエットは今すぐ何か食べられる様子ではないが、どうやらエミリアもしっかり取り乱していたようだ。

 オスカーとジュリエットは、目を見合わせて微笑む。

 そうしている内に医師がやってきて、産着に包んだ赤子をオスカーに向けた。


「さあ、伯爵。お嬢さまですよ。抱いてあげてください」

「い、いいのだろうか……」

「いいも何も、この子のお父さまではありませんか」


 医師がおかしそうに笑う。ジュリエットにも視線で促され、オスカーはこわごわと赤子を受け取った。

 エミリアの時も思ったが、生まれたての赤子というのはふにゃふにゃと頼りなく、力を込めれば壊してしまいそうなほどに脆い。

 それなのに泣き声は力強く、小さな手足をバタバタとさせて、必死に生きていることを主張する姿からは不思議とたくましさを感じる。


「――エミリアも、ほら。妹を抱いてやるといい」


 目をきらきらと輝かせ、生まれたばかりの妹を見つめているエミリアに言えば、彼女は思い切り緊張した面持ちで手を伸ばす。

 ゆっくりと慎重に赤子を受け渡すと、エミリアの顔に温かな笑みが広がった。


「……かわいい。初めまして、わたしがあなたのお姉さまよ。あなたはたくさんの愛情を受けて、良い子に育つわ。お姉さまとたくさんお話しして、たくさん遊びましょうね」


 そう言ったエミリアの目は少し潤んでいた。オスカーもジュリエットも、娘の言葉を聞いて涙ぐむ。

 皆が泣いている。

 それなのに、今、ここにあるのは世界一幸せな光景だった。


 そして最後に、小さな命がジュリエットの手に渡る。その頃には赤子は泣き止み、ぱっちりと目を開けて、ジュリエットを見つめていた。

 もちろんまだ目は見えていないはずだけれど――。

 ジュリエットと赤子の視線が確かに交わり、そして彼女は一筋の涙をこぼしながら、こう言ったように聞こえた。


「――久しぶりね、ジュリア。あなたにずっと、会いたかった」


 まるで旧友に会えたような、懐かしげな笑みを浮かべながら。


§


 それから、たくさんのことがあった。

 ジュリアが成長し、翌年には長男が生まれ、その二年後には更に次男が生まれて。そして間もなく、エミリアが嫁いでいく。

 もちろん、オスカーと小さな衝突をしたり、喧嘩をしたこともあったけれど、後になってみればそのすべてが笑い話となるような些細なことばかりだった。


 信じられないような幸せな毎日。

 そしてきっとこれからも、たくさんの新しい幸せを紡いでいく。


 もし叶うならば、怯えて縮こまってばかりで、互いに向き合うことのできなかった過去の自分たちにも教えてあげたい。

 そんなことは無理だとわかっているけれど――でも、手紙を書こうと思う。

 今は暗闇の中にいて絶望しているかもしれないけれど、いつか必ず幸せになれるふたりへ向けて。


 書き出しは決まっている。



 拝啓 氷の騎士とはずれ姫だったわたしたちへ――。

 

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