第120話
イーサンの右目から、血が流れている。かつて彼がオスカーにそうしたように、今度はオスカーがイーサンの右目を奪ったのだ。
痛みに呻くイーサンを、すかさず騎士たちが地面へ縫い付けるように拘束する。
「貴様ァァァ! 赦さんぞ、オスカー・ディ・アーリング!! 殺してやる!」
右目から血を流し、後ろ手に縛られてなお口汚くオスカーを罵るイーサンの姿に、かつて皆から慕われた『完璧な公爵』の面影は欠片も見当たらない。
今ここにあるのは、ひとりの女に固執するあまり彼女を喪い、筋違いな復讐と怨嗟に囚われた悲しい男の姿だ。
「ジュリエット、こちらへ」
剣を鞘に収めたオスカーが、ジュリエットに向かって手を伸ばす。よく見ればその腰には、かつてリデルの送った剣帯が着けられていた。
「いいえ――オスカーさま」
手を伸ばすオスカーに向かって、ジュリエットはそっと顔を横に振った。
自分にはまだ、やるべきことがある。
視線だけでそう訴えて、イーサンの元へ歩み寄った。
目の前に落ちる影を見て、イーサンが弾かれたように顔を上げる。
「リ、リル……。やはり私を選んでくれるんだね? アッシェン伯ではなく、この私を……」
期待を宿した目で、奇妙に歪んだ笑みで、ジュリエットに縋るような視線を寄越すイーサンを前に、なんともいえない悲しさと哀れみが込み上げる。
彼がなぜ、いつから、自分にこれほどの執着を抱いていたのか。それはわからないし、知りたくもない。
イーサンは、自分と一緒ならリデルは幸せになれたはずだと言っていた。
だけどきっと彼の目には、自分の幸せしか映っていなかったのだろう。昔も、今も。
「おいで、リル……。君の好きなお茶を用意しているんだ。新しい君の部屋も……だから……」
騎士の拘束を解こうと必死で身体をよじりながら、血まみれの顔で必死でジュリエットを見上げるイーサンの姿が、かつて大好きだった従兄の姿と重なる。
『おいで、リル。君の大好きなぬいぐるみを招いて、お兄さまとお茶会をしよう』
ジュリエットは一瞬、感傷に浸るように目を閉じた。
大好きな従兄だった。
いつも頼もしく、優しい彼を心から慕っていたのだ。
どうしてかつてのまま、よき従兄のままでいてくれなかったのだろう。そうすればきっとリデルは今でも彼のことを兄のように慕って、時折お茶会に招いて、他愛もない話に花を咲かせていた。
(でもそれは、お兄さまの望んだ形ではなかったのね)
だから彼は、リデルを自分のものにしようとした。誰より大切にすべき、リデル本人の意思を無視して。
叶わぬ恋に身をやつすその気持ちは、ジュリエットにもよくわかる。わかるからこそ、イーサンのしたことを赦そうという気にはなれなかった。
彼は、ジュリエットにとって何より大切な人たちを傷つけたのだから。
次に目を開けた時――ジュリエットの心に、もはや過去の思い出に対する未練はなかった。
「さようなら、
「リ、リル……? いやだ、こっちを見てくれ、リル……リル!!」
もう二度と、ジュリエットがイーサンを見ることはないだろう。
血を吐くような哀れな声に背を向け、ジュリエットは今度こそオスカーのほうへ歩いて行く。
「旦那さま」
そう呼んだ瞬間、彼が感極まったように両腕を広げてジュリエットを抱きしめる。
周囲の騎士たちからどよめきが起こったが、オスカーがその手を緩めることは決してなかった。
彼の腕の中は温かく、心地よい。
そこがジュリエットの――リデルの帰る場所だった。
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