第107話
だが、そんな考えは甘かったと、ジュリエットはすぐに思い知ることになる。
「エミリア、ダンスがとても上手くなったね。けれど、まだ少し動きがぎこちない。そうだ、せっかくだからお父上とジュリエットに手本を見せてもらうといい」
「ほら、ごらんエミリア。お父上とジュリエットは、中々息がぴったりだと思わないかい? 婚約者同士でも中々ああ上手くはいかないよ」
「アッシェン伯爵家にはまだ男の子がいない。誰かよい女性が、跡取りを産んでくれれば安泰なのだが……」
イーサンはことあるごとに、エミリアの前でオスカーとジュリエットが特別な関係であるかのような発言をした。
見かねたオスカーが口を挟むも、何も悪いことは言っていないと白を切るばかりで、態度を改める気はないようだった。
イーサンが王の甥、王太子の従兄でさえなければ、オスカーももっと強く抗議していたかもしれない。
しかし「ムキになって否定するなんて、図星だととられても仕方がない」と言われれば、立場の弱いオスカーにそれ以上の反論は難しかった。
ただでさえ彼は、かつて王女であったリデルを己の領内で亡くしている。
イーサンの言動を見ていれば、オスカーが今もなお王家から厳しい目を向けられ、苦しい立場に置かれていることは想像に難くなかった。
§
「エミリアさま、休憩中にすみません。ジュリエットです」
その日の休憩時間、ジュリエットはオスカーの誕生日会の打ち合わせをするために、エミリアの部屋を訪れていた。
イーサンが王都へ帰れば、間もなくその日がやってくる。
エミリアのサンドイッチ作りも、もはや手伝いがいらないほどに上達し、後は当日の飾り付けや食後に出すデザートについて話し合うだけだった。
扉を叩いてしばらく経ってから、エミリアが顔を出した。
いつもは笑顔でジュリエットを出迎えてくれる彼女が、今はどこか浮かない様子だ。
「ごめんなさい。ちょっと今は……気分が悪くて」
「大丈夫ですか? 顔色も少し悪いですし、もしかしてお熱でも――」
「……ジュリエットは」
ジュリエットの言葉を遮るように、エミリアが口を開く。
「お父さまのことが、好きなの?」
「え――……」
おずおずと、けれど意を決したようにぶつけられた問いかけ。
エミリアのことを思うのなら、そして今のジュリエットの立場を鑑みれば、すぐさま否定すべきだったのだろう。
けれど真正面からジュリエットを見据える、射貫くような氷色の瞳に、咄嗟に言葉が出てこない。
その沈黙を、エミリアは肯定と受け取ったようだった。
彼女の顔に、落胆と絶望と敵意が宿る。
「やっぱり、そう……。おじさまが言った通り。ジュリエットはお父さまが好きだから、わたしの家庭教師をしてたのね……」
一体イーサンはいつ、エミリアにそのようなことを吹き込んだのだろう。
一瞬そんな疑問が頭をもたげたが、この城に滞在している間、彼にはその機会がいくらでもあったはず。今はそんなことより、エミリアの誤解を解くほうが先決だ。
「それは違います! わたしは、少しでもエミリアさまのお役に立てればと思って――」
慌てて否定したが、もはやエミリアはジュリエットの言葉を聞き届ける気はないようだった。
「ジュリエットだけは違うって……。お友達だって思ってたのに……! わたしのお母さまはひとりだけだって前に言ったこと、分かってくれてたって信じてたのに……!!」
「エミリアさま、お願いです。聞いてください、わたしは――!」
エミリアを落ち着かせようと、ジュリエットは小さな肩に手を伸ばす。
けれどすっかり頭に血が上った彼女に対して、それはあまりいい手段とは言えなかった。
「いやっ! 触らないで! あっちに行ってよ!」
パン、と甲高い音が上がり、手にじんと痺れが走る。エミリアが、ジュリエットの手を払いのけたのだ。
爪が当たったのか、手の甲からは微かに血が出ている。
突然のことに驚き、目を見開くことしかできないでいると、エミリアは明らかにうろたえた様子を見せた。先ほどまで赤かった顔色も、すっかり青ざめている。
元々、とても優しい子だ。自分でもまさか怪我をさせてしまうとは思っておらず、動揺しているのだろう。
「あ……っ」
唇がわななき、何かを紡ごうとしたその時。
「――何をしている!」
廊下の向こうから、鋭い叱責が飛んできた。
見ればオスカーが、険しい顔をしながらジュリエットたちのほうまでやってくる。
「エミリア、今ジュリエットに何をした? お父さまの目には、お前が彼女を叩いているように見えたが」
「……」
「黙っていてはわからないだろう。何があったのか、お父さまにきちんと話してみなさい。何か理由があるなら聞くから」
エミリアは答えなかった。
オスカーがため息をつき、今度はジュリエットに視線を移す。彼はジュリエットの手の甲から流れる血に気づくと、軽く眉をひそめた。
「血が出ているじゃないか。早く手当てをしないと」
「大丈夫、このくらいすぐ治ります。ちょっと手が当たっただけですから。ね、エミリアさま」
ジュリエットの言葉に、エミリアは一瞬、その目を潤ませた。
けれどすぐ唇をぐっと引き結ぶと、逃げるように部屋の中へ引き返し、扉を閉める。
「――エミリア!」
「旦那さま」
追いかけようとするオスカーを制止し、ジュリエットは静かに首を横に振った。
「今はそっとしておきましょう。大丈夫。また後で、エミリアが冷静になった時に話し合えばいいんですから」
「あなたがそう言うなら従おう。だが、傷の手当てはすぐに受けてくれ。あなたが血を流しているところは……もう二度と見たくない」
「ええ、わかりました。メアリに頼みます」
こんな小さな傷でも、オスカーにとってはかつて首を掻き切って自死したリデルと重なってしまうのだろう。
オスカーを安心させるように微笑み、ジュリエットは自室へ足を向ける。
――いやっ! 触らないで! あっちに行ってよ!
耳の奥にこびりついたエミリアの叫び声に、胸を切り裂かれるような痛みを感じながら。
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