第106話
『リル。君は知らなかったろう。私が君の十六歳の誕生日に、陛下へ婚姻の許可をいただきに上がろうと考えていたことを。なのに陛下はそれより早く、あの鼻持ちならないアッシェン伯に君を降嫁させると決めたんだ』
『でも、お兄さまは……。わたしを好きなわけではありませんよね……?』
『私は――。いや、君は私の妹も同然だ。身体も弱く、姉姫たちのように次々と縁談が舞い込むでもない。そんな君を娶るのは、私だけだと思っていたんだよ』
あの日、イーサンはひとつ嘘をついた。
そのことを、今でもずっと後悔し続けている。
§
翌朝、ジュリエットはオスカーから朝食の場に呼び出され、食堂へ向かっていた。
いつもはエミリアと共に食事を取りつつマナー指導をしているジュリエットだが、イーサン滞在中は自室で食事することになっている。
(食堂にはお兄さまもいらっしゃるのよね……。なんのご用かしら)
昨晩の一件もあり、なんとなく不安な気持ちを抱えながら食堂へ到着すると、そこにはオスカーとエミリア、そしてイーサンが待っていた。
オスカーの隣はいつも通り空席だが、なぜかその場所に、ひとりぶんの食器が並べられている。
誰か後から来るのだろうか。
しかし、あれは恐らくオスカーが『
戸惑うジュリエットに真っ先に声をかけたのはイーサンだった。
「ああ、よく来てくれたね。ジュリエット」
(ジュリエット……?)
昨日まで彼は、自分のことを『ヘンドリッジ女史』と呼んでいたはずだ。
親しげな呼びかけと満面の笑みに違和感を覚えつつ、ジュリエットは助けを求めるようにちらりとオスカーを見る。
しかし彼も、この状況がなんなのかよくわかっていないようだ。困惑したような表情が返ってくるばかりだ。
そしてエミリアもまた、幼いながらにこの場の空気の異様さを感じ取っているらしく、心配そうにイーサンとオスカーの顔を見比べている。
「あの、公爵閣下。これは一体――」
「そんなに不安そうな顔をしないでくれたまえ。君を食事に誘いたいだけだ」
「とんでもないことです。わたしは家庭教師の身に過ぎませんので、貴族の方々とご一緒に食事をとるわけには参りません」
「はは、謙遜を。
確信を持った視線と言葉からは、彼が既にその事実の裏取りを済ませていることが窺えた。
「なんでも、エミリアが無理を言って君に家庭教師になってもらったみたいだね。伯父として、姪のわがままを詫びさせてもらいたい」
強張って言葉を発せずにいるジュリエットに、イーサンはどこまでもにこやかだ。元々リデルが知っていた優しい従兄の顔は、けれど昨日までとは別人のようで、それをひどく薄ら寒く感じてしまう。
考えすぎかもしれないが、まるで彼の本当の顔は冷徹な表情のほうで、今浮かべているこの優しげな笑みこそが仮面のような印象すら受けた。
「……わたしのほうこそ、とても楽しく過ごさせていただいておりますから」
「それはよかった! 実は私も心配していたんだ。亡きリルの夫であるアッシェン伯は、私にとっては義弟のようなもの。そんな彼が、ようやく気に入りの女性を見つけたなんて喜ばしいことだからね」
あれほどオスカーを敵視していたにも拘わらず、まるで以前から彼のことを気に掛けていたかのような物言いだった。
「さあジュリエット、席につきたまえ。一緒に食事をとろう」
「でも、そこはお母さまの――」
エミリアもまた、父が長年自身の隣の席を空けていた理由は知っていたはずだ。
思わずと言った様子で口を挟んだ彼女に、しかしイーサンは有無を言わさぬ態度で言い聞かせる。
「いいかい、エミリア。いつまでも亡くなった人のことで悲しんでいては、リデルも辛いはずだ。ジュリエットは君をよく教育してくれているし、何より君のお父さまは彼女を気に入っている。そうだろう、アッシェン伯」
「クレッセン公、娘の前でそういった話はやめていただきたい」
「エミリアももう十二歳。隠すようなことでもないだろう」
何を、ということは明言をせずとも、イーサンがどういった意味でそんな発言をしたのか、ジュリエットは即座に理解した。
(あえてエミリアの前でそんな話をした意図まではわからないけれど……)
彼女はイーサンの発言の意味を分かっただろうか。
できれば気づかないでいてくれるとありがたい。でないと、母思いで優しいエミリアはきっと傷ついてしまう。
だが、ここであえて反論してもイーサンはきっと聞く耳を持ってくれない。彼がただ優しく親切な男性でないのだということを、この期に及んで気づかないほどジュリエットも愚かではなかった。
今はイーサンがおかしなことを言わないよう、彼の指示に従っておいたほうがいいのかもしれない。
あと二日も滞在すれば、彼は王都へ帰っていく。エミリアへのフォローはその時でもいいだろう。
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