第105話

 それはジュリエットが食事を終え、メアリと共に庭の散歩をしていた時に起こった。


「今夜は空が綺麗ですね。星に手が届きそう」

「ふふ、メアリでもそんなロマンチックなことを言うのね」

「……お嬢さまは、わたしのことをなんだと思ってらっしゃるのですか」


 やや不満げなメアリを宥めながら、庭を彩る美しい花々の香りを楽しんでいると、ふと、背後から芝生を踏みしめる音が聞こえた。

 

「驚いた。最初に報告を受けた時はからかわれているのかと思ったが、本当に侍女を連れているのだな」

「え……?」


 棘のある物言いと低い声音に、最初それが誰だか分からなかった。振り向いた先にイーサンとその護衛の姿を見つけ、慌てて居住まいを正して頭を下げる。


「し、失礼いたしました。クレッセン公爵閣下」


 イーサンは小さく鼻を鳴らすと、皮肉げな笑みを浮かべてジュリエットの許まで近づいてきた。

 間近で上から見下ろしてくる様に、あえて威圧感を与えているかのような印象を覚える。


「一家庭教師に過ぎない身で侍女を連れているとは、ヘンドリッジ女史は随分と特別扱いされているようだ」

「面目次第もございません。若輩者の身、心配性の父がどうしても目付役をと言い張ったものですから……」


 理由は分からないが、イーサンがジュリエットを快く思っていないことだけは伝わってきた。敵意をむき出しにしてくる従兄の姿に困惑しながら、当たり障りのない答えを返す。

 しかし彼は鼻白んだような顔を向けながら尚も冷たい声を浴びせてきた。


「それに、前の家庭教師――エヴァンズ男爵夫人だったか。彼女は君が追い出したのだとか。その若さで、随分としたたかなのだな」

「そのようなことは……。男爵夫人が自らその職を辞されたことは、伯爵閣下にお聞きになればわかるはずです」

「あのような男の言うことが信じられるものか」


 歪んだ笑みに彩られた唇が、吐き捨てるようにそう言う。

 そこには、エミリアに対して向けていた『優しいおじさま』の表情など欠片も存在しない。ただオスカーへの憎しみと嫌悪が宿っていた。


「アッシェン伯が、次から次へと新しい家庭教師おんなを囲っていることは知っている。君は今までの女たちとは毛色が違うようだが、中身は同類なのだろう」

「え……」

「アッシェン伯と君が最近図書室でよく逢瀬をしていると、報告が上がっている」


 そこまで言われて、ジュリエットはようやく気づいた。

 イーサンは、アッシェン城へやってきた家庭教師たちがオスカーの愛人だと思い込んでいるのだ。もちろん、ジュリエットも含めて。

 下世話な勘ぐりに衝撃を受けたが、過去の一件もあり、そのこと自体は無理もない話かもしれない。だが、次にイーサンの発した言葉はさすがのジュリエットも聞き捨てならなかった。


「可愛いエミリアにも悪影響を与えるだろうに、節操のないことだ。まったく、妻を殺した男が汚らわしい」

「そんな……! 伯爵閣下はそんなことしていません!」

「ははっ。まさか君も〝マーシー峡谷の悲劇〟とやらを信じているのか? 罪から逃れるための作り話を真に受けて主人をかばうなど、めでたい娘だな」


 そうではない。自分には過去の記憶があるのだ。

 よほどそう訴えたかったが、憎しみにとりつかれているイーサンに言ったところで、きっと信じてはもらえないだろう。

 それでもなんとかオスカーのことを誤解してほしくなくて、かつてのイーサンの優しさに縋る気持ちで口を開いた。


「……あの方は、そんな方ではありません。とても優しい方なのです」

「ふん。愛人風情が、まさか主人を愛しているとでも言うのではあるまいな?」


 否定しようとした。否定するべきだった。

 けれど、自分の想いにに蓋をしてただ口をつぐむだけだった気弱な前世の記憶が、どうしてもそうさせてくれない。


「君は――」


 俯いたまま視線をさまよわせていると、視界の端でイーサンが怪訝そうな顔をしたのが見える。

 彼はそのままジュリエットの頤に手を掛けると、やや強引に仰向かせた。

 瑠璃色の目が、じっと探るようにジュリエットの目を覗き込んでくる。


 その瞳の奥には、何か得体の知れない感情が浮かんでいて――気づけばジュリエットはイーサンの胸を思い切り押し返していた。


(怖い……!)


 前世で親切にしてくれた従兄にこんなことを思うのは、失礼なことかもしれない。

 けれど、だからこそジュリエットには自分を覗き込む彼の目がまるで、獲物を睨めつける蛇のように感じられてとても恐ろしかったのだ。


「そろそろお部屋に戻りますので、失礼いたします……! メアリ、行きましょう」

「はい、お嬢さま」


 メアリと共に足早にその場を立ち去ったジュリエットは、だから背後でイーサンが愉しげに呟いた声に気づくことはなかった。


「――ああ、そこにいたんだね。可愛い私のお姫様プリンシア……」

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