第108話

 自分の部屋でひとり静かに泣いていたエミリアの元にミーナがやってきたのは、それから一時間も経った頃だった。


「エミリアさま、お加減が悪いと伺いました。ハーブミルクティーをお持ちいたしましたので、よかったらお召し上がりになりませんか?」

「ど、どうぞ……!」


 くまのぬいぐるみを抱きしめていたエミリアは、慌てて涙を拭って返事をする。

 程なくして、湯気の立つティーカップを銀盆にのせたミーナが顔を見せた。彼女はエミリアを見るなり、小さく眉をひそめる。


「まぁ……泣いていらっしゃったのですか?」


 涙を拭ったとて、泣いていた痕跡を消すことは簡単ではない。

 恐らくは潤んだ瞳か、擦って赤く染まった眦を見て泣いていたことに気づいたのだろう。


「そんなにお加減が悪いのですか? でしたらすぐに、ハリソン先生を――」

「ううん、違うの。具合はもう悪くないわ」

「では、何か悲しいことでもあったのですか?」


 痛ましげな目を向けられ、エミリアは言葉に詰まった。

 どうやらジュリエットも父も、先ほどの出来事を誰にも話していないらしい。そしてエミリア自身、あまり誰かに知られたい出来事でもなかった。


 するとミーナがエミリアの両手をとり、柔らかな眼差しを向けてくる。


「エミリアさま、わたくしはリデルさまより、あなたさまをお守りするよう仰せつかっております。どんな小さなことでもいいのです。どうか……わたくしにだけは、なんでもお話しください」

「ミーナ……」

「ですが、無理にとは申しません。ハーブミルクティーを飲んで、心が落ち着いて、それでお話する気になったらお教えください」


 勧められるがままソファに腰掛け、カップを手に取る。

 一口飲むと、優しい甘さと慈しみ深いハーブの香りが口いっぱいに広がる。胃を満たす温かな感触はどこまでも優しく、またぽろりと一粒、涙があふれ出す。

 カップをソーサーに戻し、エミリアはその涙をミーナに見られないよう、慌てて顔を背けた。

 けれど、溢れだした涙はもう止まらない。


「エミリアさま……。きっと、とてもお辛いことがあったのですね。ここにはわたくし以外おりません。存分に泣いていいのですよ」


 顔を覆って泣きじゃくり始めたエミリアの背中を、ミーナは赤子をあやすように優しく叩いた。ぽんぽん、ぽんぽんと一定のリズムで叩かれている内に、胸の中で嵐のように吹き荒れていた悲しみや後悔が、少し落ち着いてくる。

 やがて泣き止んだエミリアは、先ほどの出来事をミーナに打ち明け始めた。


 ジュリエットが父を好きかもしれないこと。

 彼女自身、それを否定しなかったこと。

 父が母以外の女性を妻にするかもしれない不安に怯え、思わずジュリエットの手を振り払ったこと。

 その際、故意ではないもののジュリエットを傷つけてしまったこと――。


「ジュリエット、傷ついてた……」


 何もそれは、怪我のことだけではない。

 エミリアに拒絶された瞬間の彼女は、本当に悲しそうな顔をしていた。まるで、大切な者に突き放されたような表情だ。


「ジュリエットのこと、嫌いなわけじゃないのに……」


 すんと洟をすすり上げながら、エミリアはもう一口、ハーブティーを飲む。

 ジュリエットはエミリアにできた初めての友人で、優秀な家庭教師で、大切な存在だ。そんな彼女が父を好きだと言うのなら、応援すべきなのだと頭ではわかっていた。

 けれど、どうしても感情が追いつかなかったのだ。

 

 ジュリエットだけは、エミリアのことを理解してくれていると思っていた。打算抜きで、エミリアのそばにいてくれるのだと思っていた。


(だって、前にジュリエットは言ってくれたもの。わたしのお母さまはリデルお母さまだけじゃなきゃ嫌だって言った時、そんなの当たり前だって……)


 それなのに、ジュリエットが父への好意を否定しなかったために、つい頭に血が上ってしまった。

 本当は彼女も父を狙っていたのだと、自分たちの友情もあの言葉も嘘だったのだと、勝手に裏切られたような気持ちになったのだ。

 

「ジュリエットはずっと、わたしの我が儘のせいでそばにいてくれたのに……」


 誕生日会の夜、初めて彼女と会った時から、何か不思議な親しみを覚えていた。

 子爵令嬢として社交界デビューを控える彼女に、無理を言って家庭教師になってもらい、それから半年近くもの間を共に過ごしてきた。

 ジュリエットはいつも親身になってエミリアを教育してくれ、エミリアのためとあらば時に父や、エヴァンズ男爵夫人にも反論してくれた。

 そんな彼女を、エミリアは一方的に傷つけたのだ。


「わたし、ジュリエットに酷いことをしたわ。とても、酷いことを」

「大丈夫、そんなときは謝ればいいのです。……謝れる相手がいるというのは、幸せなことです」


 どこか遠くを見るような目で、ミーナが言う。


「どんなに後悔しても、謝る相手がいなければ……決して救われることはないのですから」

「ミーナ?」


 一体彼女は、なんの話をしているのだろう。

 首を傾げたエミリアだったが、その瞬間、視界が大きく揺らぐ。まるで目眩のような、強烈な睡魔のような、不快な感覚だった。


 身体の均衡を失ってそのままソファに倒れ込んだエミリアは、声を出そうとして、それが叶わないことに気づく。手にも足にも力が入らず、自身の身体に起こっている異常を訴えることもできない。

 視界が徐々にぼやけ始める中、ミーナが側までやってくるのが見えた。

 口を開いて、彼女が何かを告げている。


(ミーナ、何を言っているの……?)


 必死で彼女の口元に注目する。その唇は、謝罪を紡いでいるように見えた。

 やがて泥に沈んでいくような感覚と共に、エミリアの意識は現実から切り離された。

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