第103話
その日、アッシェン城は物々しい空気に包まれていた。
「お花の配置は大丈夫かしら? クレッセン公爵閣下は百合がお好きでいらっしゃるから、お部屋には必ず百合を飾るようにね!」
「公爵閣下やお付きの方へのお食事の手配は、滞りなく済んでいるな? 何か粗相があれば、ご主人さまにご迷惑がかかるからしっかり確認するように」
「ちょっとあなた、お仕着せの裾がほつれていてよ? 今すぐ直してらっしゃい。もうそろそろ公爵さまがご到着なさるのよ」
城内では賑やかに声が飛び交い、城外からもまた騎士たちが警備の確認をする声が聞こえてくる。
何せ今日から二日間、亡き王弟の嫡男であり、現クレッセン公爵が査察にやってくるのだ。ほんの少しの不手際もあってはならないと、それぞれ緊張した面持ちで各々の仕事にあたっている。
ジュリエットもまた、公爵を迎えるに相応しいドレスに身を包み、エミリアの部屋でお辞儀の特訓に突き合っていた。
「ねえジュリエット、わたしのお辞儀、おかしくないわよね?」
ドレスの裾をつまみ、優雅に礼をし終えたエミリアが不安そうに何度目かの問いかけをする。
「大丈夫ですよ、エミリアさま。綺麗なお辞儀です。それに、あんまり練習しすぎたらクレッセン公爵がいらっしゃる前に疲れてしまいますよ」
「そうだけど……。せっかくだからおじさまに成長したわたしを見てもらいたいの。そしたらおじさまに、新しい家庭教師は素敵な先生だってわかってもらえるでしょう?」
なんともいじらしい言葉に、自然と微笑みがこぼれる。
「ありがとうございます。エミリアさまは本当にお優しいのですね」
「ジュリエットはわたしの大切なお友達だもの! おじさまにも、きっと気に入られると思うわ」
「そうだといいのですが……。あ、でもクレッセン公爵の前では、あくまでわたしのことは家庭教師として扱ってくださいね」
今のジュリエットはあくまで平民の家庭教師。外部からの客人を前に、あまり分をわきまえない行動を取るべきではないだろう。
「わかったわ。おじさまの前では、ちゃんと先生って呼ぶわね!」
扉を叩く音が聞こえたのは、打てば響くようなエミリアの返事の直後だった。
物見から、街道をやってくるクレッセン公爵一行の姿が見えたと報告があったらしい。
「そろそろご到着なさる頃ですので、皆さま正門にお集まりください」
メイドの言葉を受け、ジュリエットとエミリアは連れだって部屋を出た。
正門にはオスカーとエミリア、そして上級使用人がその背後に整列する形で勢揃いする。
「毎年のこととはいえ、緊張しますねぇ……」
「本当に。例年通り、何事もなく終わればいいのだけど」
「クレッセン公はご主人さまと違って使用人の礼儀に厳しいのですよ。私語は慎みなさい」
メイドの誰かがカーソンに叱責される声が聞こえ、その場に沈黙が落ちる。
静かな、けれど落ち着かない空気の中、ジュリエットも固唾を呑んでイーサンの訪れを待った。
やがて正門の向こうから、門番の声が響く。
「クレッセン公爵ご到着! 開門!!」
客人の到着を告げる重々しく厳めしい声。それを合図に、重い鉄扉がゆっくりと開かれた。
六頭立ての白い馬車と、それを取り囲む大勢の騎士。クレッセンの紋章である天馬を縫い付けた旗が、風を受けて揺れている。
従者の手を借りて悠々と馬車から降り立ったのは、金髪に瑠璃色の目をした美丈夫だ。
王太子の側近として、長年その重責を担ってきたためだろうか。記憶の中にあるより少し年を重ね、髪を短くした美しい従兄は、以前に比べて随分と貫禄が増したように見える。
思わずまじまじとその姿を観察していたジュリエットは、周囲の使用人たちが頭を下げる気配に気づき、慌てて倣った。
やがて馬車の扉が開く音がし、少し遅れて凜とした低い声が響いた。
「クレッセン公爵、イーサン・ディ・ラングフォードである。出迎えご苦労」
馬車の階段を降りる音が聞こえ、それに合わせてオスカーが一歩前に進み出る。
「ようこそおいでくださいました、公爵閣下。ご到着を一堂、心よりお待ち申し上げておりました」
「アッシェン伯においては息災そうで何より」
淡々とした儀礼的なやりとりと、握手の気配。
ジュリエットからはふたりの表情は窺い知れなかったが、どこかひりついたような空気が流れているのは感じ取れた。
(カーソンさんの言っていたことは本当なのかもしれない……)
リデルの死の原因を作ったのがオスカーと思い込み、怒りを募らせ、憎しみのままに剣で斬りつけたイーサン。
そして後悔ゆえか、その剣を避けもせず甘んじて傷を負ったオスカー。
『クレッセン公が今も酷くご主人さまを憎んでおられるのは事実。どうか今度の査察では、エミリアさまのことをお気にかけてくださいませ』
カーソンの言葉を思い出し、つい頭を上げそうになったその時。
「おじさま、お久しぶりです。お会いできて嬉しいです」
エミリアが挨拶する声と、静かな衣擦れの音が聞こえた。
少しだけ顔を上げて様子を窺うと、練習通りの美しいお辞儀をする姿が目に入る。
「……ああ、エミリア。可愛い私の
先ほどのオスカーとのやりとりが嘘のような、それはかつてリデルに呼びかけていたような、柔らかい声音だった。
オスカーの横を通り過ぎたイーサンが、草を踏みしめながらエミリアの側へ近づく。跪き、一人前の淑女にそうするように手の甲にキスをした。
「久しぶりだね。少し背が伸びたかな? それに、一年前と比べて随分とお辞儀が上手になったようだ」
「ふふふ、そうでしょう? 家庭教師の先生に恵まれたの。おじさまにも紹介するわね。ジュリエット・ヘンドリッジ先生よ!」
誇らしげにそう言ったエミリアの視線が自分に注がれるのを感じ、ジュリエットはゆっくりと顔を上げた。
やや離れた場所にいたイーサンが、怪訝そうな表情でこちらを見ている。
「お前がエミリアの新しい家庭教師か?」
「はい、左様にございます。お目にかかれて光栄でございます、公爵閣下」
やや緊張しながら改めてお辞儀をするが、彼は姪の家庭教師にあまり興味を抱かなかったようだ。
「エミリアからの手紙で、平民の家庭教師が来たことは知っていたが……。思っていたより若いな」
「恐れ入ります。若輩者ではございますが、精一杯務めさせていただいております」
「まあいい。これからも主人のため、励むように」
自分が『平民』だからだろうか。
平坦な声と素っ気ない態度は、生前のリデルが知っているものとは随分と違っていた。
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