第101話
医師が帰った後、祖母が「話がある」と言ってジュリエットだけを部屋の中へ呼び出した。
「失礼します。お祖母さま、お加減はどう?」
長椅子の上に上半身だけ起こし、下半身を膝掛けですっぽり覆った祖母を見る。
いつまでも
病を患っているという先入観もあるのだろうか。ジュリエットの目には祖母の姿が一気に弱々しく映り、なんともいえず寂しい気持ちになる。
「まあ、なんて顔をしているの」
そんな孫の内心を知ってか知らずか、祖母は常と変わらぬ呆れた調子でジュリエットを咎めた。
「きっとあなたのお母さまが、何か大げさなことを言ったのでしょう。だけどほら。私はこの通り、元気ですよ」
「お祖母さま……」
あえて明るい声で取り繕っているが、発作によって血の気の引いた顔色はいまだ白いまま。空元気であることは明白だった。
それは本人も自覚していたのだろう。
彼女は小さくため息を吐くと、ジュリエットを手招きする。そして長椅子の空いた部分に腰掛けるよう促した。
「私はね、ジュリエット。若い頃からとても奔放に生きてきたの」
孫娘の手を握りながら、祖母は懐かしげに目を細め、昔のことを語り始める。
それは四十年近く前。まだ彼女がほんの十六、七歳の少女だった頃。今のジュリエットと変わらない年齢だった時の話だ。
「夜会のたびに大勢の殿方を侍らせて、色々な方と毎日のようにお出かけをして……。当時は、随分と眉をひそめられたものよ。〝恋多き女〟なんて呼ばれ方はまだ優しいほうで、ふしだらだとか恥知らずだとかね」
社交界というのは閉鎖的な場所だ。独身の男女が言葉を交わす際は、必ず親や目付役のいる場所でなければならないし、婚約者同士でもない男女がふたりきりで出歩くなどもっての他だった。
けれど祖母は、当時にしてはかなり先進的な女性だったようだ。
さまざまな男性に言い寄られてはそのたびにデートに応じ、たくさんの恋を楽しんできたらしい。
「もちろん、人様に顔向けできないようなことをしていたわけではないわ。単なるデートよ。皆、私に優しくしてくれるし、観劇や薔薇園、色々な場所に連れて行ってくれた。本当に楽しかったわ」
そんな時に、祖母はある青年貴族との出会いを果たした。
彼は、これまで祖母が出会ったどの男性とも違い、朴訥で愛想がなく、言葉数少ない人だったそうだ。
「彼ったら、この私をデートに誘っておきながら、お目付役がいないと駄目だと言い張って年嵩のご夫人を連れて来たのよ。それにいざお出かけすると、自分からは一言も話さないんだもの。最初はね、なんて失礼でつまらない人だろうって思ったわ」
それでも祖母は場を盛り上げるため、一生懸命彼に話しかけたそうだ。
――ご趣味は?
――休日は何をして過ごしていらっしゃるの?
――観劇はお好き?
だがそのどの質問にも、彼は「別に」と答えるばかりで、会話は一向に盛り上がらない。
しかも彼がデートに選んだ場所は、普通の貴族なら到底選ばないような小さく古い、実に庶民的な――悪い言い方をすれば地味な公園だった。
周囲に綺麗な建物があるわけでもなく、何か催し事があるわけでもない。
これにはさすがの祖母も、不機嫌になったそうだ。
「社交界の華と呼ばれている私をこんな場所に連れてくるなんて、安く見られたものね……なんて。私も随分と驕っていたものよ」
当時の自分を思い出したように、祖母は苦笑する。
「ふたり並んで小さなブランコに座って、無言で過ごしている内に、日も暮れ始めて――。もううんざりして、どうにでもなれって思い始めた時に、彼が空を指さしたの」
鮮やかな紫と橙に染め上げられた、それは美しい空だったという。
「これをあなたに見せたかったんです――そう言って、彼は初めて、はにかむように微笑んだわ。私は、わざわざ空を見せるためだけにデートに誘ったのかと思うと、なんだかとてもおかしくなって……その場で笑い出してしまったの」
淑女というものは、扇の影に口元を隠して優雅に微笑むものだ。だけどその時の祖母は、おかしさのあまり、くすくすと声を上げて笑ってしまったらしい。
「そうしたら彼、なんて言ったと思う? 〝いつもの取り澄ました顔より、そちらのほうがずっとあなたらしいですよ〟って。だから私、言ってやったのよ。〝
すると青年は、少し言葉に詰まった後、こう答えたそうだ。
――いつも、夜会に参加するあなたを目で追っていましたから。
その顔は、夕焼けのせいだけとは思えないほどに、真っ赤に染まっていたと言う。
「今思えば私は多分、あの瞬間に恋に落ちたのね。落ちてからはあっという間だったわ」
当時の第二王子から求婚されていたにも拘わらず、祖母はそれを蹴ってその青年――つまりジュリエットの祖父と結婚した。
そうして息子にも恵まれ、ふたりで幸せな家庭を築いてきたそうだ。
「あなたのお祖父さまとの結婚生活は本当に、幸せの連続で……。もちろんたまには喧嘩もしたけれど、それだって今となってはいい思い出と思えるほどにね。だから、お祖父さまを亡くした時は、本当に悲しかった。自分の半身を失うのが、あれほど辛いとは思っていなかったわ」
ジュリエットには祖父の記憶はない。彼はジュリエットが生まれる前に、若くして亡くなったからだ。だが、彼がどんなに妻子思いで優しい人だったのか、どんなに祖母と仲がよかったのか、父から聞いた話でよく知っている。
「アダムと初めて会った時、本当に驚いたの。だって、あなたのお祖父さまの若い頃にそっくりだったんですもの。なんとなく不器用そうなところも、本当に似ていて……だから少し舞い上がって、先走ってしまったのね」
「え? どういう――」
「もし彼とお付き合いしたら、ジュリエットもわたしと同じように、幸せになれるかもしれないって。わたしとお祖父さまのように、幸福な家庭を築けるかもしれないって。そうして、私はひ孫に囲まれながら幸せな余生を暮らす……。そんな、自分勝手な想像をしていたの」
寂しげな祖母の笑顔に、胸が詰まって何も言えなくなった。
確かに、祖母のやり方は強引だったし、褒められたものではなかった。しかしあの強引な態度には、そうした思いが隠されていたのだ。
「私ったら、馬鹿ね。ジュリエットは私じゃなくて、アダムもお祖父さまではないのに。誰より、あなたの思いを尊重すべきだったのに」
「……馬鹿なんて、思いません」
「ふふ、ジュリエットは優しいのね。――さっき、久し振りに夢の中でお祖父さまに会ったの。そして、叱られたわ。あなたの幸せがジュリエットの幸せとは限らないって。本当にその通りね」
小さく咳き込んだ祖母は、ジュリエットの両手を柔らかく包み込んだ。
そして、少し灰色に濁った茶色い目で、ジュリエットを優しく見つめる。
「勝手なことをして悪かったわ。アダムには、わたしからお断りを入れておくから安心してちょうだい」
「お祖母さま……」
「ああ、だけどもし好きな方ができたなら、できるだけ早くあなたの花嫁姿とひ孫を見せてちょうだいね」
しんみりした空気を払拭するように、祖母が図々しい一言を付け足す。
「お祖母さまったら」
目の縁に滲んだ涙を拭いながら、ジュリエットは小さく笑った。
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